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一週遅れの映画評:『ジュディ 虹の彼方に』愛をあげると、悪魔は囁く。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ジュディ 虹の彼方に』です。

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 ジュディ・ガーランドがあの『オズの魔法使い』撮影において、どれほど過酷な環境にいたのかはあまりにも有名な話だ。
 まだ年端もいかない少女を休憩もロクに与えず、体型維持のため食事も制限し、あまつさえその疲労を誤魔化すため覚醒剤を投与していた。それは「今の時代からみれば」なんて生易しいものでなく当時からしてもあまりに異常な状態だったろう。
 
 それでもやはり『オズの魔法使い』は名作で、そこにいるドロシーは信じられないくらい可愛い。
 
 女優として成功するためにプロデューサーから追い詰められ、そこ以外に居場所なんて無いとほとんど洗脳に近い形で納得させられる。それは彼女にまともな教育を受ける機会すら剥奪し、より逃げ場を奪っていく。
 それは呪いだ。人が人にかける呪いとしてあまりに強烈すぎる呪いだ。ジュディの人生はそうやって「使い潰されて」しまうことになる。
 
 それでも彼女は見つける、見つけてしまう。「歌っていると客席との間に愛を感じるときがある」と。
 それは確かに祝福だ、ジュディはそこに自分が歌うことの意味を、そしてそう生きること以外を知らない彼女にとってそれはそのまま「生きる意味」だ。
 
 だからどんなにプライベートが破滅していて、喉の調子も最悪、酒と薬で体がボロボロでもステージに立てば歌えてしまうし、その歌声は素晴らしいのだ。
 
 伊集院光がよく言っているが「どんなに嫌なことやダメなこと辛いことがあっても、これをラジオで喋れると思うと救われるし、それが自分を何とか生かしている」、それとこのジュディは同じだ。歌えるから歌えてしまうから、そこに「愛を感じた」ことがあるから、彼女はステージに立ってしまう。
 
 それが呪いか祝福かはわからない。呪われているからその祝福しか見つけられなかったのか、祝福があるから呪いに耐えられたのか、あるいは呪いと祝福が「同じもの」なのか。観客である私たちどころか、彼女が幼いころに呪いをかけたプロデューサーにも、そして愛を感じた彼女自身にもわからないだろう。
 
 それでもやはり『オズの魔法使い』は名作で、ジュディ・ガーランドの歌声は素晴らしい。それだけは私でもわかる。
 
 例えば一組の男女の間に愛があったとき、そこには遺伝子をもった子供が生まれるとして
 
 自分と客席の間に愛があったとき、そこに何が生まれているのか?
 
 最後、ステージに上がった彼女は途中でどうしても歌えなくなってしまう。そこに客席から歌声が発せられる、それはジュディの代表曲で今まさに歌えなくなった『Over the Rainbow』だ。
 もし間にある愛が何かを生むとしたら、ここにあるのはミームという子供だ。それは彼女が感じた愛を、客席の人たちも同時に感じていたと。それは気のせいかも勘違いかもしれないけれど、でも確かに響き合う愛とその結晶があったことは信じてもいいのかもしれない。
 
 それはきっと「Once in a lullaby/いつかの子守唄」として、ミームという子に捧げられるのだ。

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 この話をしたツイキャスはこちらの20分ぐらいからです。



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