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ヒーン(Heeng)の扉の向こうに新たな扉

小さな深鍋にギーを熱し、ヒーン(Heeng, हींग)を入れて甘い香りがたったら、クミンシード、赤唐辛子、カレーリーフといったホールスパイスを入れて、これらが油の中でジュワジュワと踊ったら、スパイスの香りの移ったギーをスパイスごとカレーの中に勢いよく注ぎ「ジュッ」という心地よい音を耳に聞き、沸き立つ香りを鼻腔に感じる。インド料理を作る人にはご理解いただけると思いますが、この「タルカ」の工程に入ると、キッチンのみならずレストランなら客席まで、家なら家中が、スパイスの芳香に包まれ、スパイス好きにはたまらない瞬間が訪れます。

tadka/タルカ
または chaunk / tempering / baghaara / vaghaar / fodni

冒頭に出た「ヒーン」は、フェネルの一種である多年生植物Ferula Assa-Foetidaの樹液を乾燥させた芳香性の樹脂で、植え付けから5年後に根や茎からオレオガム樹脂(oleo gum resin、油脂ゴム樹脂)を収穫できるのですが、その樹脂を乾燥させて粉末にしたものです。この樹脂を粉末にしたスパイスは、加熱前は悪魔の糞とも呼ばれる匂いながら、加熱後は甘い香りと香ばしい風味(かすかにレモンのような酢酸の風味も感じられる)を料理に与えるスパイスとして知られています。製品として販売されるときは、匂いを中和するために米粉やターメリックに混ぜて販売されることもあります。

https://balconygardenweb.com/how-to-grow-hing-plant-growing-asafoetida/

高温の油と出会うと、加熱前の独特な匂いはどこかに消え、えもいわれぬ甘い香りを放ち、料理に膨よかな旨みと厚みを加えるヒーンの魔法のような使い方は、一体にいつ誰がそんなんことに気づいたのか、いつも不思議に思っていました。でも現代に生きる私たちは誰もその最初の瞬間を知ることはありません。古くはヴェーダの文献に見られるとか、原産はどこそことか、そういうことはネットでいくらでもわかるのに、ヒーンの人類社会への浸透についての研究は少なくとも私は見たことがないのです。が、それについて言及した小さな記事をいくつか読んで、へー、と思ったのですが、新たな不思議が出てきて、困っています。


ヒーンという名前

インドではどの家庭のキッチンにもあるヒーン(हींग、英語表記ではHeeng または Hing)という不思議な名前は、Sauraseni Prakrit(中世北インドの言葉)の𑀳𑀺𑀁𑀕𑀼(フォントサポートなし、hiṃgu)、或いは Sanskrit(サンスクリット語)の हिङ्गु (hiṅgu)から来ているそうです。原産地のイランやアフガニスタンのあたりではAnghuzeh (ペルシャ語)、haltit または tyib (アラビア語)と呼ばれているそうなので、ヒーンに似た音で探すとアラビア語のtyibが近そうなので、おそらくHeengという呼び名は、アラブとの交易のなかでこのあたりから来ているのではないかと推測します。インドでは他に、 jowani badian (ジョワニ・バディアン)、ジャイアント・フェネル、カヤム、ティンなどとも呼ばれます。

ヒーン、固形と粉

欧州でヒーンはAsafoetidaと呼ばれ、ペルシャ語でゴムを意味する “asa”に、ラテン語で臭いを意味する “foetida” が合体した言葉です。臭いと言うのはどのくらい臭いのかと言うと、腐ったキャベツの匂いといえば伝わるでしょうか。別名で悪魔の糞、臭いヤニ、と呼ばれることもあるので、どれだけ強い臭いのスパイスなのかご理解いただけると思います。しかし匂いとは裏腹に、イランの山岳地帯ではその薬効から「神々の食べ物」と呼ばれきたことも考えると、このスパイスは特にアラブからインドにかけての地域では極めて重要なスパイスだと言っても過言ではないでしょう。

