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西インド料理について語ります

「ムンバイ料理」或いは「西インド料理」の看板を掲げておりますと当然ではありますが、「ムンバイ料理ってどんなですか?」「西インド料理ってインドの他の地域のカレーと何が違うんですか?」と、お客様からはごく自然に、ごもっともな質問をよくいただきます。ところが、当店にしてみるとこれほど返答に困る質問もありません。ほかのお店様も西にかぎらず北も南も東も、ひょっとしたら困る質問なのかもしれませんが、例えば南だと「さらさら・辛い・ミールス」みたいなワードの入ったテンプレートで対応できるのではないかと思います。北も「こってり・タンドール・ムグライ」みたいなワードで対応できるんじゃないでしょうか。でも西だと、このワードのチョイスがなんかビシッと決まらないんですね。

お店をオープンしたとき(2019年8月)にオーナーらインド人チームに「日本人に西インド料理を説明するテンプレート作ってね」とお願いしたときも出てきたのは「スパイシー、具材も濃度もいろんなカレー、ヘルシー」と、東西南北どこにもあてはまるような文言が出てきました。日本人が日本の郷土料理を説明する際に「寿司・天ぷら」とか持ち出してなんか違うなと思っていろいろ説明したら「出汁・油なし・素材の味」みたいになって「それって日本のどこの料理にもあてはまるんじゃね?」状態になってドツボにはまってしまうのに似ているのかもしれません。堪り兼ねた私が「ストリートフード」とか「パンで食べる」とか「ゴーダマサラ」みたいなワードを出すと「それは違う」という速攻の否定をいただいたものです。

2020年5月から、メニュー月替りでマハラシュトラ料理のディナーターリを出すようになり、幾多のメニューを食べて「スパイシー、具材も濃度もいろんなカレー、ヘルシー」の具体的中身をいくつも見たためか(月替りマハラシュトラターリの過去のメニュー https://www.priyamahal-tokyo.com/menu/thali_archive/)、なぜインド人らはあんな広すぎる言葉を出してきたのか、いまになってようやくうっすら見えるようになりました(うっすらですよ、うっすら)。また「ストリート、パン、ゴーダマサラ」が速攻で否定された理由もなんとなく理解できます(なんとなくですよ、なんとなく)。そこで甚だ役不足ではありますが、畏れ多く大胆にも、歴史の大河の流れの中に西インド料理を浮かび上がらせ、具体的なレシピなどを見ながら、「西インド料理ってこういうやつ」を伝えられたらな、と思います。(門外漢による恐れ多い大胆な内容になっておりますので、専門家の皆様からの御高見・ご批判をぜひ賜りたいと思っております。)

インド料理(西インド料理)の多元構造

そもそもインド料理は多元構造(もっともらしい言い方ですが、ヒンドゥーの菜食を中心に文化背景の異なる料理が重なるように絡み合っている状態)の料理なのではないかと思います。例えば西インドの料理は「ヒンドゥー菜食」を主たる基盤として、ムグライ(「ムガールの」の意、後述)や西洋(ポルトガルやイギリス)など複数の料理文化が交錯している料理だという考え方です。北でも南でもおおかたこの考えは当てはまるのではないかと思いますが、どうなんでしょうか。この絡み合いの状況を図解すると以下のようになります。

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料理の基盤には常にヒンドゥーの菜食料理があって、インドの中でも(さらには西インドの中でも)、地域ごとに(もっといえば料理ごとに)ベースと他の文化の交錯度合いが異なっているわけです。例えばムンバイ名物のファストフード「パオバジ」は、ヒンドゥーの菜食に西洋の料理文化が大きく交錯している料理です。

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↑当店のパンバジ 野菜のペーストカレーの「バジ」をちぎりパンでいただきます!

あるいはコルハプルのタンブラ、パンドラのラッサは、ヒンドゥーとムグライが交錯している料理です。

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↑2020年10月のディナーターリに登場した赤いマトンのタンブラ・ラッサ、白いチキンのパンドラ・ラッサ

中心:ヒンドゥー菜食

神話時代から有史の時代に移行する頃、インドの地ではすでにヒンドゥーの生活様式が確立されていました。インドは、紀元6世紀にはアケメネス朝ペルシア、前4世紀にはアレクサンダー大王による侵攻を受けていますが、おそらくインドを圧倒する支配にまでは至らなかったのではないでしょうか。紀元前後あたりからはヒンドゥー教はさらなる隆盛を見せ、5−6世紀には東南アジアへ伝播するほどの勢いを持つに至ったのは歴史の教科書にも載っているところです。不殺生を標榜するヒンドゥーの食生活は菜食を中心とし、飲食のための水の確保が難しかった多くの地では、香辛料による臭い消しと調味で、油による野菜への加熱を基本とする調理法が成立したと考えられます。

