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満州逃亡録 祖国への道

はじめのはじめに

終戦の日、ふと本棚にある祖父の自叙伝を手に取り読み返しました。

七十五年前、軍人として満州にいた祖父、八月十五日、終戦の勅語があってから、それこそ堪え難きを堪え、忍び難きを忍んできた道のりが、実体験として描かれています。この満州からの逃亡が成功しなければ、今私は存在していなかったでしょう。

祖父はこの自叙伝からイメージしづらいですが、とてもひょうきんでユーモラスな人でした。小さいころ私の実家の裏にある幅10mくらいの川を指さして「おじいちゃんはあれくらいだったら向こう岸まで跳べるんだ。今日は調子悪いから跳ばないけど、今度遊びに来た時に跳んでやる」とニヤニヤしながら話していて、マジ?スゲー!と思ったものですが、遊びに来る度同じ事を言うんですね。しかし結局、約束の10mジャンプは見れないまま他界しました。

そんな祖父に感謝をしつつ「是非後世に伝えたい」という思いを、子孫である私がインターネット上に永遠に残してしまえと思い立ち、手始めにnoteに書き起こすことにしました。

田中荘一郎 令和二年八月十五日

はじめに

日本軍の他国への侵略は、昭和六年満洲(現中国東北部)を手始めに、中国・仏印・マレーシア・ビルマなど南方諸島全域にわたり、昭和十六年十二月にはついにアメリカに矛先を向けて真珠湾の奇襲攻撃を敢行した。しかし、戦局はこれを頂点としてあとは敗退の一途を辿り、昭和二十年八月に米軍は、広島・長崎に相次いで原爆を投下。さらにソ聯軍の『対日宣戦布告』などで日本は決定的な打撃を受けた。同年八月十五日にはついに配線を認め、降伏調印の結末となったのである。

終戦時私のいた満洲には、在留一般日本人の総数が百三十万人以上を数え、中でも満蒙開拓義勇隊として国策的に満洲奥地に移住した開拓農民の数は、三十万人を超えるものであった。しかし、奥地に住むこれら在留一般日本人は、頼みの綱である関東軍(在満日本軍)に総て置き去りにされたのであった。

住家を追われ、現地人の迫害と略奪の中で身をかばい、衣なく、食なく、着のみ着のままの、ただ当てのない死の放浪あるのみだった。零下三十度を超す寒気は情け容赦なく肉体を蝕む。軍国日本の侵略の恨みが、現地人の中に一挙に爆発、日本人への暴行、略奪、迫害となった。誰にも知られることなく・・・誰にも葬られる事なく、丸太の如く放置され死んだ日本人・・・。幼児のほとんどは飢えと寒さと栄養失調で死んだ。その数、二十万人を超えた事であろう・・・。

時がたつにつれ当時の在外同胞の悲惨な姿の改装も追憶も、いつの日か忘れ去る時が来るであろう。私はこの事実を目で見、体で乗り越えて来た者として、亡くなられた方々に対し心から冥福を祈るとともに、我が体験の一部を是非後世に伝えたい。

そして永久に戦争のない事を心から願うものである。

大平新一 昭和五十七年十一月十五日​​​​

満州国略図

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●第一部 終戦から引き上げまで

ソ聯が対日宣戦布告

重苦しい爆音が突然弊社に響いて来た。窓から見上げた戦友が「おやっ・・・あれはソ聯機じゃないか・・・友軍機はどうしたんだ・・・みんなは」澄み切った青空の広がる新京の上空を、悠々と五機編隊のソ聯戦闘機が飛んでいるのを唖然と眺めていた。友軍機の姿はおろか、満州国の首都であるここ新京には、各所にある高射砲陣地からの応戦の気配もない。一体どうなってるんだ、しかもソ聯機は戦闘行為もなくやがて悠々と飛び去って行った。

ときは昭和二十年八月九日午前十時ころであった。私は当時鄭家屯に駐屯する第三方面軍司令部付勤務であったが、主計将校特別補充教育のため、関東軍経理学校(新京郊外の香房)に入校中であった。従って戦闘部隊ではないので情報も遅い。「負けたんだ・・・いやソ聯の攻撃だ・・・それならなぜ飛び去ったんだ・・・」等の噂のうちに漸く本部から、ソ聯の対日宣戦布告のことが知らされた。そして経理学校在学中の私たちに『急きょ各原隊へ復帰すべし・・・』との命令が出た。私の原隊は前に述べた通り第三方面軍司令部(司令官後宮大将)であったので、第三方面軍関係から入校中の下士官候補者隊兵八十人の引率指揮を取り原隊復帰を命ぜられた。八月十一日新京駅にて野戦鉄道司令部と折衝の結果「お前たちの原隊はもう鄭家屯にはいない、白城子に転戦している」と言われ私の部隊はハルピンに配車命令が出された。私はいつの間に部隊移駐をしたのか不思議でならなかった。

やっと夜おそく配車になりハルピンへ向けて出発した。翌十二日昼頃、ハルピンに到着、そこで初めて驚いた。駅ホームは日本人の引揚者で雑踏しており、聞くところによると、東満国境からなだれ込んだソ聯軍が、すでに下城子、林口まで進入し『明日は牡丹江が完全に戦車部隊に踏みにじられるだろう』等の噂に、情報からはみ出した私たちはただ悲痛な思いをするのみだった。

私はハルピン野戦鉄道司令部に行き白城子行の配車を折衝したところ、ややしばらくして「第三方面軍は白城子には居ないことは確かだ。ハルピンの軍司令部へ行け」と言われ、我が部隊八十人を引率してハルピン軍(軍名称は覚えていない)司令部に行ったところ、参謀少佐が、お前たちの原隊は奉天に南下しとる。この非常事態に何をボヤボヤしとる。お前たちはもう帰さん。我が軍の指揮下に入れる」

いかめしい参謀肩章を震わせながらの一喝であった。直ちに宿舎が与えられ給養を受けた。何が何だか分らぬままに翌十三日を迎えた。命令系統を一切持たない、臨時に編成した兵員八十人の、しかも非戦闘員に等しく、銃はあっても弾薬を持たない我が部隊であった。

ソ聯の対日宣戦布告以来四日目であるが、その状況はハルピン駅で日本人引揚者から聞いただけなのである。ハルピン軍司令部からは、何の命令もない。私の部隊は、私のほかに曹長が一人で、後は全部上等兵ばかりであった。騒然とした他部隊の姿を横目に見ながら、暢気さと、不安が交錯する中に夜を迎えた。

ハルピン軍司令部より部隊脱走

私は曹長とひそかに相談をし、「どうやら戦局は最悪の事態らしい。命令至上主義の軍隊では確かに軍律に反することだが、夜陰に乗じて司令部を脱走しよう。どうせ死ぬなら戦友のいる原隊で死のう」と覚悟を決めた。

私は昼間から弾薬庫や糧秣子の場所を調べておいた。仮設の倉庫であり野積みと変わりなく、どうしたことか歩哨も立っていなかった。

私は曹長に命じて、米三俵、乾パン、牛罐、弾薬五千発ほどの盗み出しを命じ、曹長は運搬用の荷車も見つけてきた。私は兵を集め弾薬を六十発ずつ持たし、密かに夜陰に乗じて出発した。将校の指揮する軍装した部隊は、いかなる時でも司令部衛門衛兵は捧銃で通行を許してくれる。私はハルピン駅で野戦鉄道司令部に強引な配車要請をし、ついに十四日朝の配車が決まった。

当時の陸軍では、指揮命令を無視し、部隊がそっくり単独行動をするなどはおよそ考えられることではなく、軍規違反、敵前逃亡、等で当然軍法会議に付されるものであった。だが幸いなことに、ハルピン軍司令部はソ聯軍攻撃状況下の混乱で、私たちのような員数外の小部隊の行動に注意を払う余裕がなかったらしい。

満州北部の大都市ハルピンは、鉄道においても、牡丹江、チチハル方面からの主要拠点である。英ホームはまさに混乱を極めていた。客車も貨車も、みんなすし詰めで、もちろん切符を買う必要もなく、半狂乱の日本人疎開者が先を争って汽車に乗るため、紙をふりみだし、重い荷物に顔をしかめ、押しのけ払いのけ、泣きわめき、怒号の声が二百メートルのホームいっぱいに響きわたり、悲愴感極まるものであった。

完全に無警察化した状態に私は初めて遭遇したのであった。疎開者たちはみんな日本を目指している。だがこの帰社はどこまで行けるのか見当もつかない。少しでも南へ下がろう、ただあてもない難民疎開の集団であった。その混乱の中をかき分け、列車最後尾の客車に我が部隊は乗車したが、軍用標札を無視して疎開者がなだれ込んできた。私は身動きできない状態のまま、同乗した疎開者に奥地の状況を聞きながらいると、汽車はとある小さな駅に一時停車した。満杯の客車の中から一斉にたくさんの人が走り出て、ホームで人前をはばからず大小便の放出であった。汽車の出発合い図があるのに、私の窓下のホームに、莚を敷いて座っている老人がいる。七十歳くらいの男であった。

そばに三十歳くらいの夫婦が、握り飯と芋を置いて別れの涙を流していた。汽車が動き出してから慌てて若夫婦は飛び乗った。老人は動かぬ体をねじ曲げるようにしニコニコしながらいつまでも、遠ざかる我が汽車に手を振っていた。

それは駅名を忘れたが、ハルピン駅から多分四つ目の小さな駅ホームの出来事であった。不思議な思いで一緒に牡丹江方面から疎開して来た人に聞くと、牡丹江近くの開拓団の人で、歩く事も立つ事も不自由な人、このままで息子夫婦の介抱で来たが、「これ以上みんなに迷惑をかけられない・・・私のためにお前たちまで犠牲にすることは出来ない。小さな駅に置いて行け・・・」と言い続けたらしい。置いた息子夫婦、そして置かれた老人ーこの世にあってはならない、いやあるはずのない最も悲惨な別離の姿であった。ニコニコ笑顔でいつまでも息子夫婦に手を振る姿、ホームに柵用の囲いの柏の葉が枯れ落ち始め、恐らく日本人はいないはずの小さな駅舎、八月下旬の冬服着替え時期が目前の八月十四日だった。

いまだに忘れようとて忘れることができない。

私たちを乗せた汽車は止まると思えば走り、走ると思えばまた止まる、といったあんばいで、ハルピン以上に愴絶な新京駅を横目に、車内で夜を過ごし、翌八月十五日午前十時過ぎに四平街駅に停車した。

四平街官舎に妻はいなかった

私の妻『静子』と長男『雅彦』は四平街陸軍官舎に住んでいた。五月に妻子と別れたきりであった。駅で停車時間を聞くと一時間くらいはあるだろうとのことで、駅より二キロメートルほどある官舎に行く決心をし、駅前の憲兵派出所から自転車を借り官舎に向けて走った。

私の官舎は施錠されだれも居なかった。窓から見ると家の中は変わってない。裏に回って見ても部屋はきちんと整頓されていて、妻も雅彦も姿は見えない。隣近所の第三方面司令部関係の家を覗いて見たが、藻抜けの空である。私のすぐ隣は他部隊の福原中尉が住んでいたので、止むを得ず聞いて見たところ「十二日の朝になってみたら居なかったので、どうしたんだろうと思って近所を回って見たら、第三方面司令部関係の方は殆どいない・・・私の主人は今朝も出勤したが、誰も居ないこの広い官舎街に、ポツンといるのは心細くてたまらない」と奥さんが青ざめていた。

私は別れを告げ、再び私の家の前に立ち、暫しためらった。窓を壊して入ろうか・・・長靴の新しいのが靴箱の上に見える。今履いているのが古いので、よほど履き替えて行こうかとも思ったが、せっかく施錠してあるのに・・・と心を残して駅に自転車を走らせた。妻よ、雅彦よ、どこへ行ったんだ・・・せめて隣の奥さんにでもことづけられなかったのか、なぜ・・・不吉な予感が付きまとうばかりであった。

後で知ったことであるが、四平街の私の住んでいた官舎街(約四百戸)が、十六日満人鮮人の現地住民数千人に襲われ、略奪暴動により、私たちの残した家財全部が持ち去られ、当時残っていた僅かの日本軍人家族は、ほとんど殺されたと聞いた。私の隣に住んでいた奥さんとの対話を思い出し、別れ際の青ざめた顔が目に浮かんでくる。

私はそんなことになるなんて予想も出来なかった。私の全財産を残した官舎に、再び帰ることがないなんて、夢にも考えなかったのであった。

終戦の詔勅下る

私の汽車はまだ停車していた。八月十五日の正午近く、天皇の重大放送があることを知り、全員がピーピーと雑音ばかりのラジオにしがみついた。天皇の声は確かに聞こえたが雑音にかき消されて、判断できない。ただ辛うじて

