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一週遅れの映画評:『ぼくらの7日間戦争』勝つことなんて、難しくない。

 なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ぼくらの7日間戦争』です。

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「来週の誕生日をこの町で迎えたい」
 親の都合で東京へ引っ越すことになった千代はそう願い、鈴原はその願いに対し「誕生日まで逃げよう」と提案する。
 
 それは確かに大人への反抗であり、自分の願望を達成するための戦いだ。だがしかしそれは開戦であると同時に、最初から敗北を認めている終戦の「準備」でしかない。
 東京になんて引っ越したくはない、引っ越したくはないが「そうするしかない」。だから本当の願いを隠して「せめてあと一週間だけは」という妥協点を探す。あるいは「誕生日までは居たい」という願いを叶えるために闘争や説得、交渉を行うのではなく「それまで隠れてやりすごそう」という手段を選択する。一生逃げ続けれるわけがない、それでも7日間だけなら隠れていられるかもしれないという妥協点に着地する。
 
 だから作品後半で彼らが直面する問題、自分たちの隠していたことが露わになることで、互いの心を傷つけあうようになってしまう。適度なスリルとちょっとした反抗心を満たすだけの日々は容易く崩れる。その中で本庄の言った
「適当に表面上で仲良く楽しく過ごして、決めた日がくればいいと思っていただけなのに」
 という言葉は、彼らの正直すぎる気持ちだ。

 どうしたって負けることがわかりきった戦いで、本当の願望を隠した願いを遂行する。
 この戦争は最初から隠し事だけで始まっている。丁度いい妥協点が「見えてしまう」頭の良さで、気持ちよく負けるためにしか、この戦いは存在していない。存在していなかったはずだった。
 
 だから彼らの秘密が暴露される展開は、単にネットを利用して戦いを有利に運んだことが、ネットの悪意によって手痛いしっぺ返しを食らったというだけの話ではない。それはこの日々の秘密、初めから本当の願いを隠蔽していた闘争が、その「適切な妥協点を選ぶ」という態度が、反抗しているはずの敵である「大人」の理論と何ら変わらない、という本当のことをも暴いていくのだ。
 
 さらにそこへマレットと名乗るタイ人の子供が加わる。不法滞在者と摘発されたマレットは両親ともはぐれ、一人で国家から逃げ続けている。そこには「ここで終わろう」という妥協点は存在しない。マレットにとって戦いに負けることは、取り返しのつかない事態を招いてしまう。
 それは鈴原たちと真逆だ。
 終わりを決めた妥協でしかない戦い、むしろ親に頼って生きるしかない「日本の子供」として、適度なとことで負けなければ「取り返しがつかなく」なってしまう。
 
 適当に楽しく7日間をやり過ごすつもりだった、適度なところで負けるつもりだった彼らの戦争は、唐突に別の勝利条件を投げ込まれることになる。
 
 妥協の無い決着。
 隠していた欲望を剥き出しにすることと、マレットを救うこと。その二つを満たすことがこの「適切に負ける」ことを目的とした、大人の理論に絡めとられることしかできなかった彼らを、本当の闘争へと向かわせる。
 
 勝利条件さえ明白になってしまえば、自分の隠していた本心を吐き出すことというのは今の若者にとって、実はそれほど難しくないのではないか?
 それは日々匿名であることを自主的に選択できるネットの世界と隣接してるのが当たり前の世代にとって、本音を吐露する訓練はそこら中に転がっている。
 
 本当に難しいのは勝つことではなく、「何が勝利か」を間違えないこと。
 
 それは原作の『ぼくらの七日間戦争』が扱ったテーマを実に正しく、現代を舞台に描いてみせたと言い切ってよいだろう。

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 この話をしたツイキャスはこちらの15分ぐらいからです。


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