多重1:パルシー

7−8世紀ごろからイラン系のゾロアスター教徒が海路でグジャラートにやってきました。おそらくゾロアスター教を国教としていたササン朝ペルシャの滅亡(イスラムのサラセン帝国により滅ぼされた)により、ペルシャの地を離れた人々でではいかと想像します。「パルシー(ペルシャの意)」と呼ばれる彼らは、なぜか大半がグジャラートからマハラシュトラに移り(乾燥して砂礫の多いグジャラートではなく、生活しやすい(なんとなくイランに似ていた?)ムンバイ周辺に移ったのではないかと想像します)、一大コミュニティーを形成し、その後のインドの社会経済の発展に大きく寄与します。イラン風の調理(ピラフや串焼き、スープ)やスパイス使い(辛さよりも香り)、デーザート、は彼らとともにインドに伝播したのではないかと考えられます。

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↑ インドにおけるパルシーの人口分布 https://en.wikipedia.org/wiki/Parsis

多重2:イスラム

インドは11-12世紀頃からイスラムの侵入を受け始め「デリースルタン王朝」で知られるイスラム王朝が(時間の経過の中で計5王朝)デリーを中心とするインド北部を支配しました。5つの王朝の支配に終止符を打ったのは16世紀初頭に興った中央アジア系イスラムのムガル帝国です。陸路で北インドに入ってきたムガルの勢力は、16世紀中葉に3代目アクバルの治世のころインド支配を本格化し、インド北部を中心に支配領域を広げました。デカン高原は越えて南進するに相当な負荷のかかる場所であったため、地理的にデカン高原北部の谷筋はムガルの勢力とインドの勢力とが永く対峙して緊張状態にあった地域と思われます。即ち、いまでいうマハラシュトラのあたりは、ムガルの勢力とインド勢力が拮抗する「前線」だったわけです。ムガルのインド統治は、(17世紀にアウラングゼーブが強硬姿勢に移るまでは)ヒンドゥーとの融和を前提としていたので、ゆっくりと着実に進展していったと思われます。最大権勢を誇ったムガルの版図はインドの南まで伸びましたが、南進はデカン西縁を蛇行する平野部・沿岸部を進まざるを得なかったことから、文化の大掛かりなハードウェア的な部分(食文化で言えばタンドールオーブンなど)は南進を積極的に果たせず、ソフトウェア的な部分(食文化で言えばレシピなど)だけが広まっていったと推測されます。結果としてムガルの文化は漸進的に「ムグライ(「ムガルの」の意)」としてインドに広く伝播することとなりました。

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亀井 高孝 ほか 『標準世界史地図』 吉川弘文館

多重3:西洋(キリスト教)

西インド沿岸部では16−17世紀に入ると西洋の影響が料理面でも出てきます。最初は西岸から南にかけて支配したポルトガルの文化が、覇権の交代が起こるとポルトガルに代わって英国の文化が、という具合です。西インドでいうとムンバイからゴアにかけてはパン食やデザートのレシピにポルトガルや英国の影響が色濃く残っています。内陸はそこまで強く西洋の影は及ばず、結果的に東西に長いマハラシュトラの内部で多元構造の多様性を生み出し、西インド料理を端的に説明しずらくしている要因の一つになっています。しかしマハラシュトラの内部では、マラティの人たちが東西南北を行き交い、時にゴアあたりまで足を伸ばし、歴史的に文化的一体感を形成し、同じ西インド文化圏ながらも各地のテロワールを活かした個性に富んだ食文化を育んできたといえます。

調理法

インド料理のテロワールを語る際に有用な食材の一つに「油」を挙げるのはあながち的外れではないと思います。インドは東西南北どこでも「バナスパティ(いわゆるサラダ油)」は普通に使いますが、北では「マスタードオイル」、ゴアから南では「ココナツオイル」といった具合で、料理に使う油に地域の特徴が現れているようです。西は植物性の油でも特に、「ひまわり油」、「ピーナツ油」などが多く用いられます。

