大丈夫!ダメな自分を受け入れる、ぜんぜん「無」になれない坐禅で学んだこと
禅を組んでも全然「無」になれない
近くの禅寺では、毎週日曜日に坐禅会が行われています。今年の正月から、月1回のペースで通っております。
坐禅を組んで、無心になると心も体もスッキリします、と申したいところですが、人間そう簡単に無心になることなんてできません。
人間は、常に考える生き物であるから仕方ないことで、そもそも禅とは坐禅という修行を重ねる世界なのですから、煩悩の塊のような自分が、おいそれと無心になんてなれないのは当たり前なんですよね。
とはいえ、1年近く通って無心の「む」の字も感じられないことに、苛立ちをおぼえるといったところから始まり、やろうとしたことが、何一つモノになっておらず、一体何をしてきたのだろうかという雑念があふれる様相で、どんどん「無」からかけ離れてゆく・・・・
ぜんぜん、禅じゃないトホホ気分!
行雲流水(こううんりゅうすい)
45分の座禅が終わると、簡単な和尚の法話があります。
昨日の話は、行雲流水(こううんりゅうすい)という話。
行雲流水とは、空に漂う雲や、流れる水の如く自然に任せて、物事に捉われない考え方のこと。
このことから、禅の修行僧のことを「雲水」とも呼ぶのだそうです。
「無心」になれないこと、決めたことができていないこと、こういった「ある可き」という考えを持たないで行動する「さま」なのことなのです。
えっ!本当にそれでいいのか?
きっと、そう思う心が「行雲流水」ではないのですよね、留まっているし、澱んでいる!
行雲流水の境地を会得をして、いつでも「無」になれる状態になれば、決めたことも実行できることができるというふうに受けとめることにします。
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