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ごみ収集日に考える社会との境界に生きる人々との接し方

タイムラインに流れてきたツイートが、最近の私を悩ませていたとある出来事とすごく関連してたので思わずリツイートしました。私の気持ちや考えの整理を兼ねて、つらつら書き認めました。

松井至 @Matsuimamadou
新宿で路上生活者の女性と話してたら、
どうしても生活保護は受けたくないという。
「迷惑かけたくない」
でも受けた方がいいよ、と続けていたら「何回役所行ったと思ってんだ!相手にされなかったんだよ!こんなもんなんだって思ったんだよ」と叫んで地面を叩いた。
細い腕。骨と皮だけの。
午前2:21 · 2020年7月22日

廃棄食品で生きる人

当店は仕入れたものや仕込んだものを廃棄するフードロスも、お客様の食べ残しのフードロスも少ない方です(お客様が少ないせいもありますが^^;)。コンポストなどのごみ処理設備を自前で導入するとフードロスの発生をゼロに近づけることは可能ですが、手間やスペース、現行の人員体制ではなかなか叶わず、いまは廃棄の選択肢を採っています。廃棄物は、民間の廃棄物処理業者様に毎日営業後に収集いただいていますが、コストの観点から自治体のゴミ収集のある日は、有料の「事業ごみシール」を貼って回収いただいています。

自治体の廃棄物収集日には、朝に廃棄物を出してから回収されるまでの時間に廃棄物が袋詰め状態で路上に放置される時間が発生します。この路上放置の時間帯を狙って、路上生活者と思しき方が袋を破り、中の食品廃棄物を持ってゆきます。この方(毎回同じ方、1名)、界隈では有名人で、曜日ごとに収集のある地域を周り、空の箱とペットボトルを持参し、収集箇所で食品廃棄物を採取すると、その場でムシャムシャ食べたり、箱詰めして別の収集箇所へ向かいます。飲料は自販機横のボトル回収箱に手を突っ込み、取り出したボトルに残った液体を持参のペットボトルにまとめ、ぐいっと飲みます。よくお腹を壊さないものだと感心するのですが、当人は毎度至って元気です。

問題は、ゴミ袋が破られるので、一帯のゴミ袋は穴が空いた状態となり、収集の方が持ち上げると中身が溢れるのですが、収集のかたは溢れたごみは拾ってる暇などないので、大きなもの以外はそのままこぼれ落ちた状態に放置され、収集車はそそくさと次の場所へ移動します。つまりごみ収集日が来ると、小さな生ゴミが収集場所にちらほらとこぼれ落ちた状態となるのです。

路上生活者の食中毒リスクのためにも、近隣一帯の衛生環境保持のためにも、なんとかこの路上生活者の廃棄食品収集行動を止めたいのですが、試みは無残に打ち砕かれてきました。あるとき「袋破るの止めましょうよ」と話しかけましたが、威嚇のような奇声を浴びせられるとまるで言葉を理解しないかのように無視されました。失礼を承知で収集している所作を凝視して牽制を試みましたが、手で集めた残飯をムシャムシャと頬張りながら、凝視する私に向かってニヤリと笑いかけてきました。

社会との境界に生きる人

路上生活者が私に向けてニヤリと笑ったときの表情は、私の脳裏に鮮烈に焼き付いています。さらにいうと「おまえもこの生活してみたらどうだ、楽だぞ」と言われているようにさえ思いました。私もいっそ無意識下でその存在を素直に許容できない路上生活に身を窶してしまえばいいのかもしれません。コロナ禍中の倒産リスクや従業員の生活など放り出してしまえば、どれほど楽か。でもそれをしない、できない、それが自分自身のプライドであり社会の成員としての責任であり、自己存在の確認の拠り所だからです。

