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インド料理へポルトガルが与えてきた影響とは?

Slurrp 編集部の以下の記事を勝手に訳しています。
https://www.slurrp.com/article/what-have-been-the-portuguese-influences-on-indian-food-1670312653586
更新: 2022年12月06日, 16:12 IST

ポルトガルは、最初に到着し、最後に去っていった。1948年5月 (訳者注:1498年の間違いのようです) にインド西海岸に到着し、ヴァスコ・ダ・ガマはその後5世紀にわたる植民地支配、統治、専制政治への道を切り開いた。ポルトガルは、事実、インドの最後の拠点「ゴア」の支配権を1961年に譲り渡した。
ということはつまり、私たちが「インドの」料理、伝統、食材と思うものの中には、実はポルトガルの影響を受けた結果のものがあるというのは十分あり得る。よく挙がる例は、お馴染みのところでは、ビンダルー(Vindaloo)、バルチャオ(Balchão)、ソーポテル(Sorpotel)、ソーセージ、甘いゴアンワインなどだ。ビンダルーの起源はあまりにも有名で、始めは酢とニンニクをベースにして豚肉などの肉を煮込んだシチューが、インドに渡りさまざまなスパイスや唐辛子を加えて改良された。その後、ジャガイモが加わり、Carne de Vinhad’Alhos(酢とニンニクの肉)がVindalooとなった。「アルホス」(Alhos、ニンニク)の音は「アルー(ヒンディでジャガ芋)」へと変化し、ビンダルーにはジャガ芋が欠かせないと思われるようになったのだ。同様の混乱はソルポテルについてもあり、文字通りの意味は「ごちゃまぜ」でおそらく「豚の心臓、レバー、さらには豚の血」のごちゃまぜの材料を指している。もちろん、多くの新世界(南米大陸)の果物や野菜、中でも私たちにとって最も重要なのはトマトと唐辛子、はポルトガル人によって持ち込まれた。
私たちがあまり認識していないことは、インド料理や調理技術のより基本的なことへのポルトガルの貢献だ。たとえばパン。「パウ」(Pav)は、インドで広く手に入る唯一の酵母発酵パンで、それはポルトガル由来の「パン」(Pão)だ。ポルトガル人はイーストの培養方法を教えてくれた。

Pav Bhaji: パウバジ

ベンガルで「ルチ」(https://www.bongeats.com/recipe/luchi、北インドでは全粒粉を使いその場合は「プリ」という名前で呼ばれる)に白い精製小麦粉を使うのは、ポルトガルの影響だと指摘する料理研究家もいる。また、肉の燻製や熟成(チョリソーを想像してほしい)もポルトガルの遺産だ。

Image credits: Luchi

ポルトガル人は、ワインやさまざまな種類のビネガーを料理に使うという概念も導入した。酢といえば、ポルトガルは(酢の混交で牛乳を固める)チーズ作りをインドに伝えたと考えられている。もちろん、これは今日でも論争の種になっている。乳製品(凝乳やソフトチーズなど)はハラッパーの時代(紀元前2300年~紀元前1700年ころ、ハラッパーはインダス文明の都市遺跡、パキスタン北東のインダス川上流のパンジャーブ地方で発掘された)に普及していた可能性を示す研究もあるが、ポルトガル人がもたらしたとする研究者もいる。おそらくまた、牛乳を凝固させたり分離させたりするのはアーリア人や初期のヒンズー教徒にとって冒涜的な行為と見なされたため、チーズ作りはインドに「再導入」する必要があって、それを行ったのはポルトガル人であったと考える学者もいる。ポルトガル人が持ち込んだバンデルチーズ(The Bandel Cheese、ポルトガルの植民地だった東インドのBandel(コルカタ北部)で作られているチーズ)は、おそらくモグ(現ミャンマーのビルマ)人の料理人がポルトガル人の指導の下で作ったものだろう。
現在でもインドでよく使われている食用油にピーナッツ(落花生)油があるが、ピーナッツはポルトガル人がインドに持ち込んだものだ。カシューナッツは、昔からバルフィーという形で私たちの身近に存在していたものだと思われるかもしれないが、いやいや、これもポルトガル人が持ち込んだものだ。それは実は南米のナッツで、アカジューと呼ばれ、私たちの「カジュ」(kaju)はここから来ている。しかも、ゴアの人々にどうやってそれをフェニ(feni, カシューナッツのお酒)にするか、を教えたのもポルトガル人だった。
フルーツを見てみよう、パイナップル、パパイヤ、グアバ、アボカド、ライチなど、いずれも新世界(南米大陸)からポルトガルを経由してインドにもたらされた。事実、グアバの西インドでの呼び名「peru」は、原産国「ペルー」にちなんだものです。サルソン・ダ(或いはカ)・サーグ(Sarson da (or ka) saag)とマッキ・キ・ロティ(makki ki roti)はパンジャブ料理の代表的な組合わせのように思われますが、マッキ(玉蜀黍、トウモロコシ)がポルトガル人によって伝えられ、イギリス人によって普及しなければ、マッキ・キ・ロティは存在しなかったのです。マラヤリ人(Malayalam語を話す、主にケララの人々)のタピオカ好きは昔からずっとのようですが、タピオカがインド亜大陸の土着品ではなく、ポルトガル人によってもたらされたことはあまり知られていません。
何が「私たちのもの」で何が「彼らのもの」なのかを調べれば調べるほど、静止しているものは何もないことに気づかされる。帝国が被植民地のやり方、伝統、技術、文化、料理に影響を与えたように、入植者たちにも影響を与えたのである。入植者たちが、与えたものより奪ったものの方がはるかに(ずっとずっと)多いことは否定できないが、おそらく彼らが自分たちのものだと信じていたものを、紛れもないインドっぽいのものに変えてしまったことは、唾棄すべきことなのだろう。パウ・バジ以上にインドらしいものはないでしょう。しかし、トマトもジャガイモもコリアンダーもパンも、すべて他所からポルトガルを経由してやってきたものなのだ。

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