ヒーン前史

歴史上の記録によれば、ヒーンはシルフィウムの代用品として人気が高まったそうです。シルフィウムは古代ギリシャ・ローマ時代(紀元前6世紀から紀元1世紀ころまで)の人々に好まれたハーブで、彼らは薬効と避妊のためにこのハーブを服したそうです(後述のヒーンの染色体の損傷を発生させる可能性を紀元前に経験的に把握していた!ということかもしれません)。シルフィウムはリビア東部のキレナイカと呼ばれる地域にのみ生育し、"LASER" と呼ばれるゴム状の樹脂を分泌し、古代には広く収穫され、最も早く絶滅したハーブのひとつになったといいます。

プトレマイオス朝コイン裏のシルフィウム ー フェルラ・コミュニス CC 3.0. CNGコイン0
https://www.goodnewsnetwork.org/this-lost-roman-era-miracle-plant-may-have-been-rediscovered/

紀元前328年頃、アレキサンダー大王の軍はインドに攻め入る途中で、ヒンドゥークシュ山脈(パキスタン北方の現タジキスタンとの国境あたり)で自生していたフェルラ・アサフォエティダ(ヒーン)を偶然見つけました。大王の軍はこれをシルフィウムと間違えマケドニアに持ち帰り、また持ったままインドに到着し、そのままシルフィウムの代用品として受け入れたと言われています。

アレキサンダー大王の軍は、ヒーンを(シルフィウムと思い込んでいたとはいえ)一体なぜ欲しがったのか。スパイスとしてだったのか、あるいは避妊薬としてだったのか。兵士たちですから、間違いなく後者でしょうね。ひょっとしたら料理兵がスパイスとして欲しがったのかもしれないけど。でも実は避妊の効果があまりなくて(シルフィウムだったら効果があったのかどうかはわかりませんが)、それでスパイスとして広まったのかな、などと想像してしまうわけです。

ところで避妊薬としてのシルフィウムは経口だったとあるのですが、男女のどちらが経口したのかは判明しませんでした。経口も習慣的経口なのか、事の前後に経口するのか、甚だ不明確でした。ヒーンの扉を開いたら出てきた新たな扉です。シルフィウムの匂いももしヒーンと同じだったら、あの匂いですから、まさか外用薬ではないと思います。外用だったら事の最中に、あるいは経口交渉において、すさまじいい匂いと格闘しながら情事に励むわけですから、ベッドも臭くなるでしょうし、やはり経口でしょうね。昔の娼館はひょっとしてヒーンの匂いで充満していたのだろうか、などと想像してしまいます。まあもちろん欲求は匂いなんかどうでもいいのかもしれませんが(変な扉を開いてしまいました)。

ヒーン小史

ヒーンの原産地は中東で、インドにはアレクサンダー大王の前の紀元前600年頃にすでに伝わっていたと言われています。ヒーンを採れるFerula Assa-Foetidaの植生はイランの砂漠地帯やアフガニスタンの山岳地帯にみられ、インドでは育たないスパイスだったので、インドでは交易品として持ち込まれるしかなかったスパイスでした。インドには避妊薬として広まったのか、スパイスとして広まったのか、甚だ興味ふかいところです。これも扉の向こうにあった新たな扉です。

10世紀のアッバース朝の料理書『Kitab al-Tabikh(レシピの書)』にはヒーンのレシピがたくさんあるそうで、中でもヒーンの葉(al-anjudhan)の煮込み料理(アンジュダニヤー)には1章が割かれているそうです。

同じ頃、インド人はすでにヒーンを多用していたようで、12世紀に南インドの王ソメスヴァラ2世によって書かれた『マナソラーサ』には、ヒーンを使ったレンズ豆の料理「ドーシカ(dhosika)」が紹介されています。「ウラド豆、黒目豆、グリーンピースをペースト状にし、ヒーン、クミン、塩、生姜で味付けしたクレープ」で、おそらくドーサの前身と想像されます。また、羊の腸を煮込んだパンチャヴァルニ(「五色」)などの肉料理にも使われたそうです。

また『マナソラーサ』には、ヒーンを水に溶いて摂取するレシピもあり、これは西インドのマハラシュトラ州やグジャラート州で今でも続いているレシピです(これはひょっとしたら西インドにはヒーンを経口摂取して避妊薬として使っている事例なのかもしれないと、ドキドキしてしまいます。今度現地人に聞いてみます)。

