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一週遅れの映画評:『劇場版 騎士竜戦隊リュウソウジャーVSルパンレンジャーVSパトレンジャー スーパー戦隊MOVIEパーティー』「この世界」と「あの世界」。ぶつかるから、輝き合う。

 なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『劇場版 騎士竜戦隊リュウソウジャーVSルパンレンジャーVSパトレンジャー スーパー戦隊MOVIEパーティー』です。

無題

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 いままでのスーパー戦隊映画だと2017年の『ジュウオウジャー vs ニンニンジャー 未来からのメッセージ』が個人的には最高傑作だと思っています。で今回の『リュウソウvsルパパト』は、それに匹敵する、あるいはリュウソウジャーの完結後に考え直したら最高傑作の更新が行われるんじゃないかな?ってぐらい面白かった。すげー良かった。
 
 映画の話として『ジュウオウvsニンニン』のことから喋るのはどうかと思うんだけど、たぶん2017年当時もこのキャスで言ったから聞き覚えがある人がいたら超嬉しいんだけど、まずね『ニンニンジャー』の天晴(たかはる)ってキャラクターがもの凄く魅力的で、「バカで直情で熱血」なのに「異様に謙虚で冷静」っていう性質を矛盾なく持っているのよ。
 直情と冷静って相反するように聞こえるだろうけど、これ「自分が直情的に行動してしまうことを、冷静に受け止めてる」っていう、やってしまうことは仕方ないがそれが正解とも思っていないから他人の忠告に耳をかせる(ただ聞いて納得したとしても、行動は止まらない)みたいな、それだけじゃあないんだけど……ちょっと説明が難しい複雑さを抱えた「単純バカ」ってキャラクターなのね。
 そんなキャラクター像を描くのって、やっぱむちゃくちゃ難しくて、わかりやすいエピソードだけを手早く積み重ねただけでは誤解を生みやすい、誤解ともちょっと違うか。大分類としては「単純熱血バカ」なんだけど、もっと細かなパーソナリティを丁寧に見ていくとちょっと単純にそうとは言えないかも?ぐらいの微妙な塩梅で。だからメイン層の子供たちには「頭は良くないけど一生懸命で、それを助ける仲間を信じてる人」として映るし、そこに織り込まれた複雑な個性を読み取れる層にはまた違ったテイストが生まれる……そんな不思議で凄いキャラクターなのよ。
 スーパー戦隊って一年間、約50話+劇場版っていう長い時間を使って作品を作っていくわけで、そういう細かさ複雑さを組み込んでいける土壌があることで描くことのできる人物像っていうのは確かにあって、それはこの「スーパー戦隊」ってコンテンツじゃなきゃなかなか難しいこと、というかスーパー戦隊全体でも困難なことではある。
 その中でこの天晴ってキャラを作り上げたのは、称賛すべきことなのね。
 
 で、『ジュウオウvsニンニン』ジュウオウジャー側は、ものすごく理知的で落ち着いていて常識を持ったキャラクターなんですよ。動物がテーマだからこそ本能に翻弄されない「いきもの」としての姿を描いてて、まぁそれもまた面白かったんだけど、ちょっとそれは割愛ね、ごめんね。いやジュウオウジャーに関しては敵ボスのジニスについてめちゃくちゃ話したいんだけど、ちょっと話がズレすぎるから、それは別の機会にする。
 
 まぁそういった感じでニンニンジャーとジュウオウジャーってすごくテイストの違う「戦隊」なのよ。真逆って言っていいくらい。
 その2つの戦隊が劇場版で同じ舞台に立ったとき、互いの魅力を引き立て合うものすごい作品になったんですよ!ジュウオウジャーの真面目さ誠実さが物語を支えつつ、ニンニンジャーの破天荒さが物語をドライブさせて、まず面白い。その上で一年の間に積み重ねたそれぞれの強みが輝くっていう素晴らしい作品になっていて。
 