『国民は耐え難きに耐え、忍び難きを忍ばねばならぬ』

の声が雑音の中から聞き取れた。「戦争に負けたんだ・・・いやそうじゃない・・・そうだとしたら負けたというはずだ・・・」

奉天に向かって走る汽車の中は騒然たるものであった。連絡を断たれて、原隊を探しながらの我が少数部隊には情報を得る手段が何もなかった。午後四時ころ奉天駅に着いたが、ハルピン、新京ほどの駅の混乱は見られなかった。北満の緊迫した空気が、まだ南満のここまで届いてないのだろう。第三方面軍司令部は旭町の旭高等女学校校舎に駐屯しているのを知り、漸く原隊に帰り着いた。私は経理部出納官吏として業務の引き継ぎを受け、不自由な校舎の一部で業務に付いたが、いまだかつて敗戦を知らない日本軍としては、敗戦に対する予想もしていないだけに、軍司令官も参謀長も、ただうろうろするだけだった。

終戦直後の奉天は、ソ聯軍の攻撃の手はまだ届かず、北満の状況とは違い、静かな空気だったが、耐えられない圧迫感が各将兵の胸を襲っていた。

その結果が意外に早く現われたのである。十六日午後一時ころ、校舎に取りかこまれた広い校庭の真ん中で、少尉と上等兵の二人が『天皇陛下万歳』と大声で叫び、日本刀で割腹自殺するのを、二階廊下の窓から目撃したのである。

武装解除された日本軍

ソ聯軍は十六日に奉天に進入し、十八日には日本軍の武装解除が行われた。兵員全部の武器は、ソ聯兵の突きつける自動小銃の前に山積みにされた。この惨めな敗北感は、味わった者のみの知ることであり、今思えば馬鹿げた神国日本の伝統を誇る教育の末路であり、馬鹿げた大和魂と神風軍隊の消滅の瞬間であった。将校には特別軍刀だけは許された。せめてものソ聯軍の好意とかであった。

確か二十日であったと思う。我々の属する第三方面軍司令官の後宮大将と、参謀長の小幡少将は、ソ聯軍に捕らえられて飛行機でモスクワへ連行された模様であった。

私は軍の現金が少ないので、いつ何時、必要が生じたら困ると思い、この日、満州中央銀行奉天支店に兵を連れて、三千万円を引き出しに行った。しかしあいにく現金の不足で、止むを得ず二千万円だけを現金化して来た。

翌日、奉天市内で初めて暴動が起こったのであった。しかも中央銀行が一番先に狙われて、銀行の形も機能も完全に失ったらしい。私はこれを知り、良くも決断して現金化して来たものだと思った。

しかもその現金は百円札と五十円札が主であり、二千万円といえば軍用行李に、びっしり詰め込んで七個である。司令部は形ばかりで衛兵も、監視兵も、武器もない。従って出納官吏の責任者として私が保管せざるを得ないのである。私は夜には現金行李を並べて、その上に毛布を敷いて寝ることが続いた。武装解除後は、われわれ丸腰の武器をもたない部屋に、昼夜の別なく、自動小銃を持ったソ聯兵が、監視のためかどうか分からないが、銃を突きつけ、日本兵から万年筆、時計、長靴等を手当たり次第強奪して行く。私たちは彼らのなすがままという一週間であった。

捕虜収容所に収容される

八月二十八日、いよいよ私たち群司令部要員に対し、よりょ収容所行きのソ聯軍命令があった。

奉天北稜にある旧東北大学が、捕虜収容所であった。私たちはそれぞれ手荷物を持って、延々六キロほどの道程を歩いて、ソ聯兵に連行された。奉天郊外の北稜に通ずる幅広い並木道、それは一年ほど前の野戦建築隊勤務当時の通い慣れた道であり、さらに並木の右側に立ち並ぶ紡績工場社宅街も、官舎として住んだところで、十九年にはB29の投下する500キロ爆弾の恐怖に追われて、妻が幼い雅彦を抱いて地下壕にもぐった所でもあった。

北稜前を右に曲がり、五百メートル位で捕虜収容所の入口である。私たちの一行は約三百人の隊列であったが、我々とは別の隊列が歩いて行く。それは皆一般の日本人五百人ほどで、ソ聯兵に銃でおどされながら連行されて行くのである。

お互いにブツブツ言いながら。

俺たちは民間人だ・・・。

なぜ連行されるのか分からん・・・。

風呂帰りのタオルと洗面器を抱えた姿、ちょっと外出といった下駄履き姿、勤めの途中の背広姿等々の人々が突然道路に網を張られ、しゃにむに連行され、捕虜にされたのである。それはソ聯進駐軍が、当初本国に奉公した日本軍捕虜員数を、実際に収容の結果、その数が不足していたので、員数を合わせるための無茶苦茶な日本人狩りに引っかかったのであった。

この奉天捕虜収容所は、奉天郊外の北稜の右隣にある旧東北大学であり、周囲約四キロメートルのレンガ塀に囲まれた中に、三十有余の建物が散在して、景観、環境ともに優れた所であった。

私たち第三方面軍司令部要員約三百人は、正門に近い中心の校舎を充てられ、急増の二段式板張りベッドの住居となった。私たちが収容された八月二十八日頃には、二千人くらいであったが、毎日毎日北稜通りを望めば、延々長蛇の捕虜の列で、収容所内の数は見る見る内に万を越した。私の敦化守備隊当時の先輩であった中根大尉は、朝鮮国境の安東から奉天まで徒歩で一個中隊を率いて到着したとのことで、衣服や靴などはボロボロであった。

ソ聯軍はこの収容所に約六万の日本軍捕虜を収容するらしく、各地で武装解除した日本軍を連日の如く追い込んでくるとともに、九月五日頃より、五百人から千人単位で毎日シベリア方面へ移送を開始した。

収容所に食料は支給されるものの、肥料に使われる大豆粕(板豆粕)のみであった。ハンマーで叩き割り、手で崩してかじるその味はまことにお粗末極まるものであったが、後で南方戦線の島々に転戦した日本軍の話に比べると、まだまだ豆粕の食糧は幸せであったと思う。しかし、食糧に不足のなかった関東軍の我々としては、豆粕では我慢がならなかった。

捕虜収容所長のステルン大尉と交渉して、「我々の食糧は我々で確保したい」と申し出て許可を貰い、野菜、肉類の調達に奔走した。第三方面軍司令部要員は、収容所内部全般の連絡統制役であった。幸い出納官吏である私には保管軍資金の二千万円がある。コメは野戦倉庫より何とか搬入できた。輜重隊は五百頭に上る軍馬に車両が引かれての捕虜であった。したがって兵より大事な軍馬が、一変して貴重な我々捕虜の食糧源となった。

食糧調達隊が編成され、毎日奉天市城内の満人市場で調達に当たった。輜重車両約百台で魚菜副食類を、一日約十万円から十五万円くらい買い入れたものであった。

終戦直後に満州中央銀行から軍資金を現金化した紙幣は、当時としてはどこでも通用しており、これがもし軍票であったら、またこの現金が無かったら・・・こんなことは許されないで豆粕だけでしのぐことになったであろう。

捕虜は毎日のようにシベリアに向けて移送された。行き先は全然分からない。だがこの捕虜列車は、奉天駅よりハルピンを越えて真っ直ぐに北上してソ聯国内に行っていることは事実だが、どこに送られ、何をさせられるのかは不明であった。出発前夜に移送命令が出されて朝には有無をいわせず出発である。行く者は諦めの表情、送る者はいつか俺も・・・のうつろな心で、お互いの別離の言葉は決まっていた。それは

『達者でな・・・モスクワで合おう・・・』

九月十五日ころであった。捕虜収容所内で知った満鉄職員で、確か工藤さんと言った。もと、奉天市鉄西に住んでいたらしいが、突然道路上でソ聯兵に拉致され、捕虜収容所から九月七日ころシベリア送りとなった。ハルピンを過ぎてから貨車より逃げ出し、苦労の末に奉天に辿りついたその日に、ソ聯兵の網にかかり、再び収容所に連行されたとのことである。その人が突然私の部屋に現れ、

「俺はもう駄目だ・・・どこまで行っても逃げられやしない・・・馬鹿見たよ・・・」

と言う。話によると、シベリア行きの貨車はすし詰めで外から施錠され、用便の時だけ開けるという。ハルピンを過ぎたある小さな駅で、この用便中、戸があいている隙に逃げてきたらしい。

捕虜収容所内の集団脱走

捕虜収容所長はステルン大尉であった。その兵力は知らないが、表門には下士官の率いる十五人くらいの監視兵、周囲四キロメートルの塀の外側には、百ー二百メートルくらいの間隔で監視兵が配置され、夜間は要所を三重位に配置していたようであった。

家族との交信も、日本の状況も、すべて盲目状態の我々捕虜は、何をするでもなくただシベリア行きを待つだけの毎日である。不安と焦燥に、うつ病に罹る者、発狂する者も出始めた。そのいら立ちが昂じて逃亡者が続出した。

一番逃げやすく危険性の少ない、有利な場所を探し始めた。昼間、周囲四キロメートルの塀の内側を逃げ場所選びのため歩きだした。ただし脱走防止のため、塀の五メートル以内に近寄ると銃殺されることになっていた。

その最適の場所はそれぞれに決めるが、大体に東北の一角が一番多いようであった。

消灯が午後九時、それから無気味な三時間が過ぎ、十二時~一時ごろ自動小銃が、けたたましく鳴り出す。時には流れ弾が私たちの部屋の窓ガラスを破る。また逃げ出したんだなあ・・・と寝床で聞く銃声が子守唄のようなものだった。

私と常時起床を共にした軍属で、佐藤といい確か名古屋出身の者がいた。ある晩、突然脱走すると私に洩らした。私は「そのうちに別な安全な方法があるから・・・」と止めたが「いや明日にもシベリア送りになるかも知れない。友達が奉天で待っているはずなんだ・・・」と言って聞き入れない。

止むを得ず夕食を共にし、消灯後の息づまる思いの三時間が過ぎた。何の荷物も持たず、「じゃあ・・・サヨウナラ。明朝死体になっていたら線香を上げてくれ・・・」と言って部屋を出た。真っ暗い晩であった。時計は十二時をちょっと過ぎていた。私は床の中で銃声を待つだけであった。

時計は十分~二十分と過ぎたがまだ何の気配もない。私はいつもと違った緊迫感に襲われ始めた。なんとか佐藤君よ逃げてくれ、と祈る思いが昂じてきた。三十分を過ぎたころ、途端にいつもより激しく、自動小銃の連続発射音が、遠くに、近くに私の胸に飛び込んでくるように響き続けた。奴のことだ、なんとか逃げられたろう、と思い、床に入り直し、いつしか止んだ暗黒の、そして無気味な静けさの中に眠りに入った。

何か遠い所で呼ぶ声がする、夢の中で私を呼んでいる。そんな気持ちの中で私は目を覚ました。すると顔も手も、体中が泥だらけになって逃げたはずの佐藤が立っている時計を見たら午前四時だ。呆気に取られた私に佐藤は、「とても恐ろしくて引き返してきた・・・また仲間に入れてくれ・・・」とだけ言って、かなり疲れたのか、隣の毛布に潜り込んで鼾をかき出した。

翌朝聞いたら、約三百人が同時に塀を乗り越えて逃げ出した。それに気がついた監視兵が、めくら滅法に銃を撃ちだした。塀を越えて百メートルほど進んだがとても前進できない。他の連中は遺体を残しながら遠くへ走ったようだ。取り残された佐藤は一人ぽっちになり、ちょっとの音と気配で弾が飛んでくるので、進も退くもできず、三時間かかって漸く塀の中に入った、とのことであった。佐藤は「命あっての物種だ・・・もう命は粗末にしない・・・」といって逃げることを諦め、十月五日ごろシベリアに連行されて行った。

数万の捕虜なので、一晩に百ー三百人くらいが夜暗に乗じて塀を乗り越えて逃げ出す。そして大体10%くらいが監視兵の銃弾に倒れる。すなわち10%の危険率であるから、集団を組んで逃げる方が成功率が高い。こそこそ少人数で逃げることの方が危険率が高いのである。

そろそろ私たちもシベリア連行だ

十月を過ぎての収容所は収容された捕虜の数も段々減り始めた。私の毎日の奉天市内満人市場での魚菜調達も、一日置きとなり、軍資金も残り五百万円位になりこの分だと十月末までにはほとんどがシベリアに送られてしまうだろうと思った。「そろそろ私たちの番がくるぞ」毎日の話題はそんなことばかりであった。

黒川中尉が内地へ帰りついたらしい・・・との噂が入ったのもこの頃であった。「あの野郎とんでもない奴だ」と私たちは歯がみしてくやしがったものであった。

第三方面軍参謀部付の黒川中尉は、九月初めごろ経理部を訪れ「指揮下の大隊が山中で食糧も何もなく困難しとる。これを救出のためにソ聯軍の許可を取ってあるので出掛ける。そのために軍資金が必要である」とのことで、私は軍資金二百万円を渡したのであった。その後何の音沙汰もないままであったが、噂によると黒川中尉はその金を私物化して安東付近で木造船を現地人から買い取り、無事日本へ密航したらしい。事実としたら捨て置けない行為である。当時の二百万円というのは、大変な大金であり、それだけの金があれば、密航も容易なはずであった。だが、私は今ではなかなか情報感の鋭い男である黒川中尉に敬意を表したいくらいの気持ちである。

