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一週遅れの映画評:『Cats』拡張された身体、あるいはその希望について。

 なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『Cats』です。

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 ミュージカルとしての『キャッツ』は80年代前半からある作品で、日本でも、いまググると1983年が初公演っていう……古い、いやまぁ「ミュージカル」って歴史からすれば新しいのだけれども、ええと伝統ある?でいいのかな、伝統ある作品で。
 私もあれたぶん90年か91年くらいに劇場へ見に行ったことがあって、正直子供だったからあんましピンとは来ていなかったのと、それに付随する家族の思い出が割とネガティブでそっちばっか覚えてる関係でほぼ記憶には残ってないのだけど……。
 それでもなんとなく「すごいものを見たのかもな」って漠然とした印象は残っていて、ていうのも「劇団飛行船」ってわかる?子供向けに「赤ずきんちゃん」とか「七ひきのこやぎ」とかを着ぐるみでやっている劇団があって、小学校入る前とかわりと頻繫に親が連れて行ってくれてたのよ。
 で、私にとって舞台で見る演劇が「面白いし楽しいけど子供向け」ってイメージがどうしてもあって、で、そこにダンスと歌で「着ぐるみじゃないけど猫の恰好」をした人が、なんだか難しい話をしている。っていうのは「なるほど自分が見てたのは、こういうのを子供向けにしたやつ」なんだ、っていうのを言葉ではなく心で理解したッ!的な印象で残っているのね。
 
 まぁそれは『Cats』と直接関係は無いんだけど、えーと、だから『Cats』っていうお話、つまり脚本やストーリー自体は今さら何も言うことは無いというか、そこに対してあーだこーだ言っても大して意味がないし実際言及のしようが無いとは思う。
 
 その上で何を見るか?といえば歌とダンスと演出。特に舞台ではできない映画だからできる部分にスポットを当てなければならない。
 
 だから世間の不評もそこにあるんだよね。舞台と客席は物理的な距離で隔てられている、出てくるキャットたちの顔や体を「アップで見る」ことなんて、まず考えられない。強いて言うならカーテンコール後に客席を回ってきたりするけども、それは「本編を見終わってキャッツたちへの好感を抱いている」状態なわけよ。
 だから今の映画技術で「猫の姿をした人」をドアップで映されたとき、反射的に嫌悪感みたいのが湧いてくる人がいても不思議では無いと思う、思うけど……まぁそこで評価をしてしまうのは「評論」としてマジクソだよね。きもちわるーい、ぶきみー、へんなのー、が批評として機能すると思ってるなら今すぐ筆を折れ馬鹿野郎っ!ってレベルの話。
 
 そういう罵倒をしてる時点で、私が今回の映画『Cats』が割と好きだっていうのは伝わると思うんだけど、何が良かったってダンスですよダンス!
 
 ダンスって単純に言えば「身体を使った表現」なわけで、それはマイムマイムや花いちもんめから前衛の暗黒舞踏までそう言い表せるわけですよ。
 人が手足や体全体、表情、身体の延長として声までも使って行う表現の総称としてダンスは存在していて、それだけでは足らなくて例えば舞台装置を使って光やスモークで演出したり、衣装を作ったりしてその「表現」をなんとしてでも拡張しようとしている。
 
 そうやって考えたときにキャッツたちが踊る「表現」の一環として、あの雄弁な「しっぽ」って実に素晴らしいんですよ!
 
 例えば犬の感情表現を私たちは「しっぽ」から読み取るように、あの「しっぽ」って非常に有用なもので、恐らく両手両足だけで表しきれない感情を知っているダンサーほど「自分にあのしっぽがあれば」と思うんじゃないか、と。
 ダンスとして「表現」を行うなかで、四肢を越えて「拡張される身体」として「しっぽ」があることを認識させたっていうのはものすごく大きい。それも舞台ではできない、後からCGで描き足せる映画だからこそできる表現として、いまの技術で『Cats』を映像化する意味って非常に重要だと思うんです。
 
 で、これって実は二次元作品のダンス、とくに近作のプリキュアシリーズがエンディングとかでやってることとものすごく近似で。つまり衣装やガジェットがそのパーソナリティを表す「記号」である二次元キャラクターにとって、ダンスもまたそのキャラクターを人格化する「記号」である。つまり魔法の力で変身したり、特別な武器を取り出すことも「表現」として意味を持っていて、それはキャッツたちが持つ「しっぽ」と同様なんです。
 
 ダンスがダンスという表現として、より雄弁になるための「身体の拡張」
 それをこのレベルで演出できる、表現できる、というのを見せつけた『Cats』は本当に素晴らしかったし、同時にキャラクターが持つモノ(衣装や道具のみならず、手足やセリフ、声も含め)全てがその「キャラクターの人格を表す記号」として機能する虚構のキャラクターを生み出してきたサブカルチャーと、現実の人間との融合がこの先の未来では待っているのかもしれない、という希望として私は受け取りました。

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 この話をしたツイキャスはこちらの16分ぐらいからです。


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