 それでようやく『リュウソウvsルパパト』の話なんですが、これっていま話した『ジュウオウvsニンニン』と同じくらい「真逆」の戦隊同士が共闘する話でね。
 
 うーんと、まずルパパト。『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』って、なんというか「いまここにある倫理」を背景としてるわけですよ。怪盗って言い換えてるけど泥棒は悪いことで、警官は社会秩序の守り手で、そういうもの凄くシンプルなバックボーンがある。それはスーパー戦隊シリーズとして二つの戦隊が互いに相容れない、って構造を取るなら基本的な部分はシンプルにしないと無駄に煩雑になってしまうから大正解。
 それでこう「悪ではあるけど理由はある」とか「善であることのままならなさ」みたいな反転をさせる構図って、ま~言ってもちょくちょくあるわけですよ、それこそ1クールものでもね。『ルパパト』が良かったのは「理由があろうともダメなものはダメ」「ままならなさ抱えつつも誠実であり続ける」って姿勢を貫いたことと、それを貫き通すためにホントの最終段階になるまで安易にルパンレンジャー側とパトレンジャー側を和解させなかった、和解させても「個人の感情による和解」と「社会としての否定」が常にセットで語られていて、単純な善悪や感情の話に着地させなかったところにある。
 これってつまり「いまの社会における倫理を信頼する」姿勢なわけですよ。世の中は悪い奴もいるし、どうしようもない出来事、禄でもない言葉で溢れている。それでも、理想として標榜される「倫理」は決して間違っていない。っていうゆるぎない信頼があるからこそ出来るお話で……それって子供に向けたメッセージとして正しいし、素晴らしいと思う。
 そしてそこに「どちらも否定しない/どちらも肯定する」ノエルってキャラクターがバランスを取る感じとか、ものすごく良いお話の構造になっているんです。
 
 それで『リュウソウジャー』なんだけど、これがねー、超難しいことやってるのよ。
 それこそ最初は「蛮族www」「倫理がないwww」って揶揄されるくらい荒っぽくて、私たちが知っている/現実に従ってる「倫理」というものに照らし合わせたら「大丈夫?それ?」って疑問を持っちゃうようなことをするのね。
 でも話が積み重なってくるうちに「これはどうも違うぞ?」っていうのが見えてくる、リュウソウ族には倫理が無いのではなく「どうやら私たちとは違う倫理観があるらしい……?」という部分が段々理解できてくる。ほらこう、文化侵略とかホワイトウォッシュみたいなもんで、私たちは「いまのこの社会」を形成している倫理を尺度にしてしまうけど、彼らは人類とは似てるけど少し違うリュウソウ族で私たちの社会とは少し違った倫理を持っている。私たちは自分たちの尺度で彼らをジャッジしていただけなのでは?ってことを考えさせられてしまう。
 結局のところ、その「リュウソウ族の居る”社会”があり、そこには彼らなりの倫理が存在する」っていうことを――それもその倫理は大枠として見るなら私たちとよく似ている――理解し咀嚼するのに、やっぱり一年っていう尺じゃあないと難しくて。だから『リュウソウジャー』はそれに挑戦した、そして私から見たらそれは成功して達成したように思える。
 たぶん初期は人間側の倫理担当だった「ういちゃん」、社会の倫理はしりつつそこからちょっと外れてる人を仲立ちにすることでやろうとしたのが上手くいかなくて、海のリュウソウ族であるカナロが「リュウソウ族寄りの倫理観だけど、若干人類社会にも適応している」ってポジションになることで(そこにバンバも寄っていくのだけど)ようやく機能した、って惜しさはあるのだけどもね。
 
 だから『ルパパト』は「私の知っている倫理の上で、それぞれの立場がある」をやっていて、『リュウソウ』は「私の知らない倫理がある」をやっている作品。だからこの二つってさっきも言ったように「真逆」な構造をしているんですね。
 
 それはもう意図的で『リュウソウvsルパパト』だと、剥き身のを剣を持って走り回るリュウソウ族をお巡りさん、パトレンの人たちね、が捕まえるっていう、「あ、そうか剣持って街を走り回ったら捕まるわ」っていう当たり前のことを、リュウソウ慣れしてた私たちに改めて教えるっていうのを前半に入れていて。いや、リュウソウ慣れってなんだよ?って話なんですが、まぁそういう「この倫理」と「あの倫理」がぶつかる過程を見せてくるあたり、このアングルは絶対に狙ってる。
 
 そのリュウソウ族の倫理と、人類の倫理であるパトレンを、「人類の倫理から少し離れている」ルパレン側が仲立ちしていく……それこそノエルとかカナロみたいに、っていうのがまた構図としてすごく良くて。
 
 それはやっぱり一年間積み重ねてきたものどうしがぶつかることで、互いを相対化しつつ、それでいて認め合う(その中で「互いの武器を交換して戦う」殺陣の意味深さですよ!)、そうやってそれぞれの強みが輝くっていうのは……単純に面白かった!って以上に「あぁこの作品たちを追いかけていて、良かった……」と思わせてくれる、そういう喜びが感じられて……まぁそれを20年分の重みでぶつけてきたのが『仮面ライダージオウ Over Quartzer』なわけなんだけど、だから去年見た映画で私のベストになったんだけどさ。うんやっぱ好きだわ。この映画も、ニチアサ自体も。見て良かった、いや見続けて良かった。そう思いました。

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この話をしたツイキャスはこちらの10分ぐらいからです。


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