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批評の書き方(補足編)-アニクリ11寄稿論考を例に。

 さて、ついこのあいだこちらの記事で(お手軽に批評と自称する文章を量産する方法(すぱんくtheはにー編))私なりの批評っぽい、あっ、いっけなぁーい☆ひひょぴょいの書き方をご紹介いたしました。
 その中で最後のあたりに「できれば誰かに校正させろ」と書きましたが、いままで批評を書いたことがない、あるいは何らかの文章を書いたことはあるが校正を受けたことがない、という方が私の想定している対象者ではほとんでなのではないでしょうか?

 つまり「誰かに(それも優秀な人に)直してもらう」ことの効果と威力を知らない!ということです。それがどのくらい有効なのか知らないのに推奨されても、困ってしまいますよね?
 じゃあ実例を公開してやろうじゃないの!というのがこの記事です。

 先日頒布されたばかりの『アニメクリティークvol.11_β シン・エヴァンゲリオン』より、私の寄稿した『世界のどこかで、けものの叫びを聞いたから』の初稿バージョンを公開いたします。
 この初稿から【初稿】→【校正+修正+追記の提案】→【確認+追記】→【修正】→【確認】を経たものが掲載されたものになります。

 つまりここで公開した初稿バージョンと発行された完成稿を比べていただければ、誰かに読んでもらって校正することでテキストがどれだけ素晴らしいものになるかをご理解頂けると思います。

 なのでこちらから(https://shop.comiczin.jp/products/detail.php?product_id=41316)『アニクリ11』をご購入していただくことが絶対必要にはなりますが、是非その違いを読み比べてください。

 正直なこと言うと初稿段階では完成度60%といったところで、それを公開するのはとてもとても恥ずかしいのですが、ああいった書き方指南の記事を書いた以上、私の責任としてこういった行為が必要だと思いました。

 できれば一人でも、これで批評を書くという行為に踏み出していただければ、非常に嬉しく思います。

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『タイトル未定』

 2021年のいま「これが諦めないってことだー!トウカイテイオー!」という叫びとともに思い起こされるのは、巨大なビジョンに映し出された息も絶え絶えにターフを走るツインターボの姿である。『ウマ娘プリティーダービー Season2』の第10話におけるこのシーン。怪我により引退を選ぼうとしたトウカイテイオーを再び奮起させたこのオールカマー戦におけるツインターボの雄姿は、事実として1993年GⅡ産経賞オールカマーで大逃げの末1着となったツインターボという競争馬に由来している。
 とはいえここでは事実と創作が当然のように入り混じっている。ツインターボがそのレースで1着になったこと、同時期にトウカイテイオーが度重なる故障からの長期休養を経て有馬記念に出馬「奇跡の復活」と言われる勝利を見せたことも競馬史に刻まれた事実である。だが当たり前にようにその経緯を見ていた観客や、実際に騎乗した騎手、あるいは調教師や馬主が何を考えていたかは別として実在の馬としてトウカイテイオーがツインターボの激走を見たわけでも、ツインターボがトウカイテイオーをライバル視していたことも無い。いや馬ならぬ私には果たして本当にそうだったかを知るよしもないが、それでも『ウマ娘』で描かれたような馬/ウマ同士のやりとりがそこにないことや、ゴール直前で必死に駆けるツインターボが何らかの嘶きを上げなかったことは間違いない。
 それは起こるはずのない叫びと、ありえなかった関係性。しかし、私たちは「だからこそ」それに感動を覚えるのである。

 オールカマーでのツインターボが1着を取って理由として、その前にあった七夕賞におけるツインターボ勝利の影響は無視できない。七夕賞では逃げるツインターボを追った他の馬たちが体力を消耗した結果がツインターボの勝利に繋がった。だから続くオールカマーではその結果を踏まえてツインターボの逃げに付き合わなかった後続が、勝負に出るタイミングを逸してツインターボの独走を許した……そのように語られている。
 だからそこにはツインターボが気合とか根性とか、ライバルである(と一方的に思っている)トウカイテイオーへの叱咤などは介在していない。「だからこそ」私たちはそこへ自分勝手に現実の在り様を読み替えていけるし、その虚構によって現実を上書きして再定義することで、その起こるはずのない叫びとありえなかった関係性が、起きたかもしれない叫びとあったかもしれない関係性として立ち上がってくるのだ。
 ここにあるのは事実ではない、けれどもまったくの創作でもない。先にも述べたように事実と創作は入り混じり、あるいは現実に寄り添いながらそれを再解釈していく。

