一週遅れの映画評:『ひとよ』なぐって!ころして!かえってきて!
なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『ひとよ』です。
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この本でもいくどか触れたように、ぼくには小学生のひとり娘がいます。
それなりにかわいくて、ぼくとしては大満足なのでが、彼女が「この娘」であることは偶然でしかありません。彼女はぼくが三十四歳のときに生まれましたが、二〇代に作っていたら、それは当然別の子どもだったはずです。いや、それどころか、子どもは基本的に精子と卵子の偶然の組み合わせでしかないので、もしいまタイムマシンで時間を遡り、同じ日のまったく同じ時間に同じ妻と同じ行為を繰り返すことができたとしても、生まれてくる子どもは遺伝的に別人になってしまう可能性が高いのです。
――東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』 より
親にとって生まれてくる子供は偶然の塊である、与えられた可能性のたまたま現出したひとつでしかない。一方で子供からみてはどうだろうか?その子供を形作る遺伝的な要因は「その」両親からしか受け継ぐことができない、その親でなければ「私」は存在しない。つまり子供にとって親は「その」親でしかありえず必然の存在だ。
親から見れば子供は「偶然」であり、子供から見れば親は「必然」になる。
別に「だから子供は親を選んで生まれてくるのよぉ~」などという妄言をするつもりは毛頭ない。ただひとつ言えるのはそこに片方から見れば偶然、片方から見れば必然という不均衡がある、ということだ。特に生まれてすぐの庇護が必要な赤子から十分な成熟を迎える成人前まではその不均衡に親子の関係は曝され続ける。
それは時として愛情を感じさせる健やかなものとなり、時として悲劇と不幸の温床となってしまう。結局のところ「だから良い」とも「だから悪い」とも言うことはできないのだ。
この『ひとよ』ではその悲劇と不幸が描かれる。激しい家庭内暴力を振るう父親、それに追い詰められる母親と三人の兄妹。ついに限界を迎えた母親は父親を車で轢き殺してしまう……それから15年後の一家の話だ。
15年という歳月は子供を大人に変える。偶然/必然の不均衡に曝されていた子供たちも、成長していくにつれて自分の進む道に裁量権を発揮して様々な選択を繰り返し生活していくことになる。それは子供時代では持ちえなかった「可能性」を手に入れていくということだ。当然のごとく上手くいくことばかりではない。失敗したり間違えたり、あるいは「そうするしかない」という状況によってままならない人生を送ることになる。それでもそこには必然では収まることのない「可能性」が横たわっている。
そういった意味で親子の間にある偶然/必然の不均衡は徐々に逆転していく。
自立することで自分の未来を「偶然」に接触させることができるようになる子供たちに対し、体は衰え弱りできることがどんどん少なくなって可能性を失っていくばかりの親は、自分の子供たちがどのような生活をしているかによって未来が左右される「必然」へと緩やかに変化していってしまう。
親子の偶然/必然という不均衡、それが緩やかに逆転してく様はどの家庭でも起こっている。ただこの『ひとよ』はそこに「父親を殺害し投獄され、15年後に戻ってきた年老いた母」という存在にすることで、本来はゆっくりと移り変わっていくはずだった(ゆっくりとした逆転だから適応できる)家族の関係が、突如として変質してしまう様を描き出している。
それはどの家庭でも見られることのはずなのに、それが一気に起こることで困惑する人々の姿はネガティブな共感として訴えてくるものがあった。
似たような状況とテーマを扱ったものとして思い出されるのが、『キラキラ☆プリキュアアラモード』第31話「涙はガマン!いちか笑顔の理由!」である。
主人公・宇佐美いちかの母・さとみは医師として世界中を飛び回っている。この31話はそんな母親が1年ぶりに突如帰宅する、という話だ。
そこでは「大好きな人が居なくてさみしいけど、でも居ないなら居ないで上手くやっていく方法に人間は生活の中で慣れていってしまうよね」といういちかの状況が描かれ、母親の帰宅に喜びながらも「その人が居ない状態で慣れて、作り上げた生活の秩序は壊れて不安定になる」という、親子関係の不安定さと14歳という思春期の子供が徐々に「可能性」を手にし始めていることで偶然/必然の不均衡が変化しつつあることを炙り出している。
数日の滞在で再び旅立つ母親を寂しく思いながらも、そこには一抹の安堵があることを、いちかが母に作ったケーキに描かれた「サングラスをした母の顔」からうかがい知れる。
それは母親が戻ってきた瞬間の顔であり、いちかにとって「戻ってきたその時」がもっとも喜ばしい=サングラスを外して生活を共にし始めた母は「不安」であるという部分を読み取ることができる。
それはまさに『ひとよ』で15年ぶりに帰還した母親と対面する子供たちと同じなのだ。
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この話をしたツイキャスはこちらの20分過ぎぐらいからです。