16世紀にムガルがインドを支配すると、ヒーンはインド全土に広まり(後述のジャイナ教やアユルヴェーダでの使われ方も、ヒーンの広がりを後押ししたと考えられます、あるいは避妊薬として広まったのか)、その様子はポルトガルの博物学者で医師のガルシア・デ・オルタによる『Colloquies on the Simples and Drugs of India』(1563年、西洋で出版された東洋の香辛料に関する最初の科学書)の中に「最も使われているスパイスはヒーンで、ヒンドゥー教徒は皆、ヒーンで料理の味付けをする」と書かれています。

タマネギ、ニンニク、その他香味野菜は、上流カーストの一部では「媚薬」とされ摂取は精神的に好ましくないと信じられ、儀式的な食事規範として(バラモンにしてみれば、「下々の者よ、君たちに香味野菜を避けるこんな上品な食事はできないでしょ」といった優越的態度で)香味野菜を使わずにヒーンを使って風味を凝縮する(香味野菜に代わる)食材を使うようになりました。カーストによる階層化が進み、カースト間の食習慣の違いはより強調され、ヒーンは、知らず知らずのうちに、社会の分断を象徴するスパイスとなり、インド社会に浸透していったようです。

インドは長くヒーンの輸入国で(2020年にはアフガニスタン、イラン、ウズベキスタンから年間1,200トン(6千万ルピー(約1億米ドル)相当)が輸入され、世界で生産されるヒーンの40%はインドで消費されています。

現代ではヒーンは寒冷な砂漠地帯の未利用の痩せた土地でも栽培可能とわかり、2016年からインド国内でヒーン生産の研究が始まり、最近になってカシミール地方やパンジャブ地方の一部で栽培されるようになりました。

* パランプールにあるヒマラヤ生物資源技術研究所(CSIR-IHBT)は、ニューデリーの国立植物遺伝資源局(ICAR-National Bureau of Plant Genetic Resources (ICAR-NBPGR))を通じて、2018年10月にイランから6系統のヒーン型を入手し、インドの環境下での生産技法を標準化しました。

伝統医学とヒン

ヒーンは古代インドより伝わるアーユルヴェーダの世界においても、vata dosha(神経系・呼吸器系、循環器系についての流動的・動的な制御)のバランスを整える最良の処方のひとつとされ、日常的な健康問題を解決するスパイスとして重宝されてきました。抗炎症作用、抗酸化作用、抗菌作用があるとされ、頭痛や生理痛に効くとされています。

* アーユルヴェーダでは、身体、精神、行動の基本的な制御原理を3つのカテゴリー(vata, pitta, kapha)に分類しており、この3つのカテゴリーはdosha(ドーシャ)と呼ばれ、人は誰しもこの三つのドーシャのどれか(または二つ以上の組み合わせ)が支配的になり、各人の体質として表出すると考えられています。

またアーユルヴェーダ以外の世界でも、Unani(ペルシャや中央アジアのイスラム地域で発達した医薬)、Sidha(南インドの医薬)といった伝統医学の世界でもヒーンは重宝されています。

なお上述のヒーンの効能から、ヒーンは逆流性食道炎や過敏性腸症候群にはよくないスパイスと言われています。また染色体の損傷を発生させる可能性が指摘されています。

インド料理とヒーン

インド料理(特に葉野菜と茎野菜のみを基本とするベジタリアンのジャイナ料理)では、ヒーンは、硫黄分の作用でタマネギの香りがするのでタマネギの代用として、あるいはニンニクの香りもするのでニンニクの代用として使われることがしばしばあります(仏教徒のベジタリアンはヒーンを食さないようです)。そしてこのヒーンの用法は、タマネギやニンニクを忌避するシェフが世界のあちこちに現れた現代において今一度注目されることとなりました。ちなみに西洋料理でヒーンを使っているレシピはあまり見ませんが、Worcestershire sauce(ウスターソース)では使われている、とのことです(下記ウスターソースの紹介文では、a touch of Indian spices for authentic flavor!とありますが、おそらくヒーンのことかと)。

