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一週遅れの映画評:『貴族降臨 -PRINCE OF LEGEND-』敗北の価値、勝者の義務。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『貴族降臨 -PRINCE OF LEGEND-』です。

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 貴族はどうやって貴族になるのか。
 君主からの命によって「貴族」という位が与えられる。王様が認めることで初めて貴族は「貴族」に「成る」のである。つまりは王という権威、威光がなければ貴族は貴族でなく、王を支え尽くすからこそその王が持つ力の一部を借り受ける。そして王は自分の助けとなる者の力量を見極め、それに相応しい爵位を与える義務と責任を持つ。

 『貴族降臨 -PRINCE OF LEGEND-』において、ホストたちは非常に強い権力を身につける。夜の世界を支配し統治し、夜の帝王として振る舞う。
 だがそこには常に「夜の」という前置きがかかる。世界の大本は「昼の」もので、前置き無しに「支配者」と名付けられる者は必然的に太陽の昇る時間を支配する者のことだ。
 
 だから「夜の」世界から「昼の」世界に進出しようとするとき、ホストたちには別のペルソナが必要だ。まばゆい輝きで覆って目を眩ませてしまえば、出自や過去を隠すことのできる夜の世界とはちがい、陽光に照らされた昼の世界では全てが詳らかになってしまう。
 だからホストたちは「貴族」を名乗る。自分たちの過去から目を逸らし、昼の世界を闊歩するための仮面として「貴族」というペルソナを被るのだ。そして遂に夜から昼へ、月の世界から太陽の世界へと貴族は「降臨」しようとする。
 虐げられた者、持たざる者、這い上がる者として世界に自分たちの存在を認めさせるために。
 
 そのために「学校」という舞台を支配しようと画策するのは理にかなっている、そこは昼間にだけ解放されるある種の聖域であり、夜の世界を締め出すことで成立している場所だからだ。だから夜の世界から昼の世界へと降り立った象徴として「学校を支配する」というのは非常に意味のある事。
 
 だがそこには「王子」がいた。
 
 下克上を目論む貴族と、それを阻む王子。
 
 その結果は火を見るより明らか。
 貴族の力は、王の力の借り物だ。その貴族が王の直系である王子に敵うはずがない。
 
 ホストたちは貴族である自分たちを「エレガント」であると誇る、だがその「エレガント」さを決定するものこそが王なのだ。彼らは最初から王の決めたルールの中でしか優劣を競えない。
 代わりに王には責務がある。きちんと力を示したのなら、彼らを「貴族」として認めねばならない。それこそが王の定めなのだ。貴族が貴族としての価値が無ければ、それは翻って王の権力にも価値が無いことを意味してしまう。
 
 だから貴族は絶対に王子には勝てず、同時に王子は貴族に正当な力があることを証明しなければならない。『貴族降臨』はそういった意味において、決して貴族の価値を貶めることなく敗北させ、それだけの力を持つ貴族を治める者として王子の価値を証明させたのである。
 
 それはEXILEから始まったLDH JAPANの図式として、引いては男女問わずアイドル文化や芸能文化の戯曲化として非常に上手くまとまっている。
 時代を担う中心人物、王子がいて、その周囲には王子に匹敵するだけの貴族がいる。グループには(あるいは事務所には)多くの支持を受け中心となる人物がいて、それだけでなくその周辺のメンバーにもそれぞれにファンと人気がある。興行は中心人物を引き立てながらその周囲を固める者たちを決して貶めない……そういった面が必要なのだ。
 
 それを見せる意味でLDH JAPANが作る『貴族降臨』という作品は、非常に意義のある……ファンに向かって「君たちの好きなものを、自分たちは大事にしたい」という宣言としてあるように思う。

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 この話をしたツイキャスはこちらの20分ぐらいからです。


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