妻静子の消息分かる

十月七日であった。その日は野菜調達に出かけない日で、収容所内の事務所にいた。『大平准尉、面会人だ』との声に共にソ聯兵に伴われて一人の満人が入って来た。「イヨウ・・・ターピン(大平)、元気でテンホー・・・」の声に、私はなつかしい李さんの顔を見た。気持ちの優しい、いつもニコニコと目を細くして笑う彼が、私は大好きだったので、心から喜んで歓迎した。私の出した熱いお茶を飲みながら、「ターピン、奥さんと子供さんは元気でいるよ・・・」私はその一言に、のみかけたお茶を喉につめ、熱さとともに一瞬むせかえった。「奥さん撫順に居るよ。私偶然に会ったよ。これ手紙預かってきたよ・・・」この李さんは、以前奉天防衛軍経理部勤務当時に、商人としてよく出入りしていた満人であった。

私はもどかしい気持ちで、手紙を受け取り封を切った。便箋五枚に書き連ねた妻の懐かしい手紙である。突然、夜中に四平街から避難疎開命令が出され、八月十一日夜出発、軍の家族が一段となって、八動溝、通化方面のお口をさまよい、現地人とソ聯軍の略奪暴行に遭いながら撫順にたどりついた経過と、長男雅彦も元気で、李さんと撫順で偶然会ったので、もし奉天に行くことがあれば、収容所を探して私に届けるよう頼んだ文面であった。日付は九月六日であったので一か月前になる。

内容は『捕虜のあなたも当然シベリア送りになることでしょう。雅彦も何んとか健康を取り戻したので、雅彦とともになんとか耐え抜くつもりです。胸にはいつも青酸カリをもっておりますので、見苦しい死に方はいたしません。覚悟はできておりますが、あなたと雅彦と三人で日本に帰れる日を楽しみに頑張ります』とあった。

日ソの事情急迫を告げたので、軍は家族を集結して急きょ日本へ帰す計画を樹て、柴田少佐以下数名の下士官に軍服を脱がせ、地方人として家族の避難指揮を取らせたが、通化を経て朝鮮に渡る計画も空しく、列車の運行に阻止され、やむを得ず撫順に変更して、十日目くらいでたどり着いたらしい。その間ソ聯兵と八路軍に、数度となく略奪に遭い、撫順についた時は僅かの持ち物も無く、着た切り雀の状態で、妻たちは頭を丸坊主にして、兵隊の冬服を貰って着ているらしい。

我が身を守る何の手段も無い、軍隊も警察もそして国もない者のみの知る「恐怖」の毎日であるはずだ。ただ若干の男のほかはほとんど婦女子であるが、二百人位の集団の力だけがせめてもの強味であるらしい。

私は妻に大急ぎで手紙を書いた。

『私は近日中にシベリアに連行されることだろう。これが最後の手紙になるかも分からんが、希望だけは失わずに頑張ってくれ、雅彦を頼む』

この手紙を届て貰うよう頼んで李さんと別れた。後ろ姿に手をあわせたいくらいであった。妻の居る場所は撫順市久保町の教員住宅団地なのだ。

逃亡の決意を心密かに

私はそれから一晩中ほとんど眠らず、消灯後も懐中電灯で、妻の手紙を何度も読み続けた。その夜も十二時を過ぎた頃、三十分以上も自動小銃の音が鳴り響いた。相変わらず捕虜の脱走である。その射撃音を聞きながら・・・

「よしっ俺は逃げるぞ・・・このままシベリアに連行されたら、妻や雅彦はどうなる。どんなことをしても妻や雅彦を守りたい。どんな苦しみがあろうとも、俺は逃げるぞ」

私は心の中で固い決心をした。いつしか夜は白々と明けていた。

朝(十月八日)六時起床の声に、私は三十分くらいの睡眠で起こされた。でもさわやかな朝であった。心密かな逃亡計画も楽しいものであった。

私は満服、満人靴、磁石、地図をなんとか集めた。第三方面軍司令部出納官吏として、出納決算を整理して置かなければと、十月十日で締め切り、軍資金の決算書と現金出納簿を明確にした。現金残高は二百鉢十万円ほどだった。今考えれば馬鹿らしいことだが、きちんと整理してだれが見ても分かるようにして置いた。まだ逃げる日は決めていない。逃げる方法は野菜調達に奉天市内へ出た時と決めた。

十月十日の晩であった。収容所長命令で左官級の将校六十人が十三日シベリア行きである。それに尉官二人の追加である。『追加の一人は大平准尉だ』と通達された。私のシベリア行きが十三日と決まったのであった。

私は十二日に逃亡するときめた。野菜調達途中の奉天市内で、危険でなく、誰にも迷惑をかけずに逃げることに・・・。

収容所内では左官級の将校が集まって、盛んにシベリアの憶測話に花を咲かせていた。銃殺されるかもしくは奥地での材木作業か、なんぞの話であるが私はそんな話はうわの空で、逃げることで頭の中はいっぱいだ。

逃亡決行の日

昭和二十年十月十二日、魚菜調達のため、輜重車両百台と山崎曹長以下百二十人の馭兵と指揮官の私を入れて百二十一人となるが、私は収容所衛門を出る際、ソ聯軍衛兵に山崎曹長以下百二十人と記録し、私は乗馬で部隊の先頭に立ち「駆け足、前へ進め」の号令をした。百台の輜重車両が、ガラガラと音を響かせながら衛門を駆け抜けた。衛兵はとても員数の点検どころの話ではない。この調達舞台には、ソ聯軍の下士官以下五人が監視のため騎馬で同行するが、一度も員数は調べたことがない。聞くところによると、当時奉天に進駐したソ聯軍は囚人部隊とかで、数の計算ができない兵が多いらしい。

約六キロメートルほど行軍して、千代田公園近くの日本人小学校跡で休憩した。馬に水を与える場所があった。そこはすでに奥地から避難した日本人難民が四、五百人生活していた。その難民の中で、敬寧兵器廠在勤中の知人であった与五沢さんという人が偶然に、避難生活していたのを以前から知っていた。私は用意した満服等変装品を密かにその人に預けて置いた。

三十分ほど休憩した後、調達部隊は校庭を出発し、凱旋門を抜けて満人市場に到着、私は直ちに必要品を買い入れ輜重車両に積み込みを命じ、その作業の間、ソ聯軍下士官に屋台の飯店で、ウオッカと豚の丸焼きを御馳走した。下士官は大喜びでウオッカを飲み、肉を食べた。あっという間に七十度の強烈なウオッカを三本平らげた。強いということは聞いていたが、三本飲んでも酔ったような状態でない。私は下士官が酔うことを願ってのことであったが、あきらめた。積み込みが終わったのでその市場を出発し帰路についた。馬頭を揃えて下士官と行軍を開始したところ、下士官はいつもと違ってすこぶる機嫌が良かった。酒が効いたらしい、彼はさかんに満語を交えながら話しかけてくる。私は相づちを打つだけで、心の中ではいよいよ決行の時が迫り、胸の中に堅いかたまりが出来たようで相づちを打つ唇が思うように動かない。

逃亡の瞬間

千代田小学校校庭で、馬に水を与え、小憩の後、私は部隊に出発を命じた。収容所へ向けてである。部隊の先頭に山崎曹長、そしてソ聯軍の下士官が位置し、百輛の縦列行軍である。その長経距離は四百メートルに及んだ。私は最後尾の位置で行軍に移った。

場所は奉天市内のど真ん中。密集した市街地で道路も曲がりくねっている。私は最後尾の馭兵である上等兵に「忘れ物を取ってくる」と告げ、舞台はそのまま前進せよ・・・と命じ私は馬首返して千代田小学校まで早駆けで走り戻って、小学校横で馬にむちを当て満人街方向に放馬した。私は小学校難民収容所内に預けた変装品により、軍服類一切を満服に着替えて、奉天市内に飛び出した。

まず今のところは、追跡を逃れるためには繁華街の人混みに紛れ込むことが一番と思い、春日町通りへ一気に走った。満人、朝鮮人、そしてソ聯兵の行き交う中で、何か不安を胸に、オドオドしながらも漸く一息入れた。そして逃げることに成功した喜びと、これからどうやって撫順へ行こうか、の不安でいっぱいだった。

「俺は逃げ出したんだ、もう後には引けない。俺は自由なんだ、だが国も警察も軍隊もない中で一人ぽっちになったんだ。俺は俺で守るより方法が無い世界にいるんだ」それを我が胸にいい聞かせながら満服に縫い込んだ磁石を取り出し、空を見上げながら撫順の方向を求めた。時計は午後四時ころで、何千里あるか分からない撫順へ今から歩くにしても何か気が進まない。そんな焦燥にかられながら、誰かに頼りたい・・・という心が私の足を千代田公園の反対方向にある陸軍病院へ向けたのだ。はっきりした目的もないままに・・・。

私の頭の中には、私の先輩で敦化独立守備隊第八大隊本部時代の戦友である熊谷主計少尉がいることを覚えていた。そこは奉天市内の満豪百貨店の方で陸軍病院の分院であったが、ソ聯軍進駐後も分院はそのままソ聯軍に利用されており、勤務の体制は敗戦前のままであった。従って病院勤務の日本軍人、軍属は捕虜にならず自由な身であり、ソ聯の管理下であるが、ソ聯軍監視がない状態に置かれていた。

私は満人然とした姿で、いつのまにか病院の前に立っていた。ソ聯兵が若干治療を受けていたほかに日本人難民の重病人がいた。

私は意を決して経理室に入り、熊谷少尉に面会を求めた。出てきた熊谷少尉は私の顔を見てびっくりしたらしい。私が別室で頼んだことは、今晩一夜の宿と、所持金が二千円しかないので五千円を準備することだった。

少尉は躊躇していたようであったが、私の度胸のいい逃亡姿に同情して、明朝までだぞ・・・と協力してくれた。少尉の言葉に私は体の硬直が一挙にとけ、力が抜けたような気持であった。

そのまま病院裏の軍属の宿泊室に案内されて「どこにも出るな」と注意された。隅にある堅いベッドに思いきり体を投げ出した。ヨシッ、これで逃げられたぞ、明日は撫順へ向けて出発だ・・・見上げた天井はクモの巣だらけで、窓は外を見ることの出来ないくらい、一面に短冊形に切った紙が、爆風除けに貼り付けられ、カビの臭いが充満していた。多分この部屋は随分前から空き部屋であったらいい。どんなところでも、今は寒さをしのげる幸せがあった。

やがて少尉が、こっそりと食事を持って来てくれた。カレーライスで、しかも二人前。私は明日のため全部食べた。

夜中に起きて、少尉が準備してくれた五千円と合わせて七千円を、道中における略奪から守るため、盗られ用として胸ポケットに五百円、靴底に五百円、残り六千円は越中ふんどしの内側の前と後ろに、ポケットを作って入れた。道中、もし略奪に遭った時は、簡単に盗られることが身の安全につながることだーと日本人難民の教えがあったからであった。何せ満州中央銀行紙幣で全部が百円札なので、日本人の持っているものはみんな道路で取り上げられ、これに抵抗すれば殺されるから、何も持たずに歩くのが当時として一番安全であった。

そんな準備も終えて、あれこれ考えながら毛布の中で神経の張りつめた逃亡第一夜の眠りについた。

逃亡失敗、ソ聯軍に捕まる

私はぐっすり眠った。朝六時床の中で目を覚ましたばかりのところへ、少尉が慌ただしく飛び込んできて「大変だ・・・GPU(ゲーペーウー)がきた・・・お前を探しに来ている」と告げた。

私はとっさに裏から逃げようと上衣を取り上げた。しかし少尉に迷惑がかかる。だが捕えられれば銃殺である。衝動的に逃げたい気持ちを辛うじて押さえることが出来た。

「仕方ない・・・出て行くよ・・・」

と言うなり私は、どうでもなれのやけっぱちの気持ちで、事務所に出向いた。

GPU(ソ聯の諜報機関)と言ったのでどうなることかと、私もやけっぱちの中にも緊張したのであったが、手を挙げて私を迎えたのは昨日の監視兵だった下士官と兵の三人であった。それに日本軍の大尉と下士官の合計五人が私を捕えに来たのである。

私はソ聯軍の下士官に笑いながら会釈をした。彼も笑顔で握手を求めた。その手を握りながら私は左手小指を出し、さらに胸から妻の写真を出して、妻のところへ行って来たとの意味を手振りで伝えた。下士官は笑いながらうなずき、逃げたんではないんだと納得したらしい。

私の乗馬も、軍服ももって来ていた。昨晩中かかって調べたらしく、責任上下士官は一睡もしていないらしい。それでもすっかり私を信用しきった下士官は、私を何の拘束もしないで、さあ服を着ろ、収容所へ帰ろう、と私を促した。私は軍服を鞍に引っかけ満服のままで乗馬した。くつわを並べて下士官は「奥さんは元気だったか」などと、昨夜寝もやらず奉天市内を探して歩いた苦労を、私に何一つぶっつけることなくすこぶる鷹揚な態度に、何か大陸的な大らかな人間を見た思いで、日本陸軍のビンタから生まれた人間性の愚かさを感じるのであった。