では路上生活者にはプライドや責任や存在価値はないのか、というとそうではありません。その人にも間違いなくプライドや責任や存在価値はありますが、思うにそこには「社会」という文脈が存在していないのです(厳密にはこれを書いている「私が属している社会」という文脈)。それでも彼らは「物理的に社会のなかに存在しなければいけない」ので、これが物事をややこしくしているのですが、「社会」の文脈を持たないながらも社会の廃棄食品を収集し、社会との接点を持たざるを得ないわけです。今は「制度的・精神的に」社会の外に出て、「物理的に」社会との境界線上を交差する生活を送っていて、これが私のいう「社会との境界に生きる」の意味です。

「社会」の文脈を持たない人が「社会」に触れるわけですから、「社会」との摩擦が生じる可能性は高くなります。社会の文脈を失った人に、生活保護などの「社会」やゴミ捨てのルールという「社会」を押し付けることに意味はあるのだろうか?。ごみ収集日を迎える度に廃棄食品を食べる路上生活者がいて生活者がお腹壊すかもしれないとハラハラしながら見ている自分に、魚の骨が喉に残るような感覚に突かれ、どう向き合ったらよいものか答えを見出せないでいました。

今も自信をもって人様に主張できる明快な答えを見つけたわけではありませんが、冒頭のツイッターのつぶやきをタイムラインで見た時に、喉に残った魚の骨がちょこちょこ動き出してきたので、いい機会だから「社会との境界に生きる」人と接するに際しての自分なりの方針を決めたいと思ってこれをまとめることにしました。

社会との境界に生きる人たちとの付き合い方

支援団体も提供している炊き出しのように可食の剰余食品を与えるのはどうだろう、というのはいちばん最初に浮かんだ案でした。でも受け取る側がそれを前提とした生活を送るようになっては困るし、周囲の飲食店や近隣住民との関係の問題もあり、却下しました。

毎度声をかけて対話を試みるという案も考えましたが、奇声を発せられたトラウマもあり、だいたい声かけしてどうすんだ精神科医でもあるまいに、こっちの「社会」に戻ってこいみたいな雰囲気を作っても本人の考えや現生活もあるだろうに、などのそもそも論もあって、却下しました。

ツイッター上で見た別のつぶやきをとてもいいなと思ったのでその表現を借りますと、廃棄食品の収集を通じてしか息ができない人が眼前に存在している時に、私はその人を責めるのではなく『そのままでいいよ』と認めてあげなめればならないのではないかと思います。廃棄食品を気持ちよく心ゆくまで収集いただき、散らかった後の掃除は社会のコストとして当方が引き受ける、という考えかたです。

友田健太郎/Tomoda Kentaro @Buffalo1999
「歌舞伎町は、ここで生きることを通じてしか息ができない人々を『そのままでいいよ』と認めてくれる『夜の街』であってほしいと思います」
午後7:00 · 2020年7月23日

境界に生きているのはこの廃棄食品依存の方だけではありません。当店が微力ながらお手伝いしている渋谷こどもプロジェクトもその延長にあると思いますし、プライバシーに障るので詳しく書けないのですが、当店の常連さんで老老介護状態の親子の顧客なども境界に生きていると思われます。さらにいうと当店のエンジンである外国人シェフらも境界にいる感覚を抱えながら異国で生活していると言えましょう。これらの方々には当方がある程度のコストを負担する覚悟で接しないといけないんじゃないかと考えています。

フロイト先生に相談したら、「社会との境界に生きる人々に明日の我が身を見て、そうなったときに助けて欲しいからそんなこと考えてるんじゃないか」などと診断されそうですが、自分でもよくわかりませんが、彼らが境界で摩擦を起こした時はしっかりサポートしなきゃいかん、ということだけは肝に命じております。

で、冒頭に紹介したツイートに戻りますと、以上のような考えから、役所という「社会」の窓口(=境界のフォーマルな形式)が境界に生きる人に「相手にされなかった」などと思われる対応をされたのであれば、それはあってはならなかったんじゃないか、と思う次第です。また次のゴミ収集日にはいつもどおりにゴミを出そうと思います。

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