 そこにあるのは可能性だ。在ったことを基礎としてそこに混じり合い上書きしていく、その「ありえたかもしれない」が立ち上がる虚構。それが何を与えて、どうやってその姿を描こうとしているのか?
 本論はその回答として『劇場版シン・エヴァンゲリオン(以下シンエヴァ)』を読み解いていくものである。


・小見出し未定

 まずは『シンエヴァ』における現実の代表として「第三村」がある。ニアサードインパクトが起こり生き延びた人たちが寄り添って生活する小さな共同体は、非常に不安定な状況だ。村内部での生活はヴィレからの物資援助や農作物の収穫も可能なこともあり、いちおうの平穏を維持している。しかし村の周辺環境はニアサーによって汚染されており、首のないエヴァ/使徒が徘徊している。
 ヴィレが設置したアンチL システムによって汚染の侵入を防いで体裁は保っているが、システムが稼働停止すれば村の絶滅は免れず、ヴィレからの支援がこれから先も続くか不透明な状況だ。その中で相田ケンスケは村と汚染地域の境界をシンジに案内しながら、それでもなんとか「今日」を生き延びていると告げる。
 この第三村でレイは徐々に村人たちと馴染みながら田植えを手伝い、人々とコミュニケーションを取ることで自分の感情あるいは自我に目覚めていく。アスカはヴィレの一員としてこの第三村を「守るべきもの」として認識しており、大半の住人たちとは距離を取っている。そしてシンジはレイほどではないが少しづつ村での生活に適応していく姿が描かれる。
 
 しかし第三村で過ごすうちにネルフでの調整なくしては生きていけないレイの体には限界が訪れ、村から出て生き延びるかここのまま死を選ぶかを問われる。結果としてレイは第三村にとどまり消滅することとなる。それを受けてシンジはヴィレに再び戻ることを決め第三村から出ていき、もとよりその村とヴィレの境界に立つアスカはシンジを伴って戻っていく。
 ケンスケが言うようにこの第三村には「今日」つまり「いま、ここ」があるだけだ。それは強靭な現実であり、そこに適応して生きていく暮らしていく人々も大勢いる。それでもその中で居場所を見つけたはずのレイは消えることしかできず、軸足がそこにないアスカは当然のように出ていく。そしてその「いま、ここ」に適応しつつあるシンジもまた第三村から出ていくことを選択する。

 第三村は「いま、ここ」の生活に根ざした現実の場であり、そこで人々は強く生きている。けれどもエヴァのパイロットたちはそこで生き続けることを棄却する。一人は死を選び、一人は初めからそこにとどまる気はなく、一人は紆余曲折の末に出ていくことを選ぶ。現実というものにある程度は馴染めるかもしれないし、そこには「いま、ここ」でしか得られない幸福もあるだろう。しかし『シンエヴァ』という物語はそれを絶対のものとはしない。現実には喜びや意味が確かにある、それでもそこにずっと居ることはできない。いつか必ず袂を分かつ必要のあるものとして描いている。

 一方で虚構を代表するのは碇ゲンドウだ。彼は「現実と虚構を等価に認識できる人間ならば、神殺しがなし得る」という思想のもとに、実験により姿を消した妻の碇ユイを再生させることを望んだ。しかし現実と虚構が等価であるということをゲンドウ自身が信じていなかったことは明白だ。
 なぜならもし本当にそれが等価であるなら、ユイを現実に再生させる必要性に疑問が残ってしまうからだ。現実に存在しなくとも虚構の中に生きていれば等価であるとするなら、そもそも彼女を蘇らせることにどれほどの意味があるのだろうか?ユイを虚構の中に作り出しそれを現実に失われたものの代替として機能さればいいだけの話である。
 つまり最初からゲンドウの行いは破綻している。目的と手段に矛盾がある時点で、彼の目論見は行き詰まっている。

 現実に生き続けることも否定し、虚構に居続けることにも失敗する『シンエヴァ』。その中で最終決戦の直前に発せられたセリフが「明日生きていくことだけ考えよう」である


・小見出し未定

 両親が死んだニアサー、その原因となったシンジを憎みながらも彼に頼ることでしか現状を打破できないことを知った、ヴィレ乗組員の北山ミドリはその相反する心情と現状に対してそう口にすることで納得しようとする。
 「明日生きる」。それは第三村にあった「今日を生きる」からほんの一日だけ先の話、現実の「いま、ここ」からちょっとだけ先のことでしかない。それは現実と等価になれるようなものでは決してない、けれどもあられもない現実ともわずかだけど離れていく。「いま、ここ」から少しだけ未来を思い描くこと、それは本当に微かだけれど確かに想像力が必要とされることで、間違いなく人が作り出せる「虚構」の一旦ではある。
 現実と虚構は対義のように見えてグラデーションを持って連続した繋がりを持つ。今日という現実と例えば1000年先という虚構、その弱い中間項として「明日」という言葉を捉えることができるのではないか。それは現実と確かに地続きで、けれども虚構の力がなければ決して辿り着けない場所なのだ。