日本軍の大尉は私の後ろから苦虫を噛みつぶした顔で、「お前が逃げたために、俺たち残っている者に大変迷惑がかかる・・・」などとぶつぶつ言うばかりだが、下士官には言葉が通じないので昨日のウオッカのこともあるのか、私には友好的な態度であった。

私はこのまま収容所に帰れば、次に銃殺が待っているんだ、どうしても途中で逃げなければならない。下手すると自動小銃が火を吹く、私の頭の中は焦りといらだちの渦である。このまま北稜の捕虜収容所に直行するのかと思ったところ、千代田小学校に寄って休憩をするとのことで、昨日逃げ出した学校の休憩室に入った。

再び逃亡(第二回目)

休憩所の人たちがお茶を入れてくれたので、飲みながら考えた。ここで逃げなければもうその機会はない。ようし・・・と下腹に力を入れ落ち付いた気分をつくるべく、ゆっくりお茶をのみほした。

日本軍の大尉もソ聯軍監視兵も、もうみんな安心しきっており、椅子に座って雑談をしている。出発までにはまだ三十分くらいあるはずだ。私は立ち上がって、ソ聯軍下士官にちり紙をくれと頼んだ。出してくれたちり紙を持ってトイレに行くと告げて廊下に出た。すぐ近くにトイレがあったが、校舎の端にあるトイレに向かった。五十メートルほどの長い廊下をゆっくり歩いた。後を見たが誰もついて来ない。私は一応トイレに入ったが、すぐ横に通用口があって、それを出ると外トイレがあるのを思い出し、ゆっくりと外トイレに入った。さてこれから逃げ場所を考えねばならぬ。追っ手の来ない間に、早く早くと焦る心で・・・。

裏門に出るまでは百五十メートルの工程を走らねばならない。表門は五十メートルくらいであるが、ソ聯兵のいる部屋の窓下を通らねばならない。周囲に高さ二メートル五十のコンクリート塀があり、その上部に有刺鉄線が張りめぐらしてある。塀を乗り越えることは難しい。私は危険はあるが、距離の短い表門を選んだ。ゆっくりと校舎に沿って歩いた。もうすぐ表門だ。走りたい気持ちを押えてゆっくりと、ソ聯兵のいる部屋の窓下を過ぎた。中からは何の気配も感じとられない。「大丈夫だ、それっ・・・」とばかり表門に走り抜け塀の外に出た。一旦立ち止まって塀の陰から中の様子をうかがったが何の変化もない様子であった。

「ようし成功だ、走れ・・・」千代田公園の方角へ無我夢中で走った。時刻は午前十一時過ぎである。

元勤務していた防衛軍司令部横の忠魂碑の陰の草むらで、胸の落ち付きを取り戻すため横に寝そべった。もう一刻もこの奉天にはおられない。早く奉天郊外にのがれることしかない。せっぱつまった思いの中で歩く方向に迷った。

いずれにしても満人街、朝鮮人街を通り抜けなければならない。終戦後のドサクサで、略奪、暴行、殺人は至る所で起きている。小銃、拳銃の音は戦地でも無いのに、絶えず各所で鳴り響いている。満人、鮮人は大威張りで、今までの日本軍の抑圧からの解放感が一気に噴き出したように、日本人と見たら情け容赦なく略奪を始める。多くの人通りの中ではしないが、少人数になれば危険である。あくまでも満人になりきらねばならないのであった。

奉天駅で元憲兵に助けられる

奉天駅に行って見よう、汽車に乗れるかもしらんと考え、凱旋通りの駅に向かった。人通りはかなり多い。満帽を深くかぶって用意深く歩いた。距離は約三キロメートルくらいである。

私の斜め前でなんだか急に騒がしくなった。「何だろう」私はとっさに民家の軒下に身をよせた。と満人が斜め向かいの店から飛び出して来て、日本人らしい男を追いかけ、後から一メートル五十くらいの丸太棒で頭を一撃した。数十人の満人が周りにたかってきた。日本人は目鼻口から血を吹き出して倒れていた。

私は前から十メートルと離れていない。私は身の危険を感じて、すぐ横小路を春日町の方へ抜けて駅へ一目散に歩いた。久しぶりに見る奉天駅であった。統制なき駅はさながらゴミとホコリと満人の渦であった。一人として日本人らしい姿は見かけられない。私は駅舎の横で、何か不安な戸惑いを感じて立ち止まった。すると二十メートルくらい離れたところから私に向かって、手招きする男がいた。私は危険と信頼の相半ばの心でその男に近づいた。「お前日本人だろう・・・そんな恰好じゃすぐわかるぞ。早く去れっ危険だ・・・」男は日本軍の元憲兵だった。見事な変装ぶりであった。私の満服姿を見て「一目で日本人とわかるぞ。汽車に乗るつもりだろうが、乗ったら最後お前は終わりだよ」と注意してくれたのであった。そこまで聞いた私は、ありがとうの声もそぞろに引き返した。そして歩いた。顔をかくして、腹も夕べ食べたきりであったのでグーグー鳴り出した。だが一刻も早く市内を抜けなければならない。そして山で野宿しようと覚悟した。十月も半ばで夜間の気温は零下になるがなんとかしのがなければならないのであった。

満人街で略奪に遭う

不安な心にむち打ちながら、方向を定めて歩いた。奉天城内の満人街を右に回り道して歩いた。あたりの模様からして鮮人街に踏み込んだらしいので、なるべく広い道路を選んだ。段々民家がまばらになってきた。これからが一番危険なはずだ。道路の右側には全く人家が無く、左側にのみ満人、鮮人の民家などがやや密集している。もう少し歩けば郊外に出られるらしい。通行人もまばらであった。

向かいから満人夫婦が歩いて来ており、その五十メートルくらい後ろから八路軍の兵が三人ほど銃をぶら下げて来るのが見えた。そのとき夫婦が私の前で低い日本語で「こっちへ来い」と厳しく、命令するような態度で言った。夫婦は道路の右側の路肩に道路を背にして並んで座った。私はなんとなく威圧されたようにその横に座った。鏝頭を袋から取り出して私にも「食べろ」と、命令口調で言ったきり、夫婦は黙って食べ始めた。

私たちの後ろ姿をジロジロ見ながら八路軍の兵が通り過ぎた。と女の方が「ああ良かった。こと無く済んだね。お父さん・・・」私はなんだかキツネにつままれたような気がした。すると「私たちはなんでもないが、あなたは真正面から見たら、すぐ日本人だと分かる。今通り過ぎた八路軍が来てたから、とっさにあなたのためにしたことだよ。一人でここらあたりをウロウロしてたら一コロだ・・・」と言われた。

私はこの満人になりきった姿の日本人夫婦の人情に、心からお礼をのべて歩き出した。いっそのこと道路を外れて歩くことも考えたが、かえって危険が多くなるのではないか、そんなことを考えながら三十分も歩いた。

いよいよ人家もまばらになり、奉天市内を抜けられたぞ・・・もう少しで山の中に入れるぞ、今晩は寒くなるぞ、草でも集めて夜を過ごそうなどと、不安の中に一縷の安堵を見つけた思いにふけっていた。とたんに三人の満人が私に向かって左方向から走ってきた。一瞬逃げようかと考えたが、かえって危いと思い、黙って満人と向かいあった。「お前日本人だろう・・・どこへ行く・・・」私の前に立ちふさがり、彼等三人は満語で話をしている。私も片言ながら、話すことも聞くことも出来たので、注意深くその話を聞いた。「この日本人は新品の衣服と靴を履いている。金も持ってるぞ・・・」であった。私は殺られるぞ、何とか逃げることだ、何とかして。周囲の地形、民家の状態、何か武器はないか、彼らの心理状態、もしここで殺られたら、だれにも分かって貰えない、妻と雅彦は、北海道の親兄弟は、等々一瞬私の頭の中は冷静と混乱とが交錯していた。

彼らの一人が私の襟首を取ると同時に、他の一人が胸ポケットを探り始めた。ポケットから五百円を取り出した。そのころの価値はおおよそ終戦時で一カ月の生活費が百円以下であったが、終戦後の混乱の中でインフレが昂じ、十月ころには三百円くらいであった。次に私の靴を脱げと言って靴を脱がし、靴の中の五百円も奪ったのである。

私は黙って彼らの言いなりになっていた。合計千円を奪って安心したのか、一人が「ワンラ(終わり)」と言いながら、もう行こうと二人を促した。私はそれを聞いて、内心ホッとしたが、他の一人が執拗に衣服を剥がし始めた。私はその手を振り離し、土下座して泣いて頼んだ。「私は軍人ではない・・・民間人だ・・・開拓民だ・・・服は剥がないでくれ・・・これしかないんだ・・・」と必死になって叫び、頼んだ。だが彼らは容赦なく私に襲いかかってきた。私はもうこれまでと思い、先ほどから私の後方二メートルの位置に、長さ二メートルくらいの丸太が転がっているのを知っていた。襲う手を振りほどきながら何度も何度も泣きながら、そして土下座したまま後ずさりをした。彼等三人は銃は持っていないが、一人が長柄のついたマサカリを持っていた。私が後ずさりするので、業を煮やした別の一人がマサカリを引ったくると同時に振り上げた。私は頭を地にすりつけながら丸太の位置まで来た。彼ら三人は私の前に横に並んだ格好となっていた。その距離一メートルである。私はもう完全に観念するとともに度胸が座った。

私は右手で丸太棒を拾うと同時に、確信のないまま一挙に向こう脛目がけて力いっぱい横に振り回した。一撃で三人の脚をやっつける以外に難を逃がれる道は無いと思った。「ギャッ」という悲鳴とともに、一人は倒れ、二人は倒れながら脚をかかえ込んだ。瞬間、私は一目散に逃げた。走った。走りながら「妻よ雅彦よ、絶対に死ぬもんか、例えどんな障害があっても乗り越えて行くぞ。待っとれよ」恐怖と情け無い逃亡の我が身の姿にただ溢れ出る涙を押えながら・・・。

幸い近くに人がいなかった。遠くでは人が見ていたらしいが満人同士のけんかぐらいに思ったのであろう。私の逃げている姿を見ながら追って来る気配が無かった。

なんだか助かった喜びより、無性に悲しくなった。道路を外れて草やぶの中を、畑の中を、石ころの河原を、泣きながらただ走った。三十分は走ったであろう。人家もほとんどなく、遠くにポツンと二軒ほどの長屋が見えるだけで静かなところであった。草むらの中で一息入れた。時計も奪われ時刻を知るすべもないが、おおよそ午後六時に近い。このままでは食糧もない。野宿は覚悟のうえであるが、とにかく食糧のあるところまで行くことであると考え、昨日の逃亡以来何度も遭遇した身の危険を排除しながらきたことに、私はむしろ度胸が座ってきたのであった。

人家を目がけて歩き出したら、間もなく広い道路に出た。後で知ったことだが、鞍山へ通ずる主要な道路であったらしい。その道路を人家に向けてなお歩き出した。人通りはほとんどなかったが、遠くの奉天の方から荷馬車が満馬三頭に引かれて小走りにやってくる。段々近寄って見ると、屋根もなく、ただ幅二メートル、長さ二・五メートルくらいの荷台があるだけの乗合馬車である。私はふんどしの中にまだ六千円の金がある。この馬車に乗れば撫順に行けるはずだ、と考え近寄るのを待った。若干の荷物を積み、その上に四人の満人客がしがみついた姿で乗っていた。私は手で合図して飛び乗った。馭者は黙ってうなずき、馬をムチで追っている。

乗合客の四人も黙って私を見ているだけである。私は撫順へ行くものと信じているので、行き先を聞かずに馬車にしがみついていた。走った疲れで何だか眠くなったので、顔を伏せてウトウトしていた。聞くとはなしに満人のヒソヒソ話に私は驚いた。やはりこの満人も私の新しい衣服と金を狙っての相談であった。一難去ってまた一難である。しかし彼らの身辺には銃をもっている様子はない。銃がなければ安心であった。私には逃げる足には自信があったからである。私はそんなことは一切知らないふりをして、眠ったままの姿勢でいた。と私の手をぐっとつかんだ者がいた。ピクッとして目を開けると、すぐ隣に乗車していた年のころ、二十三歳ほどの満人の青年であった。私の耳元に口を寄せ「あんた日本人だろ・・・いま、前の人たちの話を聞いたか・・・」と聞く。前の乗客たちは、私が眠っていると思い、小声で話をしたらしいが、私の隣の青年は私が眠ったふりをしていることに気付いていたらしい。