【効能】

ヒーンには消化を助ける作用が知られています。膨満感、ガス、消化不良を緩和するといわれ、消化に悪い豆や野菜を使った料理によく合わされます。豆料理の仕上げにタルカするダル・タルカはその意味で、消化の際にガスを発生する豆料理に、味も風味も消化効能も補う、素晴らしい調理技法の詰まった一品と言えます。

ヒーンは、血液の凝固を妨げるワーファリンの活性を増強するので、、ビタミンKを多く含む食品(納豆やクロレラ、青汁など)との組み合わせは良くないです。

お腹の調子が悪い時にバターミルクにヒーンを溶かし込んだ熱湯を少し混ぜて飲め(あるいはヒーンを直接ひとつまみ溶かす)、そうすると胃腸の調子が整うよ、と言われバターミルクを出されたことがありますが、日本人的にはお腹の調子が悪い時にバターミルク飲むとさらに悪化しそうなので、私はヨールルトにヒンを振りかけていただきました(お腹の調子は悪いままでした)。

【レシピ】

このヒーンを使ったヒーンの魅力を最大限に享受できる素晴らしいレシピがあるので紹介したいと思います。それは「ヒーン・トースト」です。

バターを熱して
溶けたバターにヒンを溶いて
パンをソテーして(例えば食パンを短冊状に)
焼けたらみじん切りにしたフレッシュコリアンダーの葉と塩をふりかける

https://www.breakingnaan.com/heeng-toast/

フレーク状のマルドン·シーソルトを振りかけると、さらに美味しくなる、そうですが、普通の塩で十分です。コリアンダーの代わりにパセリにすると、カフェ感が出て、オサレな感じです。


参考文献一覧

Poonam Mahendra and Shradha Bisht
Ferula asafoetida: Traditional uses and pharmacological activity
Pharmacogn Rev. 2012 Jul-Dec; 6(12): 141–146.

BreakingNaan in Recipes
Heeng Toast
January 2, 2017

Zaria Gorvett
The mystery of the lost Roman herb
https://www.bbc.com/future/article/20170907-the-mystery-of-the-lost-roman-herb
8th September 2017

India Education Diary Bureau Admin 
CSIR-IHBT Efforts to enhance cultivation of Heeng and Saffron
https://indiaeducationdiary.in/csir-ihbt-efforts-to-enhance-cultivation-of-heeng-and-saffron/
On Jun 9, 2020

Vidya Balachander
ASAFOETIDA’S LINGERING LEGACY GOES BEYOND AROMA
Aug 19, 2020

IANS 20 October, 2020
CSIR Introduces 'Heeng' Cultivation in Himachal's Lahaul Valley to Utilise Waste Land
https://weather.com/en-IN/india/environment/news/2020-10-20-csir-introduces-heeng-cultivation-in-himachals-lahaul-valley
20 October, 2020

Milan Sharma
Heeng will now be cultivated in India for first time in cold-dry Himachal district
https://www.indiatoday.in/india/story/heeng-cultivation-in-lahaul-spiti-1733259-2020-10-20
Oct 20, 2020

Aparna Alluri, BBC News, Delhi
Asafoetida: The smelly spice India loves but never grew
https://www.bbc.com/news/world-asia-india-54617077
22 October 2020

This is why you should consume Asafoetida (Heeng) daily, Mar 10, 2021
https://timesofindia.indiatimes.com/life-style/food-news/this-is-why-you-should-consume-asafoetida-daily/photostory/81436168.cms

Raju Sajwan
Tantalising wait: Will India be able to harvest its own ‘heeng’ 
11 December 2021

Madhur Jaffrey
Asafetida, India’s Odorous Taste of Home
https://www.newyorker.com/culture/kitchen-notes/asafetida-indias-odorous-taste-of-home
October 14, 2022

Shalbha Sarda, CNN
Devil’s dung or dinner delight? The story behind hing, one of India’s most divisive ingredients
https://edition.cnn.com/travel/article/hing-indian-food-intl-hnk/index.html
January 15, 2024

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