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一週遅れの映画評:『野生の呼び声』海の底から漏れ出す遠吠えの歌

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『野生の呼び声』です。

無題

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 夢のような幻覚を見る、それは古代から脈々とこの星に根付く意志であり、それに触れたものは世界の真実に目覚めていく……。
 
 これは1903年にジャック・ロンドンが書いた大ヒット作『野生の呼び声(The Call of the Wild)』であり、同時に1928年にH.P.ラヴクラフトが書いた『クトゥルフの呼び声(The Call of Cthulhu)』でもある。
 
 『野生の呼び声』の主人公である犬のバックは擬人化一歩手前と言えるまで人間的な行動や思考を見せる(それは発表当時にもそのように批判されていた)。私たちが感じるようにバックは喜び、悩み、苦悩し、恐れる。
 その中で自分の中に流れる狼の血/本能を感じ、大自然の中で暮らすうちに徐々にその本能に惹かれていく。最後には愛する者の死に背中を押される形でその「野生の呼び声」に従い自然に帰っていく……。
 
 この終わりはバックがいくら人間的な側面が強くとも、やはり犬だからこそ迎える結末である。そこには批判されたように不自然なほど人間的なバックという姿に作品自身が省みる姿が、バックは人間的すぎるがゆえに野生へと帰らなければならない、という意識が働いているように思える。
 それが犬でなく人間だったら、バックという犬ではなく人間のサーストンならば……という視点を持ち込むことで恐るべきホラーへと姿を変える、というのが『クトゥルフの呼び声』であると見ることが出るだろう。
 
 それを念頭に置いて作品を見れば、特に序盤のバックの挙動はあまりにもぎこちない。今のCG技術を使えば――例えば『Cats』が人々の不安を喚起してしまうように!――もっと「それらしい」動きをさせることは難しくないはずだ。
 だから私は人間に近い、あまりにも近すぎる生活を送るバックをあえて「不自然なもの」「人ではないもの」として描くことに意図的であったように感じる。
 それはホラーでいうなら「これから恐怖に対面する人物が、ちょと奇妙で印象に残る挙動をしている」という描写だ。つまりこれからこの人物は「人の理から外れていく」ことの予兆であり、逃れられぬ運命がその先に横たわっていることの預言、そうそれは決められた恐るべき運命がすでに定まっていることを意味する、まさに預言として機能する。
 
 犬は人の友であり、かけがえのない存在だ。だがそれと同時に人と犬には決して分かり合えない一線がある。それはクトゥルフ神話において人が神話的存在を理解できない……それを理解することはすなわち「発狂」であるように。
 
 『野生の呼び声』は犬と人は「最終的に決別する」ことを伝える映画であり、決して生易しい人と動物の関係を賛美するようなものではないと、私はそう感じた。映画館から出た私の耳には彼の冒涜的な遠吠えがいつまでも耳に響き、やがてそれは反響するように私の胸中を不定形の姿で埋め尽くす。きっとこのことを知ってしまった私はもう長くないだろう、出来ることなら死後この手記が誰の目にも止まらず、遥か忘却の彼方へ。あの吠え声が木霊する暗闇へ葬られることを切に願う……。

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この話をしたツイキャスはこちらの20分ぐらいからです。


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