略奪寸前、満人青年に救われる

私は青年の声に、なんとなく優しさと、私をいたわってくれる心を瞬間に察知した。青年は私を助けると言ったわけではないが、この人は私を助けてくれる人だと決めた。私は青年に答えた。そして一気に話した。「私は日本人だ・・・。だが軍人ではない。開拓民だ。北満から引き揚げて撫順に居る。妻が病気で薬を求めて奉天にきた。帰りは汽車に乗れないので歩いているんだ。早く帰らねば妻がどうなっているか心配だ」青年は私の話を真実に聞いてくれたらしい。私に心配無用といいながら、前の乗客に向かって話をしだした。

「あんた方の話を聞いた。この人は確かに日本人だ。日本人だと見て略奪をするのは悪いことだ。この人は俺の朋友だ。日本人を憎む心はわかる。だがこの人を憎むのは間違っている。この人はいま我々と同じ苦労をしているじゃないか。この人も東条の犠牲者なんだ。この人は私の朋友だ。みんな、ねえそうだろう。わかってほしいんだ」

青年は声を大きく、演説口調でみんなを説いてくれた。他の満人乗客は青年の意気に呑まれた格好で黙って皆うなずいた。薄暮の中に馭者のむちの音が、ピーンピーンと夜気の這いよる寒空に音を響かせながら、満馬三頭がもつれるようにコトコトと、何かユーモラスな感じで小走る乗合馬車で、私はホッとした心地であった。

やがて大きな橋を渡りきると突然満人の青年が下車した。私に向かい「元気でな・・・」とあいさつした。彼がいない馬車に乗っていられない。私はとっさに飛び下りた。彼は大丈夫だと私の下車を止めたが、私はしゃにむに下車した。彼は渋々承諾して馬車料金も彼が払ってくれた。それは私が払うと馭者が法外に高い料金を取るからである。彼は下車した私を見ながら当惑したらしい。宵闇迫る周囲を見回しながら・・・。でも私は手にすがって頼んだ。「今晩一夜の面倒を」と。

私はふんどしの中に手を突っ込み、百円札を手で探りながら十枚引き出して、車代と今晩の宿代にと差し出したが、彼は受け取らず辞退し続けた。押し問答の末、彼のポケットにねじ込んだ。彼はしばらく立ったままで考えていたが、意を決したのであろう、ついて来いと言いながら道路の左方向の小路を歩き出した。遠くはほとんど見えない暗さになり、民家も見えない。こんもりとした山があり畑らしい畑も少ないところであった。彼は鞍山で店員をしていて、商用で奉天に赴いた帰りらしい。ここから約二キロメートルくらいの山裾に父母がいるので久し振りに泊まって行くとか。「なんとか父母に頼んでやるよ・・・」と言いながら「あんたの服装は良すぎる。それに顔も手も汚さなければ駄目だ。この付近には八路軍がたくさんいるので、もし日本軍人をかくまったら、みんなが処罰を受ける」という。彼はとっくに私を逃亡軍人と見抜いていたらしい。

彼は泥をつかんで私の手、顔、首にこすりつけた。目を泥でこするよう言われて、目にも泥をこすり込んだ。顔も手もアカだらけ、目も真っ赤に充血した。彼に「これで良し、後は服装を変えるだけだ。人がきたら病人になれ。そして言葉は一言も喋るな」と固く言われた。途中二人に出会ったが、青年と話をしただけで、私には何の不審も持たなかったようである。あたりは暗さを増し、顔の識別も出来なくなった。犬の遠吠えが聞こえるだけで、民家は少なく山奥の感じ。地名は思い出せないが、たしか狐の字がついた地名で、奉天から鞍山に向かう主要道路の途中であった。

ポツンと一軒、木立の中に囲まれた泥造りの民家の前で、彼は「ここだよ。ちょっとまて」と言って家に入った。二十分ほどたったが音沙汰がない。私の警戒心がまた動き出した。家の前を避けて木立の中に隠れるようにして耳を澄ました。やがて彼が出て来て「どうしても親が許してくれない。ここには毎晩八路軍が一回各戸を調べに来るので、もし見付かったら罰を受けるのは父母なんだ。気の毒だが立ち去って貰えと応じてくれない」彼は気の毒そうに私を眺めながら・・・。私はせっぱつまった気持ちだった。この寒空の下でしかも空腹、おまけに真っ暗闇である。やけからか、ふんどしの中の五千円を全部引っ張り出していた。そしてそれを彼に渡しながら「全財産だ、全部上げるから私を助けてくれ」と懇願し続けた。彼は黙って家に入り何やら大声で口論をしていたが、やっと家に入れてくれた。年のころは五十前後の父母であった。私のあいさつもそこそこに、ひどく汚れた満服と下着を出して「早くこれを着てくれ」とせきたてる。大急ぎでふんどし以外は全部ぬぎ捨てて着替えた。大丈夫と父母は頷いて初めて笑顔を見せた。そして食事も出してくれた。高粱粥と野菜の油いためで、丸一日食事も水も一滴も入ってない私には、これほどうまい食事は今でも無いと思ったほどであった。長葱の皮をむきながら、味噌に似たタレをつけて噛るその味の素晴らしさは格別であった。うまそうに食べる私を、笑顔で見つめる満人の老父母は、さらに食事をすすめてくれた。私は粥の熱さと満人の好意にむせて、汗と涙を拭きとることなく、すべてを飲み込む姿であった。老父母は私に「テンホー(良いか)」と聞いた。私は「テンホーテンホー」と叫んで答えた。満人家屋の特徴は、間口三間に奥行三間半くらいの泥煉瓦造りで、一間きりの家が通常であった。間口三間の真ん中に四尺の土間があり、両側にそれぞれ七尺くらいの幅で腰をかける高さで、下は温突になって、上はアンペラ(むしろ)を敷いてあり、そこが寝床兼居間である。入口に炊事用の平鍋を取りつけた泥で造った竃がある。その竃の煙が温突全体の中を通り抜ける仕掛けであった。

従って来客があっても隠れるところがない。老夫婦は「早く寝ろ」と私を促した。それは八万軍を気遣ってのことであった。アンペラ床に薄い布団を敷き、上から何やら臭いのひどい布団が一枚かけられた。そしてだれが来ても病人になって話をするな、と念を押された。

温突の温かさが、布団を通し、疲れた体に心地よい。昨日からの逃亡生活の中で、九死に一生の瞬間などを思い起こし、今宵一夜の幸せに恵まれたことを、助けてくれた満人の青年と老夫婦に、心の中で感謝しながら寝た。

夜中であった。大声に目が覚めた。薄目をあけて覗くと、八路軍の兵士二人が私の枕元に立っていた。私を指して何やら早口で喋っている。わざと小さな鼾をかき静かに寝返りを打って、反対側に顔をむけた。老夫婦と青年が一生懸命八路軍に説明をしていた。どうやら私のことを、鞍山にいる息子の友だちで、息子と一緒に泊まりに来たんだ、と話をしているらしい。やがて謝々(ありがとう)の声を残して、八路軍の兵士は立ち去った。

やがて、検問も無事終わったらしく、青年も老夫婦もランプを消して私の向かい側にそれぞれ床についた。八路軍の威嚇射撃か、もしくは国府軍との小ぜり合いなのか、時たま銃声が遠くに聞こえるほかは風も止み不気味なほど静かな夜であった。

撫順に向けて二十里(80キロ)徒歩の旅

「起きろッ」と頭を揺すられた。ハッとして目を覚ましたが外はまだ真っ暗だ。午前五時ころであった。青年が私に対して「一晩考えたがお前をこのままにして置くことが出来ない。両親のためにも迷惑のかからないところまで連れ出さなければ困る。だがここら付近にお前の安全な場所は無い。仕方がないのでお前を撫順まで連れて行くことにした。そうすることがお互いにいいことだよ」

私は飛び上がらんばかりに喜んだ。そして「距離は」と尋ねたら二百里だと教えてくれた。満里は日本里の約十分の一であるから、日本里の二十里である。(約八十キロメートル)

顔も洗わず、老夫婦が出してくれた食事を大急ぎで食べ始めた。トウキビ粉と大豆粉で作られた饅頭と、得体の知れない野菜のいため物だ。青年とともに食べ終えて、私は老夫婦に感謝のあいさつを済ませ、青年と共に家を出た。まだ夜は明け切らず薄暗い。地面は十センチメートル以上の霜が立っている。八路軍に気付かれないための早立ちであった。冷えきった朝だが天気は良い。

青年は道を通らず、畑の中、藪の中、小川を、湿地をお構いなしに真っ直ぐに、そして何も語らず、走るような速度で進む。私はその後ろを何も言わずただついて行くだけだであった。

およそ三時間ほどで鉄道路線に出た。初めて青年は何か安心した態度で、枕木に腰を下ろして喋り出した。今までの厳しい真剣な顔付きがすっかり柔らいでいた。それは老父母の近くで八路軍に見つかると、必ず迷惑が老父母にかかるからであったらしい。

時刻は八時ごろであった。逃亡以来三日目である。霜柱が解けて畑の中は歩きづらい。幸いなことに秋晴れの天気である。路線は一直線に撫順に向かって光っている。右側遠くに山並みが続き、私たちの進む方向には、小高い大小の丘が点在し、その間を縫うように砂利道が走っていた。途中の障害が無ければ、今日夕方までには撫順に着けるはずだ。

口元の締まったたくましい青年は、路線上に立って、しきりに進む方向に向かって目を配っている。それは敗戦後都市周辺部落に起こっている八路軍(毛沢東の指揮する軍で現在の中華人民共和国軍)と国府軍(蒋介石の指揮する軍で現在の中華民国「台湾」)との小ぜり合いに巻き込まれるのを避けるための偵察であった。

八月九日、対日宣戦布告と同時にソ聯軍は、北満国境から一斉に、戦車部隊を先頭に日本軍が築いた対ソ作戦道路を逆に利用して、雪崩のごとく満州国内に侵入してきた。それと呼応するかのように八路軍と国府軍が満州国内に北上し、主要都市はソ聯軍の占領状態であったが、都市以外の周辺部落には八路軍と国府軍が、その勢力を争い随所で戦闘状態が見られるのであった。従って一般現地人は八路軍が堂々と進駐すれば、両手を挙げて歓迎し、戦闘の結果、国府軍が勝利の進駐をすればこれを歓迎するという状況で、現地人の密偵工作員も多く潜伏していた。両軍とも敵方密偵工作員の探索のために、一般現地人の監視と通行人の検問が、常に厳しく行われていた。特に現地人に交じった逃亡日本軍人に対する目は、厳しいものがあった。

逃亡者となって初めて知ったこの現実に、いまさらながら、奉天捕虜収容所生活の日本軍は、ソ聯軍に守られた安全な生活であることを、つくづく感じさせられたのである。

今の私の頼みの綱は、この青年だけなんだ・・・と思い、たくましい青年の背に心の中で手を合わせた。

青年は「線路は危険だ。向こうに見える部落にどうやら八路軍がたむろしているようだから、部落を左に遠回りしてあの丘を歩こう」私は青年の後ろについて山路を歩き出した。彼はかなり緊張していて、部落が右下にのぞめる小高い丘の上に来たとき急に「伏せろ」と叫んだ。その頭上を単発銃弾が四~五発飛んだ。私は昨晩、青年に言われて目に泥をすり込んだので、目の充血が取れず視力が弱い。従って部落の状況が遠くて私には見えない。伏せたままの数分間であったが、再び銃撃はないようだ。さらに遠回りして部落を離れたが、次の部落が見えて来てから青年は、「部落を遠回りせず、堂々と部落の中を行くことにする。お前は病気の真似をして言葉はしゃべるな・・・」私はうなずいて後に続いた。八路軍の兵士が三人検問していて「お前たちどこへ行くのか・・・」と大声で呼ばれた。青年は何やら早口で答えたが、兵の喋る中国語はなまりが多くて私には全然分からない。私は顔をしかめ、青年にしがみついて腹を押えていた。青年は私を医者に診せるためと言ったらしい。

無事通過した。青年は通り過ぎてから笑顔で「テンホ、テンホ」と言った。その表情には私の真剣な病人姿で、危機を脱出した喜びがあった。

それからは山は歩かず、道路ばかりを急いだ。付近の気配から青年の緊張感は解け、やっと安心したようである。それは私が完全に満人として疑われることがないのと、八路軍も国府軍も付近にはたむろしていないのを、現地人から聞いたらしい。次々と部落を大急ぎで通過したが、何の障害もなかった。時刻はもう昼近い頃、小さな部落の店で、日本のオコシに似た大きなねじり菓子を、二本買ってくれた。歩きながら噛った。水は道端の泥水を手ですくって飲んだ。

どれくらい歩いたのか、また撫順までどれほどの距離があるのか分からない。朝の寒さから思うと、強行軍のせいもあって暑いくらいの日中であった。綿入れの満服の下に薄い木綿の満人から貰ったシャツだけで、暑さを感じるのが今思っても不思議である。

道端といわず付近一帯から、煙と蒸気が各所に立ち昇る場所に出た。よく見ると、あちこちに黒光りのする石炭が露出していた。撫順炭鉱は露天掘りと聞いていた。至る所に石灰が表層状態で露出し、それが長年の間に自然発火し、露出した表層部分が年中燃えている。見渡す限りこの状態が見られるが、もちろんその中には農耕地も人家もない。撫順市にかなり近寄って来たことは事実である、と私は心を励ました。

