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《セルビア情報》 セルビア共和国の国民食

世界を敵にまわしたセルビアの人たちが日々食べている料理 

文・撮影/市川路美 

セルビア出身のサッカー選手

ピクシーの愛称で親しまれ、圧巻のスキルで日本中を魅了したサッカー選手ドラガン・ストイコビッチ。歴代外国人Jリーガーの中で最も日本を愛し、最も日本人から愛された選手なのではないでしょうか。ピクシーは1994年、キャリア全盛期の29歳で名古屋グランパスエイトに移籍しました。ヨーロッパの強豪でプレーし、東欧のブラジルと呼ばれたスター選手揃いのユーゴスラビア代表でエース・キャプテンとして活躍する選手が、発足したばかりの日本のJリーグにやってくる。日本にとっては奇跡としかいえない出来事の背景には、ピクシーの母国セルビアの国際情勢が強く絡んでいました。

現在のセルビア、スロベニア、クロアチア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ、マケドニアは、かつてユーゴスラビア社会主義連邦共和国という一つの国を形成していました。1991年にソ連が崩壊し社会主義国家に混乱が起こると、ベルリンの壁崩壊をきっかけに東側諸国に民主化の波が押し寄せます。社会主義政権が相次ぎ崩壊し、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国も内戦に突入しました。

数十万人の死者と数百万人の難民を出す壮絶な戦いのすえ、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は消滅します。7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ1つの共同体と呼ばれた国家の内戦は、様々な要素が複雑に絡み合い一つの正解にたどり着けません。どの国も加害者で、どの国も被害者でした。ところがアメリカのメディアは、全てをセルビアのせいにして諸悪の根源のような情報操作をします。その結果、セルビアは世界中を敵に回し孤立しました。

世界中から悪者にされたセルビア

ユーゴスラビア紛争中、セルビア人であるピクシーはメディア、観客、そしてチームメイトからも差別を受けました。

心が折れそうになった時、名古屋グランパスエイトからオファーが届きます。最初は気分転換の旅行気分で、Jリーグで長くプレーする気は全くありませんでした。契約期間もわずか半年。しかし最終的にピクシーは、現役を引退する2001年まで名古屋グランパスエイトに留まりプレーし続けました。しかも1996年にはイングランドの強豪アーセナルからのオファーを「名古屋がこれからチームとして強くなるには自分の力が必要」として断っています。ピクシーは後に「おそらく、当時アーセナルからのオファーを断ったのは、世界中で私だけだろう」と雑誌のインタビューで語っています。

世界の大舞台で活躍できる実力を持ちながら、日本のサッカー界発展のために名古屋に留まり続けたのは「日本はセルビア人がセルビア人であるというだけで差別されない、地球上で数少ない国」だったからだといいます。

1999年にコソボで武力衝突が激化すると、アメリカ主導のNATO軍は国連決議を通さずに、制裁としてセルビア空爆を開始しました。戦闘機の出撃が3万5219回という熾烈を極めた空爆が3か月続き、セルビア軍は撤退。後にアメリカ政府の強力な後押しでコソボは独立しました。この時、すでに世界中に蔓延していた「悪者はセルビア」のイメージから、誰もがこの空爆を「悪者を成敗するためにはやむなし」と看過していました。

そんな状況の中、ピクシーは遠く離れた日本の地で一人闘っていました。Jリーグの試合でアシストを決めると、ユニフォームをたくし上げ、「NATO STOP STRIKES(NATOは空爆を止めろ)」と書いたTシャツを観衆にさらし抗議したのです。

かつてピクシーが、ユーゴスラビア代表として優勝候補とされていた欧州選手権の開催地に飛行機で降り立った時、ユーゴスラビア紛争の制裁として国際大会への出場禁止が決定しました。ユーゴスラビアのチームは、空港からそのまま強制帰国させられます。そんな苦い経験を持つピクシーだからこそ「スポーツと政治は別物」と常に政治的発言を避けてきました。それでも、たとえ自分のポリシーに反しても、たとえ全世界を敵に回したとしても、死の恐怖におびえて過ごす故郷の人たちの為に抗議せずにはいられなかったのです。

NATO軍の空爆で崩壊した建物のいくつかは、今でも無残な姿で残されていて「決して忘れない」のメッセージを強く伝えています。

NATO軍による空爆跡
空爆の証を残しながら再建された建物
当時の姿をそのまま残した部分

セルビアを訪れた時、何時も他の国でするようにツーリストインフォメーションへ地図をもらいに行きました。世界共通語である英語の地図が見当たらなかったので「英語の地図はどこですか?」と聞くと、「私たちは英語が嫌いなのでありません」との答えが返ってきました。20年という月日は全てを忘れるには短すぎるのです。

セルビアを代表する料理

世界中から悪者扱いされ孤立したセルビア。そんな特異な国セルビアの人たちは、どんな料理を食べているのでしょうか。セルビアを代表する料理はチェバピとプレスカピッツァです。

チェバピとは牛、豚、羊のミンチ肉を棒状にして焼いた料理。セルビアに限らずバルカン半島全域でよく食されていて、トルコ料理が元となっています。

チェバピ

バルカン半島は、オスマントルコに支配された歴史を持つ土地なので、トルコ料理の影響を強く受けています。とはいえ、イスラム教徒が少ないセルビアでは、豚肉を主体にして作ります。ひき肉に小麦粉、塩、コショウ、ニンニク、そしてスパイスを混ぜてよく練ってから棒状に成形します。作る人によって味付けが違うので、一見同じようでいてどこか微妙に異なる料理。ソーセージやハンバーグとは違う、弾力のある食感が特徴です。

セルビアでチェバピと人気を二分する料理が、プレスカピッツァです。セルビア風ハンバーガーで牛、豚、羊のミンチ肉をハンバーグにしてパンで挟みます。日本のハンバーグに近いのですが、玉ねぎは入らずスパイスの味がきいています。チェバピもプレスカピッツァも、辛いものが好きな人はピリ辛のパプリカパウダーを大量にふりかけて食べます。

プレスカピッツァ

セルビアの人たちはビュレクと呼ばれるパイ料理もよく食べるのですが、外食で食べるというより家に持ち帰る人がほとんど。朝食や夕食、またはスナックとして家に常備しているようです。

ビュレク セルビアを代表するペストリー

中の具はひき肉、カッテージチーズ、マッシュポテトが主流。デザート系としてチェリーがゴロゴロ入ったパイも人気があります。

チェリーの入ったビュレク

セルビアでの外食

一般的にセルビア人が外食するとなると、決まってチェバピかプレスカピッツァの二択です。それ以外の選択肢もあることはあるのですが、セルビアの人たちはチェバピかプレスカピッツァしか食べません。特に最近は、安いとされていたセルビアの物価がうなぎ上り。セルビア人のお給料で安心して食べることのできる外食が、チェバピかプレスカピッツァに限られてしまっていることも要因の一つなのかもしれません。そのため街にあるレストランのほとんどがチェバピかプレスカピッツァのレストランなので、セルビアでバラエティ豊かな外食を楽しむのはかなり難しかったです。

興味深いことに、中国料理のレストランが沢山ありました。中国はNATOのセルビア空爆を反対した数少ない国の一つ。社会主義国家時代からのつながりもあり、関係がとても強いのです。近年は中国資本も多く流入しています。どのレストランもかなり本格的な中国料理を提供していて、価格もリーズナブルです。

とはいえ、セルビアを訪れたからには、是非セルビアの国民食チェバピとプレスカピッツァ三昧を楽しんで下さい。


(2023年9月30日発行「素材のちから」第50号掲載記事)

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