ヒンドゥの民が圧倒的多数でムグライ文化のインド浸透に前線で対峙したマラティのコミュニティーでは、食文化へのムグライの上書き(典型的にタンドールやビリヤニ)はあまり見られず、メニューや調理法にはヒンドゥ菜食の典型がいまも広く見られます。すなわち食材をスタータスパイスで加熱調理し、各種調理スパイスと塩で調味し、ドライの「スッカ」あるいは汁物(油分と水分を乳化させる)の「ラッサ」に仕上げてゆきます。炊き込みご飯はビリヤニではなく、マサレバートと呼ばれる野菜と一緒に炊いた8部粥が一般的です。また断食下の禁食下で食材制限を課するために穀類や玉ねぎ、大蒜を避けるための芋類・ナッツ類を主に食すためサブダナ(タピオカ)のレシピも多く発達しています。

調理の初めに香りを立たせ料理の味の基本ラインを決めるスターターには、他のインドの地域と同様にクミン、マスタードシード、大蒜・生姜、青唐辛子、といったスパイスを使います。調理のスパイスもインドの他の地域と同様に、コリアンダー、赤唐辛子、ターメリックが中心となりますが、西インドらしい風味を演出するスパイスとしては、フェネルやブラウンカルダモンを使うレシピを高い頻度で見かけます。またスパイスは粉も使いますが、ナッツ・シード類(ピーナッツ、カシューナッツ、ポピーシード、メロンシードなど)も高い頻度でレシピに見出します。これら個性スパイスとナッツ類、シード類、あるいはココナツが合わさると、北でも南でもない西でしか味わえない一品に仕上がると思います。スパイスの組み合わせによってはなんとも言えない刺激臭がココナツと相まって鼻腔をくすぐるので、ふつーの「カレー好き日本人」、「カレー食べたい日本人」にはちょっとイメージしずらい味、イメージできない味かな、などと思います。

Kokum/Kokam
特徴的なスパイスでは「コカモ」は特に沿岸部(コンカン地方)でよく見る食材で、酸味・甘味を演出するほか、色味の演出にも用います。

Goda Masala
あと特徴的なのはゴーダマサラです。全ての料理に使うわけではないですが、味も香りも甘いミックススパイスです。スパイスの組み合わせによる(砂糖ではない)甘さなので、中央アジアの影響を受けて成立したミックススパイスではないかと推測します。

Amti
西インドを代表する豆のカレーです。樹豆(Toor Dal/Tuvar Dal)を使いますが、上述のKokamとGoda Masalaの双方を使います。

Saoji Chicken 
内陸NagpurのSaoji Chickenは、Coriander seeds、Stone flower、Cinnamon sticks、Black and Green Cardamom、Poppy seeds、Coconutといったスパイスの組み合わせで西らしい香りと味の典型的な料理の一つかと思います。インドのヒンドゥーの(菜食)調理がベースとなったところにノンベジの肉が入ってきたという、ヒンドゥー(菜)食+ムグライ(肉)食の料理ではないかと思います。

パン食

西インド沿岸部では16−17世紀に入ると西洋料理の影響が移ってきたとしましたが、西インド地域で人気なのがパン食です。詳細は以前書いたnoteに譲りますが、ムンバイのPao Bhaji, Misal Puv、グジャラートのDaberiといったちぎりパンと一緒に食すカレーメニューは西インドならではかと思います。また英国の食パンはムンバイでボンベイサンドイッチとして花開きました。この時にパンと一緒に食すカレーには、バターやチーズをたっぷり使うのも特徴です。(下の写真はプリヤマハル のボンベイサンドイッチ"BBBサンド")

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終わりに

というわけで、西インド料理ってどんなの?っていわれてもなかなかストンと腑に落ちる短い説明は未だ見つからなくて上述のような話をつらつらしなければならないのですが、今の時点でテンプレートを作ろうとワードを拾うなら「ヒンドゥー、甘さ、ムグライの影、一部地域で西洋」みたいな感じになって、
「伝統的なヒンドゥ菜食のレシピの上に、甘さも許容し、地域によってはイスラムや西洋のレシピが重層的に重なった料理で、シードスパイスも荒く挽いたりして使うから香り強いよ」
てな感じになるんじゃないかな、などと思うわけです。インド人のオーナーらが「スパイシー、具材も濃度もいろんなカレー、ヘルシー」と表現した食事は従いまして間違いではないけども広すぎるので、「香り豊かなスパイスをしばしばホールや粗挽きで使い、ヒンドゥーの伝統的な菜食をベースとしたヘルシーな食事」といった表現であればよかったのかな、と思います(めちゃめちゃめんどくさいしわかりにくいですね)。

「ストリートフード」とか「パンで食べる」はあくまで先の説明でいうと西洋の影響下で花開いた歴史の浅い食べ物ですし、「ゴーダマサラ」も全ての料理に必ず入るわけではありません。プリヤマハル のインド人オーナーらが否定した所以です。

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