右に左に、自然発火の煙を見ながら進むうちに、部落も段々大きくなって来た。青年は行き交う人に、距離と情報を聞いた結果、撫順まではあと五里(二十キロ)ほど。ここから二里(八キロ)ばかりは平穏だが、それから先は非常に治安状態が悪く、八路軍と国府軍のせんさくが厳しくて、現地人であろうとも巻きぞえに遭うから、注意を要すと言う。そこで青年は、もう少し歩いて乗合馬車に乗るのが安全だと考えたらしい。馬車に乗った時の動作について青年から十分注意を受けながら歩いた。

やがて後ろから、撫順行きの乗合馬車が二台そろってやってきた。青年は私を促して後方の馬車に乗った。青年は病人然とした私を、膝の上に伏せさせて、他の乗合客と世間話をしていた。そして乗合客は、私を日本人と思わず、病人である事に疑いは少しも持っていない。

途中で何度も検問を受けたがみんなが私をかばってくれて、何事もなく撫順市の駅近くの終点に着いた。満人と鮮人ばかりの街を通り抜け下車した所は、撫順市のほぼ中心地帯の日本人街であった。従って日本人の姿が多く見られた。終戦後現地の日本人は居留民団を結成して、中心地帯に集結し、お互いに助け合って生活していた。それら集団から離れている日本人は、すべて略奪の対象になったからであった。

北海道の洞爺湖~虻田駅間を戦前に走っていた電車が、戦時中撫順へ送られ、撫順炭鉱会社が市内に敷設したという電車も走っていた。

さすがに撫順だ。日本人は笑顔で往来し、生活をしている。たった三日間のことであるが、逃亡以来の数々の迫害を思い出し、もう大丈夫だと万歳を叫びたい気持であった。だが表と裏は天と地の差であったことは、後になって分かった。

私は青年とともに、駅前のにぎやかな通りを抜けて、久保町教員住宅団地へ歩いて行った。約二キロメートルくらうで目的の団地に到着した。日本人学校の校舎と広い運動広場、そして横に教員住宅と炭鉱住宅が二戸建と四戸建のほとんど二階造りで、二百戸以上はあったと思う。集中暖房方式で、要所には高い煙突のあるボイラー室が見られる。私は青年と一緒に社宅街に入り、最初の社宅のドアをたたいた。「お尋ねしたいのですが・・・」と声を掛けた。中から「ハイ」と返事があり、奥さんがドアを半分ほど開けた途端、パチンと締め切り、上ずった声で中から、「あなたは日本人ですか・・・」私はそこで初めて気が付いた。それは顔も手もアカだらけで服装も最もみすぼらしく、どう見ても最低の満人姿であることに。

「奥さん、驚かして済みません。私は日本人です。軍人です。故あって変装しております。この付近に大平という私の家族がいるはずです。知っていたら教えて下さい・・・」私は一気に喋った。奥さんは恐る恐る締めたドアを開けながら、私を確認しているらしい。「奥さんお願いだ。奉天から妻子を探して歩いて来たんだ・・・」と叫んだ。情けない気がして叫ぶ自分の哀れさに、溢れ出る涙を押さえきれなかった。

「ああびっくりした。日本人だと思って安心して戸を開けた途端でしょ。ごめんなさい。きのうも満人に押し込まれて大変だったものですから。ご免なさい。確か大平さんといったら斜め向かいの谷口さん宅ではないかしら・・・」とやっと奥さんが答えてくれた。妻子はすぐ目の前だ。奥さんに礼もそこそこに教えられた家の前で「谷口」と書いてある表札を指しながら青年と顔を見合わせた。青年はにっこり笑顔をつくりながら私の背中を押し出すように「早く」とせきたてていた。

妻子と六ヵ月ぶりの再会

私は心を落ち着けて玄関ドアをたたきながら、喋った。「お宅に大平がやっかいになっているはずですが、私は主人です。逃げて来ました。そのために変装してボロボロの姿ですが」と叫んだ。奥さんらしい人が戸のすき間からのぞいていたが「大平さん、ご主人らしいよ・・・」と中で声がした。階段からバタバタ降りて来る足音、ドアの鎖が外され、勢いよく開けられた。兵隊のダブダブの服を着て、頭が丸坊主だが正しく女房である。私は一瞬逃亡中の思いが胸を走り、この三日間の張りつめた心がガラガラと音を立てて崩れ、全身の力が抜け、足元のふらつく思いだった。

「雅彦は・・・」妻にかけた最初の言葉であった。妻は笑顔が引きつり、クシャクシャの顔をしてただぼう然と立ったままでいた。これを見かねた谷口の奥さんが「奥さん、ご主人でしょう・・・何考えてるの・・・」その言葉に妻は初めて現実にかえったらしい。それは軍服姿の私しか見たことのない妻が、突然ボロボロの満服を纏い、アカだらけの乞食姿なのにびっくりしたのと、もうとっくにシベリアに行ってしまったものと思い込んでいたので、瞬間的に判断力を失い、ぼう然としていたらしい。

「父さん・・・本当に父さんなの・・・シベリアには?・・・どうやって来たの・・・」浮わずった妻の言葉が、気が付いたかのようにはね返って来た。私はもどかしさの中で「雅彦は?」妻ははじかれたように二階へ駆け上がり、雅彦を抱いてきた。生きていたんだ。よくも生きていてくれた、と思わず涙が出た。生まれて一年七ヵ月の雅彦は、一度は歩けたものが今は歩けず、栄養失調で、オデキが体いっぱいに出来、やせ細って目ばかり大きい。でも良く生きていたものであった。当時の日本人難民で二歳以下の幼児が生きていることが奇跡に等しいからであった。

私はやっかいになる谷口さんにお礼のあいさつをして、漸く我れを取り戻した妻の喜びの声の中で、満服を脱ぎ、体のアカを落として、借りた丹前で二階四畳半に落ち着いた。満人の青年は再び二十里の道程があるので、一晩一緒に泊まってもらうことにした。時は午後三時であった。朝五時に出発して、今まで十時間で二十里(八十キロ)の強行軍であったが、今思えば足の痛みも体の疲れ一つも覚えなかった。

妻は大事に取っておいた貴重な米を、沓下の袋から出して炊いてくれた。味噌汁と久方振りの白米ご飯が本当にうまかった。

逃亡のいきさつと、満人の青年の特別な好意を妻に話し、何の恐怖も、心配もなく体を横たえることができる今の幸せと、充実感にひたるとともに、この妻と雅彦のために何事が起きようとも、屈せず明日の道を拓くんだ、と胸の中で決心をした。

さわやかな朝が訪れた。妻から『八月九日、ソ聯の対日攻撃開始により、四平街における軍の家族の危険を予知して、急ぎ家族の集団避難をすることになり、貨車で通化方面へ移動したこと』など、その後の事情を聞いた。この撫順に流れ込んだ日本人難民は、日本人居留民団に属し、その保護を受けていたのであり、男も女も、稼げるものは炭鉱夫として働いていた。

満人の青年は、朝食後、住所氏名を書き残して出発して行った。この大恩人の名は、その後の行動中に紛失してしまい、何んとか探したいと常に思いつづけている。近く奉天に行く計画をもっており、鞍山街道途中の民家付近は記憶があるので、是非立ち寄って消息を尋ねるつもりである。

私の家族が無事でおれたのも、四平街より避難行動の責任者とし、第三方面軍参謀部付の柴田少佐が、当初から逃亡の形で家族を引率してきてくれたためと知り、朝食後二、三軒隣の少佐の家を尋ねてあいさつをした。

柴田少佐以下五人の下士官を交えた軍人が、逃亡の形で軍服を脱ぎ、地方人として軍の家族二百人くらいの世話をしていたが、何らかの方法で、奉天捕虜収容所内と連絡を取りあっていたらしい。あいさつをした私に向かって少佐はいきなり「大平、お前が逃げたことはソ聯軍から連絡があった。収容所内では大変みんなが迷惑しとる・・・撫順にいる俺たちにも波及してくるのだ・・・直ちに奉天に帰れ・・・」と剣もホロロの態度であった。良く逃げて来たと歓迎されるつもりが完全に逆であった。それぞれの立場で致し方ないのだとは思うが、後で分かったところによると、皆、自分の保身のため、私の犠牲を強いたのに外ならなかったのであった。

私は歓迎されない男なんだ、ここにおっては彼等に陥れられかねない。私は黙って少佐の家を辞した。「後で君のところへ行くからな・・・」と少佐の声がドア越しに私を追いかけてきた。私は複雑な気持ちで家に帰った。私が逃亡したのを誰から聞いたのか、奉天防衛軍経理部時代の部下の高木曹長が、着るものがないだろうと、満鉄の中古の夏服をもって来てくれた。高木曹長は柴田少佐と一緒に四平街の民間人になってきた軍人の一人である。色々と今後のことなどを話し合い、私の仕事を見つけるために出ていった。やれやれの思いで服を着替えながら、柴田少佐の言葉をかみしめていた。

この久保町は撫順市の中で一番低いところにあって、満人街からは離れた日本人住宅街であった。二階から眺める景観は静かで、居心地の良い環境。人通りも多くはなく、足早に軒先を選ぶようにして歩く日本人と、時たま銃をだらしなく肩にした八路軍の兵士が通るくらいであった。各住宅のドアは固く閉ざされて、窓のカーテンも掛け放しで、実にひっそりとした異様な空気の団地に感じられた。

再々逃亡(第三回目)

妻がとってあった煙草に、落ち着かぬ心を吐き出しながら、何気なく外を見て、瞬間冷水を浴びせられた思いであった。それはまぎれもなく私が脱走した時のソ聯下士官と兵の二人であった。自動小銃を肩にかけ、入念に各戸を調べている様子であった。本で読んだことがあるソ聯諜報機関GPUを思い出し、さすがにソ聯だなあと心の凍る思いのまま、

「静子・・・駄目だ・・・俺は逃げる・・・」

と立ち上がるなり、裏口に向かった。靴を履く私の後ろで妻がオロオロしていた。

「ソ聯兵だ・・・来たら奉天に帰ったと言え・・・。一カ月か二カ月は隠れる・・・大丈夫、俺は死なん・・・心配するな・・・」

と言ったまま裏口をとび出した。出る時、すでに表戸をドンドンたたいていた。多分ソ聯の奴等だろう。瞬間のことで十分妻に話をする暇もない。妻はどんなに心細かったことか。でも命あっての物種だ。頑張ろう、死ぬもんか。駅前の日本人街へ行こうと心に決めて、裏から表へ、そして小路を抜けて急いだ。完全にソ聯兵をまいてしまった。

駅前の大通りに、数年前高射砲陣地構築のため撫順に一カ月駐屯した当時、民宿した食堂があるはずで、取りあえずそこに行くことにした。約三キロの所を夢中で歩いた。服装は満鉄職員の服であったので安心だ。

食堂(名前は失念)は簡単に見付かった。もちろん営業はしておらず戸は締め切ってあった。私は戸をたたいて中に入ると、女主人は私の顔を覚えていてくれたので、半ば安心して今までの経過を話し、かくまってくれるよう頼んだところ、あっさり断られた。それは毎日ソ聯軍の検問があるので、まして逃亡軍人をかくまっているのが分かったら、私たちまでどうなるか分からんと言いながら、有無を言わせず私を外に押し出し、ビシャッと戸を締めた。

戸を締める音に、身の哀れさと人の無情、そして自分だけしか守る術のない現実に、やりきれない思いで、無意識の中でただ歩いた。本当にあてもなく途方にくれた感じの中で、トボトボと。私の右道路横に、公園にも似たベンチがあったので、ただ考えも無くそのベンチに座り込んだ。後ろの大きな公会堂か、炭鉱事務所らしい建物があるが、人影は見えない。道路向こう側に日本人住宅と店舗が並んでいるが、いずれも雨戸を下ろし、ひっそりとしていた。あまり人は通らないところであって、広い空き地のベンチに私が独りぽつんと座っていた。どこから見ても見通しが効くので、一番安全な場所であると思いながらも、半ばふて腐れの気持ちでベンチに寝転んだ。

空は青く澄み渡り、カラスの集団が不吉な鳴き声で飛び交っている。恐らく死臭を嗅ぎつけてのことだろう。遠くで電車のうなる音が聞こえる。あのような断り方をされた今の私は、もう誰にも頼む気がしなかった。午後一時を大分過ぎているはずだ相変わらず天気は良いが寒い。今晩はかなり冷え込むだろうから野宿は無理だ。どこかの空き家を見付けよう。だがまだ早い、なんとかなるさ。妻は心配しているだろうなどと、胸をかきむしられる思いの中で、寝るでなく、考えるでなくただうとうとと数時間をベンチの上で過ごした。