 『シンエヴァ』では後半、コンテそのままであったり作中の舞台がまるでセットであるかのような演出がされる。それは作品完成までの間で本来なら取り払われるものであり、そういった制作過程が隠されることで虚構は現実との接点を意図的に忘れようとする。けれどもこのようにコンテや線画が詳らかにされることで、今まで(あるいはこれから)目にしてきた映像は実際に誰かの手によって描かれたものだということがあらわになる。その時、一見現実とは切り離された虚構もまた、現実とは地続きの関係であることが提示されるのだ。
 一本一本の線を積み重ねて作られる作品、一日一日の時間を積み重ねて訪れる1000年後。それら到達点は間違いなく虚構ではあるけども、現実とグラデーションを持った繋がりによって完全には分断していない。

 だから現実と虚構の境界なんて本当は無い。明日目が覚めないことを想定する眠りは稀で、それは私たちが当たり前のように今という現実から明日という虚構の垣根を何の気負いもなく通過しているということだ。もちろんその明日はあまりにも前日と接していて、むしろそれが虚構だと身構えるほうが難しいだろう。それでもそれは現実=リアルに限界まで接近しながらも、現実とほぼ相違ない手触りをしていながらも「現実”らしさ”=リアリティ」にしかなりえない。

 『シンエヴァ』終盤、電車の中でカヲルはシンジに「そうか、君はリアリティの中ですでに立ち直っていたんだね」と告げる。現実で積み重ねたものの先にしか虚構が姿をあらわせないのなら、私はどうしたって現実に囚われ続けるしかない。それでもその現実から手を伸ばした少し先にある現実”らしさ”に触れることは(正確に言うなら触れた気になることは)できる。
 それは実在するツインターボがあるはずのない、けれどもありえたかもしれない叫びを上げることで、それを聞くはずのない、けれども聞いたかもしれないトウカイテイオーを再起させたように。現実に打ちひしがれた私を存在しないはずの虚構が、ありえたかもしれない現実”らしさ”をまとうことで救っていく。
 虚構は現実と等価にはなれない、現実に同じ強度で対抗できるほどの力は持てない。それでも立ち上がれなくなったとき、走れなくなったときに、それを支えてくるものとして現実とは繋がっていながらも違った方法で、別のアプローチで躓きかけた姿勢を「立ち直させて」くれるものとしての意味。現実ではないけれど、虚構と呼ぶには細やかで儚いけれど、でも手の届く場所にある「現実”らしさ”」がそこにはある。

 「エヴァンゲリオン」というコンテンツが生まれてから25年以上が経った。1995年からいままで間、なんとか現実を生き延びてきた人たちに『シンエヴァ』はその過酷さを受け止めて、その長い年月をやり過ごすことを可能にした虚構に/現実”らしさ”に/「明日」のもつ力を意義を手放さなかったことへの返礼である。現実の前ではあまりにも頼りない、けれど絶対に必要で、誰かを救う可能性を秘めた虚構に。あらゆるフィクションを作り上げきた誰かに、それらの作品を受け止めてきた誰かに、明日という想像力を虚構を決して手放さなかった全ての人に、そして「私たち(チルドレン)」にありがとう。

 トウカイテイオーがツインターボの声を聞いたように、私には『シンエヴァ』からそのメッセージが確かに聞こえたのである。

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 初稿バージョンとしては以上になります。

 編集のNagさんからもらった提案でここからめちゃくちゃ良い論考になるのですよ。だから冒頭に述べたように掲載稿を読むことが絶対に必要ですので、重ね重ねよろしくお願いいたします。

 本当は、本当はね。掲載稿は「すぱんくtheはにー」名義であるので、初稿とNagさんの手が加わった部分は見分けがつかないわけです。だから頂いた知恵をまるで自分の手柄のようにしているわけなんです、普段は。
 それによって「すぱんくさんは素晴らしいテキストを書くんだなぁ」と意図的に勘違いさせているのですよ。それで私はめちゃくちゃ得をしているし、色んなものを誤魔化している。

 だからこうやって公開することで、馬脚を露すことになる。それはちょっとでも賢いと思われたい私にとって、ちょっと泣いちゃうくらい辛いことなんです。

 それでも、私がつらい程度のことで一人でも何かを書くこと、何かを伝えることに踏み出す人がいるのなら、それは十分にお釣りがくることなのです。
 私は願って信じて期待しています。新しい書き手がこの世に生まれることを。この祈りを誰かが、いやあなたが受け取ってくれることを。

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