見出し画像

スマホの中に見るひとり世界

毎日スマホを片手に、何かを検索している。

YouTubeでビジネス関係の動画を見たり、大好きなバンドのライブ映像見たり。ときには、SNSで流れてくる興味のあるリンクに飛んでみたり。頭のどこかで、面白いこと、成長できそうなことを探している。

いつからか、僕の頭は小さなデバイスの中にヒントや答えがあると思ってひたすらに何かを探し続けてた。でも、ふと客観視する自分もいる。「こんなとこに自分の探している答えはないのにな」。そんなことわかっているのに、何故か毎日同じようなSNSや動画をチェックしてしまう。悲しいったらありゃしない。

僕は一体何を探しているんだろうか。

ぼんやりと家の畳の上で寝転がって目を瞑っていると、死んだじいちゃんのことを思い出した。大好きだったじいちゃん。今年初めに亡くなっちゃったけど、あまり仏壇に拝みに行くこともできずにいたからか、ふっと思い出した。小さい頃、僕が投げかけた質問にはほとんど答えが返ってきて、なんでも知っていたじいちゃん。車も持っていないのに、通りの名前や道なんかもよく知っていた。本も大好きで、自分の宝だと言って「世界文学全集」を揃えてた。やたらと「白鯨」を勧められたけど、あまりの量に読む気になれなかったな。なんでこのタイミングでこんなことを思い出したんだろうか。

もしかすると、心のどこかでじいちゃんに恥じない生き方をしたいからなのかもしれない。物知りで、威厳があって、誰にでも公平で、誰にでも話しかける世話好きな人。自分の記憶を辿っていくと、そんなことに気がついた。(最近見た「リメンバー・ミー」の影響だな、間違いない。)

じいちゃん、僕は一体何を探しているんだろうか。もう聞こうと思っても直接は聞けない。でも、じいちゃんの生き方や姿勢を見てきたから、なんとかやれそうな気もしているんだ。とにかく自分を連れ出して、いろんな経験をさせてくれた。競馬に競艇にパチンコ・・・(ギャンブルばっか・・・)もちろん、そんな事ばかりじゃなく、将棋や料理など、色んなことを教えてくれた。そういえば、亡くなる間際に聞いたっけ。これらのことをどうやって学んでいったの?と。すると、「図書館にはよく行ったなー、わからないことは本とかで勉強したし、人に聞いたりしてね」と言っていた。

今はわざわざ図書館に行かなくとも、スマホがあってすぐにでも得たい情報を得られる。けれど、自分の口からはすぐに得たはずの情報が出てこない。じいちゃんとの違いはなんだろう。身体に染み込ませるには、身体を使って覚えるしかないのかもしれない。実際に動いたり、手で書いたり、会いたい人に会って、聞きたいことを聞いたり。そんなことでしか、人の身体にはなかなか浸透していかないのかもしれない。きっと、僕はずっとそんな人間になることを望んでいたのに、来る日もスマホを覗いていた。そこにはいるはずのない理想の自分を追い求めて。

僕は一体何をさがしているんだろうか。

そっか、そういうことかもしれないね。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?