撫順市内で日本人に助けられる

午後四時を回ったころであった。道路をへだてた一軒の家のくぐり戸がパタンと開いて四十歳くらいの奥さんが顔を一旦出して、すぐ引っ込んだ。私は無意識に飛び起き、公園の柵を飛び越えて、今閉まったばかりのくぐり戸をたたいた。それは私の意識しない瞬間的な、くぐり戸の音に対する反射行動であったらしい。中から返事があったので、私の身分を明かして一晩の助けを乞うた。

先ほどの奥さんが笑顔で戸を開け、さあ早くお入りとせきたて、中へ入れてくれた。私は逃亡の一切を打ち明けると、中から出て来た主人が「日本人はお互いだから遠慮せず家に居なさい。ただソ聯軍の検問があるので、二階の天井裏に寝ることだ」と言ってさっそく天井裏に私の寝る所、即ち隠れ場所をつくってくれた。温かい夕飯をご馳走になり、天井裏に上がって心身ともに疲れた体は、久方ぶりの温かい布団の膚ざわりに「捨てる神あれば拾う神あり」の言葉を思い起こし、今日の幸せに心から感謝する思いであった。

後で聞いたところによると、この家のご主人は新聞記者で、出身は宮崎県らしい。終戦後も撫順市の官庁に出入りしている関係で、身分は保証されていたらしい。名前が現在思い出せずにいるが、何とか探してお礼を申し述べたいと思いつづけている。

私は翌日から塀に囲まれた家の裏庭で、一生懸命薪割りをした。その他なんでも手伝ったが、一週間くらいたってからご主人が、近くの撫順火力発電所の解体工事をソ聯軍がしており、その人夫を募集している。日当は一日二十円だが、家の中でくすぶっているより、ソ聯軍の人夫として働く方が安全だと知らされて、翌日から弁当を作ってもらい、一キロメートルほど離れた発電所へ働きに出た。それから一カ月ソ聯軍の指揮下で、解体工事にほこりまみれになりながら働いた。

当時のソ聯進駐軍は満州の各都市の日本が造った主要設備を、総て解体し、鉄道でロシア国内へ輸送したのであった。撫順発電所も解体して、機械もパイプも総て貨車積みしたのであった。

私はこの家のおかげで、すこぶる穏やかな生活の毎日であったが、妻や雅彦のことが一刻も頭の中から離れなかった。よほど行って見ようと思ったが、昼間は顔を見られる恐れがある。だが夜間は逆に危険が多いので、じっと我慢した。十一月十五日になった。もうこの時期は寒さも加わり防寒帽が必要だ。奥さんがご主人の古いのを全部出して着せてくれた。有難いことに私に対して惜し気もなくすべてによく面倒を見てくれた。私は本当に感謝の毎日だった。

昼間でも零下を下がる気温となり、いよいよ零下三十度の酷寒も目の前に迫り、日本人難民は食うことと着ることに夢中だった。手持ちの物を売りさばきながらでも食える人はいい方で、殆どが僅かの働きで毎日の食料にことを欠く有様。夫が招集し、幼い子供を抱えた母親が多く、遠く北満から避難して来た開拓団、そしてその殆んどが老人と女子が多く、それら難民の撫順市に流れ込んだ数は三万を超すと聞いた。日本人居留民団があるが、食料の援助は出来ず、辛うじて住む場所を世話してくれるだけだった。それも倉庫とか、学校などでいずれもすし詰め。布団も毛布もない、着た切りの難民も多く、暖房のない倉庫や、学校は氷点下の十一月とあって、なかなか寝られるものではない。

満人は日本人の子供を大変に欲しがった。自分の生活のため子供を満人の里子に出した人は大変多かった。そして残った母親も”こんな苦労するなら”と満人の嫁さんに行った人も多い。現在の難民生活の逆境に耐える力を失い、戦地へ行った主人の行方も分からず、とても日本へ帰れまいーと希望を失った人たちである。それは北満方面から避難してきた満豪開拓義勇隊の開拓団の人たちが大部分であった。撫順市の日本人難民の生活は、日増しに寒さが厳しくなるに従い深刻なものとなってきた。

十一月十日であった。私のやっかいになっている家から二キロくらい離れた日本人街で、大暴動が起こった。それは二、三人の満人が一人の日本人の持ち物を奪ったことに端を発し、他の日本人が日本刀を振りかざしてその満人に切りかかった。それを目撃した満人が相呼応してその日本人に襲いかかったのであった。事件は瞬間的に爆発し満人、鮮人は片っ端から日本家屋に浸入して略奪を始めた。すべて最初の動機などは少しも知らず、大集団が暴徒と化したしたのであった。小銃、拳銃の音が鳴り響き、家屋は滅茶滅茶に壊されて、衣類、道具箱は蟻が運ぶように持ち去られた。その暴徒の数は実に二千人余である。その間、三時間、ソ聯兵の自動小銃の威嚇射撃で漸く静まったが、三百メートルくらいの日本人街の店も、住宅もほとんど壊され、見るも無残な状態で、日本人と満人の死体が十人以上残されていた。居合わせた日本人はその場所から逃げるだけが精いっぱいだったらしい。

私は一日たってその場所へ行き、なんともいえぬ感じで、戦争に負けた悔しさとともに、戦争の罪悪を心から憎んだ。そして私を助けてくれた満人の青年の言葉を改めて考えた。

「あなたたち日本人が悪いんじゃない・・・悪いのは東条なんだ・・・」

撫順市内の日本人街も、満人、鮮人、と日本人との対立的行動が多く見られ、昼間の行動も慎重にしなければ身の安全が守られなくなってきた。

妻子のもとに漸く帰る

十一月二十日、久保町の妻子の動静を探るべく一人で久保町に出かけた。夜間は危険なので昼間にした。付近で様子をうかがったが、だれも見ていないので、ドアをたたき中に入った。

妻も雅彦も元気でいた。あの時以来三十五日ぶり、妻の心配も大変なものであったらしく、私の無事に涙を流して喜んでくれた。ソ聯軍の動静等については、十五日くらいまでは付近を捜している様子だったが、もうあきらめたらしいので、私は明日夕方までに帰ることにして新聞記者の家に戻ってきた。奥さんともども大変喜んでくれて、米四升、服の上下、下着類一切をまた頂いて、二十一日の昼過ぎ、お礼を述べてその家を辞した。

撫順での難民生活

十一月二十一日、第三回目の逃亡の末、谷口さん宅の妻のところへ帰り着いた。私の逃亡中、再三にわたってのソ聯側の調べがあったらしいが、もうあきらめたらしい。私は居留民団の籍を得ることができないので、ここでも天井裏の生活を始めたが、十二月中旬になって漸く、元満鉄職員、吉村という偽名で籍が登録された。

終戦→捕虜→脱走→逮捕→再脱走→撫順の妻の所へ→逮捕寸前に再々脱走→妻の元に→撫順市内にて難民生活。以上の記録であるが自らが選んだ脱走の道は、実に険しく無難の道のりであった。脱走をせず捕虜生活に甘んじていた方が、ずっとその苦難は少なかっただろうと思った。だが私には今もってこの経験が、貴重なものとして、そして私自身の心の中の誇りとなっている。

逃亡中、行刷りの次の方たちの親身も及ばぬご親切には、心から感謝の念を忘れることはできない。

熊谷主計少尉(独守歩八大隊経理室)
奉天駅前における元憲兵さん
奉天朝鮮人街路上での日本人夫婦
鞍山街道で乗合馬車で身の危険を救ってくれた満人青年(当時二十三歳位)
撫順市内での新聞記者夫妻(宮崎県出身らしい)
その他多くの方々

難民の第一歩

昭和二十年十一月二十一日、捕虜収容所を脱走以来四十日ぶりで、妻静子の居留先の撫順市久保町日本人小学校教員住宅である教師の、谷口さん方の二階四畳半に漸く身にふりかかる障害を乗り越えて落ち着くことができた。ソ聯軍捕虜収容所を脱走した日本軍人としての私は、今後の身の安全を図るため、偽名を名乗ることにして『吉村』としたが、居留民の登録が出来ない、従ってしばらくは検問があれば直ちに天井裏に隠れる生活であった。これも二週間ほどで、漸く元満鉄職員としての籍を得て、吉村新一としての難民生活が始まったのである。

十二月に入り、ここ撫順にも零下二十度~三十度の日が毎日続く酷寒の真冬が訪れた。撫順市に終戦前から住んでいた日本人は、当時としては生活にこと欠かないが、北万方面から流れ込んできた日本人難民を主に、私たちのような者を含めて、その数三万人、いや四万人ともいわれていたそのほとんどの人は、ソ聯軍の戦車の響き、砲弾の炸裂を背に着のみ着のままで住家を離れ、ただその日の安住の地を追い求め、さまよい歩きながらここ撫順に落ち着いただけに、金も無く、老人と女子供の家族が多いので炭鉱夫として働くこともできず、飢えと寒さに加えて発疹チフス、ハシカ、栄養失調等手当と介護の方法もなく、ただ死を待つばかりであった。

私も当然金は無かったが幸い妻が、九月ころまでの食料は軍関係で努力して配給してくれたのを節約して、今まで命をつないだ。しかしもう全くの無一物であった。

私はあちこちと仕事を探した。炭鉱夫として露天掘りに行くなら明日にでも行けるのであった。でも私は考えていた。敗戦後の日本人は戦勝国の奴隷化の中でしか生きることができないであろう。私は軍歴は長いが手職がない、技術がない、日本に帰ることができても苦力よりほかにできない。今こそ私の将来に対して一番大事な時である。この混乱の中でも将来に役立つ仕事があるはずだ、満人でも鮮人の所でも良いから、技術を得る職場を探して働くことを常に考えていた。それを聞いていた谷口さんが私に錫物工場を紹介してくれた。

それは炭鉱の機械工場の横にある錫物工場で、私の所から二キロくらいの位置にあった。経営者は日本人で三宅さんという人であった。

工員は満人ばかりで二十人くらいだった。三宅さんは以前から撫順炭鉱の請負業者として工場を経営していたので、終戦当時も操業を続行することができたらしい。

私は慣れない仕事ながら一生懸命錫物の砂型造りに精を出した結果、年あけて一月末ころまでには、一応駆け出し職人としての技が身についた。マネーブル製品の錫造の方を担当し、孫さんという組長のもと、請負職人として一カ月八百円から千二百円の収入になった。

満人ばかり、工員二十人ほどの中で、私だけ一人日本人だったが、みんなが良く仕事を教えてくれて、私はチーソン(吉村)といって可愛がってもらった。暴徒化した満人に随分と悩まされた私には、この職場の満人たちの人間味ある姿に戸惑いの思いで、どこまで信用して良いか分からない気持ちであった。

私は数カ月間、日本人難民の私に対し、何の差別感を持たない人間味溢れた心に接し、職場の満人の方たちを少しでも疑った私自身を心から恥じ入ることがあった。

戦後三十七年を経た今日でも、あの職場の満人の一人一人の顔を思い起こしては、感謝の心でいっぱいだ。

       ※       ※       ※

工場に石炭ストーブの受注があり、かなりの数のストーブの製作にかかった。私もその作業を命ぜられて、毎日重さ六十キログラム以上もある砂型と取り組んだ。六十キログラムある上型を少しの狂いもなくやらねばならない。ちょっとずれても製品がオシャカになる作業で、おまけに中腰のかがんだ仕事であった。その作業が連日続いた末、私は腰膸骨の脱臼をした。三日三晩熱と痛みに苦しみ抜き、漸く痛みが取れたが働くことができない。医者もいないので小麦粉を酢で練って幹部に貼るだけの治療方法で、約一カ月工場を休んだ。その間収入は全く無い。高粱を買う金も燃料を買う金も無いのであった。工場へ通った時は、家での燃料として工場の溶鉄用コークスを、弁当入れの飯盒に一杯だけ持って帰るのが特別に許されていたが、それもできない。暖を取る燃料なんかは無くても我慢が出来たが、高粱を煮る燃料がないのにはどうする術もなかった。私は寝ていても気が気でない。

雅彦はその頃、なんとか小康状態であったが、固い高粱米ではすぐに腹をこわす。相変わらず目ばかり大きく、吹き出物は体一面にあった。妻は私を看護しながら、空腹と吹き出物の痛みを訴える雅彦を抱いて途方に暮れる日が数日続いた。

何か妻の手持ちの衣類を満人に売って、一合か二合くらいの高粱を手にした妻は、ごみと紙くずで炊こうとしているのを見て、私は我慢ならず、腰の痛みをこらえて起き出した。ちょっと離れた元日本人小学校校舎がいつの間にか八路軍の兵舎になっていて、兵士が三百人くらい駐屯していた。その校舎の端に、当直室らしい建物があったが、そこは道路側から入り易かった。夜中には一時間おきに巡察が来るが、後は誰も居ない。私は以前から目を着けていたので、痛い腰を引きずる思いでその家から板を盗ってくることを決心したのである。

