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一週遅れの映画評:『映画 スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて』宇宙よりも多い場所

 なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
 今回からnoteでの更新になりました。

<旧ブログ https://spankpunk.exblog.jp/

 
 今回は『映画 スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて』です。

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 近年のプリキュアは「多様性」への目配せを欠かさない。特に前作の『Hugっと!プリキュア』ではその部分へ向けた配慮が(それは「良くも悪くも」と付けなければならないけども)強く意識されていた。
 『はぐプリ』での多様性は「個人の有り様」が尊重されることとして描かれている。ジェンダー、家系、夢、生き方……すべてが個人個人で異なり、一様にはできない中で「”私”はこうある(こうありたい)」という想いを決して無視しない、そういった「個」が持つ意志を尊重した上で「あなた」の出した答えを絶対に否定しないという方法で多様性を守り肯定していた。
 
 そして本年の『スター☆トゥインクルプリキュア』でも引き続き多様性の肯定という軸は残され、しかしその手法は『はぐプリ』と別のアプローチがされている。
 それがもっとも如実に表れているのが『映画 スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて』なのだ。
 
 本作では星野ひかる/キュアスターと羽衣ララ/キュアミルキーが「ユーマ」と呼ばれる宇宙生物と出会い交流する様子が中心に描かれる。瞬間移動能力を持つユーマによって地球上を飛び回り、沖縄の青い海中からウユニ塩湖、ナスカの地上絵、ギアナ高地、そして地球の核に続いていると言われるバヌアス・ヤスール火山などの様々な一風変わった場所を巡る旅を繰り広げる中で、ユーマを捕えようとする賞金稼ぎの宇宙ハンターが襲い掛かる。
 ハンターたちとハンターを追う宇宙警察の説明によって、ユーマは星の子供であることが判明する。ユーマは触れたもの、出会ったものから影響を受けて成長し、最終的にはひとつの「星」となる生命体なのだと。
 
 ユーマをさらおうとするハンターたちの欲望を大量に向けられたユーマは急速に成長する、地球のすぐ傍で「欲望」からの影響を受け肥大するユーマという「星」は、そのまま成長してしまえば地球を飲み込んで崩壊させてしまう。それを防ぐためにひかるとララは成長しつつある星(ユーマ)の元へ降り立ち、「欲望」ではなくここまでの三人が辿った旅路で培った信頼や友情による成長を促すためにユーマへと語りかける。
 
 成長途中であるユーマの星はひかるとララに「こう成長したい」という可能性、なりたい未来像を提示し、ユーマは「星の夢」としてその示された姿になることを望む。その「星の夢」は三人が巡った地球の印象的な場所をコピーしたものだ。そしてユーマは地球についてそういった印象的で「特異な場所」しか知らない。
 その歪みがあらわれているのがユーマと話をするために、ユーマの「核」へと向かうシーンだ。
 ユーマの星にあるバヌアス・ヤスール火山そっくりの場所――それはひかるから「地球の核に続いている」と教えられた場所だ――から吹き出すマグマの中へ飛び込んだひかるとララは、なぜか「水中」深くに潜っていく。それはユーマが「地球の核に続いている火山」は知っていても溶岩が何で出来ているかを知らないからだ。ユーマが知っている「液状で人が飛び込む先」は、瞬間移動した先で触れた「沖縄の青い海中」だけである。
 ユーマの見る「星の夢」はひどくいびつなパッチワークだ。地球上では「異常だから有名」な場所だけを寄せ集めて一つの星になろうとしているのだから、それも当然のことだ。もちろん宇宙にはあらゆる可能性が秘められている、もしかしたユーマという星は見ている夢の通りの星になのかもしれない……だがそれはユーマが「知っている地球」には似ていても、「実際の地球」とは似ても似つかないものになる。
 
 だがそれだって間違ってはいないのだ。
 ユーマは「ユーマ」という星になる、それ以上でもそれ以下でもなく一つの天体として成立したその星は、地球とまったく異なった存在として宇宙に存在する。たとえどれだけ地球を参照し影響を受け模倣を夢見たとしても、はやり「別のモノ」にしかなれないし、それは同時に「別のモノ」としてユーマという固有の存在であること認めていくことでもある。
 
 ユーマは確かに地球の姿に触れ、その環境を夢見る星になろうとしている。だがユーマが触れたのは地球だけでは無い、ひかるやララを中心に他の地球人や異星人、あるいは愛情友情、あるいは燃えるような欲望。ユーマにとってはどれもが「成長を促す影響」であったはずだ(※本編では欲望を持ってユーマに触れようとするハンターたちは排除されてしまうが、確実に影響を与えてるという意味では決して「欲望の否定」ではないように思う。また「欲望の肯定」は同じニチアサで『仮面ライダーオーズ』が1年をかけて取り組んだテーマであり、映画の尺でそれをきちんと見せるのは難しいからの取捨選択だと私は考える)。
 それぞれの存在から影響を受け、その上でどれとも違う「ユーマという星」になっていく。
 『スタプリ』において肯定される「多様性」とは、その部分なのだ。
 
 『はぐプリ』では成長した「個」の姿を承認することで「多様性」を肯定してみせたのに対し、『スタプリ』ではその「個」が生まれる過程に「多様性」を見いだす。
 違うものからそれぞれに影響を受けながらも、どれとも違うのもに成長していく。それは決して「私」が「私」だけで生まれたわけではないことを意味する、いくつもの「何か」を受け取って曖昧だった存在から「私」は「私」になっていく、他者がいることでそれと照らし合わせることができるから自己を発見できる、というプロセスが「個」の形成には必要不可欠だ。
 そして私という「個」をより正確に、強固に認識するためには多様な「他」がなければならない、だからこそ「多様性」は肯定される。複雑で繊細な対応関係を作るための「多様性」であり、そうやって形成された「私」もまた「どれとも違う私」となってその「多様性」の一翼を担うようになっていく。私が私という固有の存在であるために絶対必要なものとして、そして私が私であるからこそ維持されていくものとして『スタプリ』は「多様性」を肯定していくのだ。
 
 そもそも映画だけではなく、テレビでの『スタプリ』自体がそういった話だ。中学生である星野ひかるはサーマン星人であるララと出会うことで『スタプリ』の物語がはじまる。それは「地球人」という存在にとって初めて「他者」と出会った瞬間でもあるのだ。
 宇宙でたったひとつの知的生命体だと思っていた人類は、人類という種が生まれて初めて「ひとりじゃない」ことを知る。自分たちが多様な知的生命体の一部であることをようやく知る。
 
 私たちは一人一人が「個」であり、誰もが誰とも違っている。それは孤独なのかもしれない。
 けれでも私たちが「個」であることを知ることができたのは、「他」がいたからだ。だから孤独ではない。
 私はひとりきりの私であり、そして同時にそれはひとりぼっちではないことを意味している。
 
 ひかるとララから、あるいは星になろうとするユーマから、私は「多様であること」が本質的に寂しさと優しさを含んでいる――ひとりきりであり、ひとりぼっちではない――のだということを知るのである。
 
 合わせて、「個としての私/多様な他者」「旅路とその終わり」という視点から、『映画スタプリ』は2018年の名作『宇宙よりも遠い場所』(AmazonVideo)に重なる部分が多いので、未見の人はぜひ。

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 この話をしたツイキャスはこちらの14分過ぎぐらいからです。
 https://twitcasting.tv/spank888/movie/574951853

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