背に腹は変えられず、私は一メートルくらいの丸鉄棒を持って、八路軍の兵舎へ忍び込んだ。木材らしいものは何もなかった。止むを得ず真っ暗な中を二階へ上がった。押し入れの床板を丸棒ではがした時、僅かな音に気が付いた巡察兵がやってきたが、私には気付かず去ったので大急ぎで逃げ出した。その時の戦利品は押し入れの床板二枚だけだったが、妻は喜んで高粱を炊き、私と雅彦に食べさせてくれた。しかし妻はほんのわずかしか食べなかった。

今考えてみても、肝の冷える思いだった。高粱を炊くために八路軍兵舎に命がけで忍び込んで、しかも六尺の長さで厚さが六分の板二枚。しかし当時としては身を守るための必死の行動であった。

その翌々日、五十歳くらいの上品なテン足(小さい足)の満人の夫人が訪ねてきて「チーソン(吉村)は病気で大変困ってるらしいから、主人にいわれてこれを持って来た」といって、品物を置いて「早くよくなって下さい・・・」と言って帰った。

妻は袋の中に白米が五升と八百円が入っているのを見て、大声を上げ「これ父さん・・・」と寝ている私の枕元に持ってきて、急にワッと泣き出した。うれしさ、有難さ、異郷の地での人の親切さに、妻の背中は大きく震えていた。

病気の夫と子供を抱えて、しかも無一物のなかで、妻は苦労を重ね、そして「もはやこれまでか・・・」という瀬戸際に常に立たされていただけに、うれしさに泣き伏す妻の姿に、私もいつしか涙がこらえられなかった。

これを届けてくれたのは、職場の組長である孫さんで、私の病状を見かねての好意であった。三十六年を過ぎた今でも貴重な思い出だ。妻は満州当時の話になると、必ずテン足のあの老夫人が、不自由な体でヨチヨチと歩いて去って行く後ろ姿が、神様のように神々しく、今でも目に焼きついているという。

       ※       ※       ※

私は体も治り、再び工場へ出た。満人は歓迎してくれた。正直に真面目に働けば、どんな人でも信用してくれる。今の私の周りの満人も鮮人も、みんな心から信頼出来る朋友なんだ。私には逃げてから何度となく、命の危険にさらされて、精神的にも自滅の時があった。だがその瀬戸際に必ず救い主が現れた。人間はどんな時でも己を失わず、誠意をもって努力することが大切であるとしみじみ感じた。

まさしく私は、究極の時、必ず奇跡のように誰かに救われてきた。これからも何度かの死線に直面しても、感謝と、生き甲斐と希望を失わず、故国日本へ帰るまで絶対にがんばる決意をしたのであった。

親を尋ねてさまよう幼児

二月末頃であった。寒さは相変わらず零下三十度であるが、雪はほとんど無い。朝、工場へ出かける途中で、住宅街のはずれで日本人の二人の子供に出会った。実に哀れな姿にびっくりした。大きい方が八歳くらいの女の子、小さい方が五歳くらいの男の子で、この酷寒の地で底の破れた防寒靴を履き、ボロボロのズボンは二人とも素足が見えて、手も足も凍傷にかかり、黒ずんだ色で腫れ上がっていた。トボトボと、動かぬ足をやっと運ぶ姿である。そして姉が弟の背中を抱えるようにしてー。私は何ともいえぬ気持ちで工場へ急いだ。

翌朝、私は場所は違うがまた同じ二人に出会った。私は見過ごしかねて近寄り「どうしたの・・・どこへ行くの・・・」と尋ねた。姉がうつろな目で「父さんをさがしてるの・・・」と答えた。私は工場の出勤時刻を気にしながらなお尋ねた。ポツリ、ポツリの子供なりに答えるところによると、二人は開拓団の難民らしくここから二キロほど離れた学校にいたらしい。そこでお母さんは死に、父さんは働きに行ったっきり、もう一週間も帰ってこないという。一日、二日は他の人が食物をくれたが、後は頼んでもくれない。もう三日も食べておらず、父さんが働きに出て行ったのはこっちの方だと聞いて、あてもなく探しているらしい。手袋のない手はひどく腫れ上がり生きている皮膚ではない。両足は黒くくすんで腫れ上がっている。完全に凍傷であって、どんな手当をしても両手両足を切断するより方法がない状態だった。

とても歩けるとは思えないが、それでも姉が弟を抱え込むようにしていた。「昨晩はどうしたのか」と聞くと、動かぬ手で小屋を指した。そこは寝られるような家ではない。寒さの中で抱き合って夜を過ごしたに違いない。しかし助ける方法のない自分である。私は心の中で泣きながら、女房が作ってくれた高粱米の握りめし二個を取り出して与えた。二人は手を出したが握ることができない。私は二人の両手をそろえてその上に一個ずつのせてやった。二人は何の感情も示さず、腫れ上がった唇で食べ始めた。涙も出さず、うつろな目で私を見上げながら食べていた。私は心を鬼にして工場へ急いだ。

翌三日目の朝、妻に昨日の子供の話をし、特別に弁当を余分にもって家を出た。出勤途中だが、二人がいないか探しながら歩いた。見えなかった。私はどうしても探したかった。そんなに遠くへは行けるものではないだろうと思いながら、昨日の小屋まで行って見た。中を見たがいない。あきらめられず小屋の裏へ回って見たら、その軒下に姉が弟を抱いた姿で倒れていた。

姉の目には涙が凍りついていた・・・。かわいそうな親とはぐれた二人。姉は昨日も弟を抱くようにしていた。そして最後の姿も弟を両手で抱いていた・・・。どんなにか大人の世界を恨んだろう・・・。

私は手を合わせる術もなく男泣きに泣いた。幼ない二人が父親を探して、頼る術ない異郷の空で、酷寒零下三十度の仮借なき寒気は、無防備に等しい幼い二人の手足を冒し、そして遂にその生命をも奪った。

私はいまだに昨日のことのように思い、そして永久に忘れることができないであろう。

撫順市のある日本人難民収容所の実態

撫順市は起伏が多く、炭鉱を中心とした大都市であった。この起伏の多い町中を電車が走っていた。炭鉱の経営だったので電車は一切無料。日本人学校ほか工業高校等各所にたくさんあった。日本人居留民団があって、日本人難民の援護と救助をしていたが、名目だけで、各地から撫順に流れ込む日本人難民の居住場所を与えるのが、精いっぱいの仕事であったらしい。

私は、あの幼い二人が居たといった高台にある日本人学校の難民収容所に行って見ようと思い、工場の休みのある日、満人の友達と二人で出かけた。コンクリート塀が回された大きな学校で、教室数は三十以上もあり、体育館もあった。門内に入って先ず驚いたのは、周囲の塀の内側に無数に掘られた防空壕の中に、無数の日本人の死体が裸で投げ込まれていた。その数およそ二百体を越えていたであろう。屋内に入ると暖房はもちろんない教室に毛布や布団にくるまって二十人~三十人といた。しかもその半数は病人らしい。廊下の横にはたくさんの火鉢やコンロ、そして鍋などが置かれ、こごえた手で高粱を煮ている人もいた。にこやかな笑顔は誰からも見られない。私は部屋でぼう然といて、ただ一点を見つめ、動こうともしない四十歳くらいの女の人が妙に気になったので、そばによって聞いたが、何も答えない。そのまま立ち去ろうと思ったが念のためもう一度聞いた。「オバさんどうしたの・・・どこからきたの・・・」と聞いて見た。とたんにオバさんは大声あげて泣き出した。驚いた私を見あげ、溢れる涙を拭きもせず。

「私に何の罪があるの・・・なぜこんなみじめな目に会わねばならんの・・・」くやしさと恨みが、一挙に噴き出したように泣きわめき出した。よく見ると隣に寝ているとばかり思った主人らしい男と、十歳くらいの女の子の二人は死んでいた。二人は十日も前に息を引き取ったらしい。埋葬はおろか、防空壕までも運ぶことができない。食物もなく気力もないのだ。同室の人たちもこれを見て見ぬふりをせざるを得ない。みんなが極端に悲惨で、年老いたものと女子供が多く、生ける者は病にかかり、そして死者と雑居状態の難民収容所であった。

この撫順の真ん中の高台にあった学校跡の難民収容所には、黒河方面から避難してきた開拓団の人たちが主として収容されていた。昭和二十年九月には千八百人ほどであったらしいが、私が訪れた当時には約五百人の生存で他は全部死亡したらしい。

撫順火葬場の実態

昭和二十一年三月初めだった。妻たちと一緒に、四平街よりひなんしてきた九州出身の軍属、柱林さん一家が私たち居留民組織の同班で、二、三軒離れた所に住んでいた。主人は捕虜になっていて、おばあちゃん(六十歳くらい)と奥さん(二十五歳くらい)の二人であったが、避難行動中に赤ちゃんが生まれたが数日で死んだ。働く者のいない乏しい難民生活の中で、奥さんも、おばあちゃんを残して栄養失調で亡くなったのであった。私は柱林君が元部下であった関係上、見過ごすことができず、近くにいた元軍属の市野君と大島君と一緒に、奥さんの死体をアンペラに包んで荷車で、三キロほど離れた所にある撫順市営の火葬場へ行った。大きな火葬場で、焼炉が六基並んでいた。市営であるが敗戦後の混乱でいまだに正規の管理状態ではなかった。従って届けを出す必要もなく、敗戦前から勤務していた火葬夫がそのまま三人ほどいて、火葬夫に金をやれば焼いてくれるが、金を出さなければいつまでも焼いてくれなかった。火葬夫の要求は一体三百円であったが、それは数日間待たなければならない。五百円出せば直ぐ焼いてくれるらしい。

私の前で、先にきていた日本人と火葬夫とが、盛んに焼く焼かないで押し問答をしているのを、黙って聞いているうちにそれが分かった。

私は金は三百円しか持っていない。それを出すと火葬夫は案の定、一週間後であるといって相手にしてくれない。止むを得ず「金をとりに行く間、置く所は?」と聞くと、奥の扉を指した。戸を開けて見て驚いた。広さは五十坪か六十坪ほどの死体安置所であるが、その数実に五百体以上の、寝棺に入ったものはほんの少しで後はアンペラ(ムシロ)包と裸の冷凍人間が、積み重ねたり、たてかけたりしてあった。部屋いっぱいに、しかも雑然と、まさに五百羅漢の容相で、一瞬あまりにも凄惨な光景にがく然として立ちすくんだ。裸が多く、その形相は苦しさをそのまま顔面に表わし、歯を食いしばり、目をむき、悶え苦しみの百面百相で、ただの一人として安らかな死に顔は見られなかった。みんな日本人の死体だ。零下三十度の気候は総てが天然の冷蔵庫であって、四月末でないと解けないのである。

だがこの火葬場へ運び込まれた仏は、当時の難民として最も幸せな仏といわねばならない。それはこの運ばれた仏は、親か兄弟か、あるいは知人か、とにかく介護者がいて、お骨にするべく供養されるために、運ばれたものであって、金がなかったが、近い内に金をもって迎えにきてくれる仏であり、いずれにしても供養をする介護者がいたということである。

それにひきかえ、前に書いた難民収容所の実態のように、ただ防空壕に投げ込まれた死体、いやそれよりも、道路端に死んでいる日本人は、そのまま放置されて、さらに一晩過ぎたら衣服一切、パンツまで剥ぎ取られ、素裸にされていた。自分を守るのは自分だけの生活と割り切った日本人難民は、生活が苦しくなるほどに残酷非情になった。死人の衣服を剥ぎ取るのは日本人なのであった。

私は家に帰り、二百円をもって漸くお骨にすることができた。柱林のおばちゃんは、その骨箱を抱いて「捕虜になっている息子よ、早くわしを助けに来てくれ・・・」と泣いていた。

子供を木の下に置いて逃げてきた人

撫順市内は終戦後七カ月を経た昭和二十一年三月ころには、一応日本人難民の入り込みも一段落して、日本人居留民団組織も漸く活発化し、国も警察も軍隊もなく、従って耳と目に神経を集中し、敏感な行動のみが自分を守れる不安定な生活から、一部解放された市内の状況に、往来する日本人もホッとしていた。だが市中はソ聯軍が駐屯しているが、市郊外は八路軍と国府軍が相対立し、常に小競り合いの戦闘を繰り返していた。

私は毎日工場で忙しく働いて、親子三人の生活を守ることができた。三月末ころに工場が大変忙しくなり、日本人難民のおばさんんたちが十人ほど工場に入ってきた。仕事は錫物の砂落としと熱処理の作業であった。開拓民団の日本人難民で年齢は三十歳から四十歳ぐらいで、その衣服は哀れなほど粗末であった。皆一生懸命真っ黒になってよく働いた。日本人の男は私一人であったので、当然私がいろいろと世話をせねばならなかったので、休憩時間は出来るだけ愉快な話題を選んで時を過ごすように努めた。

だが一人だけは何としても話をしない人がいた。三十二歳くらいのおばさんで、いつも黙って仕事は一生懸命にするが、野外作業の場合は、工場のすぐ横にある道路を子供が通ると遠く去って行くまで、子供を見つめたまま仕事をしない。不思議に思ったが次の日も次の日も子供を見かけたらぼう然とみつめたままだった。

多分そんな日が五、六日続いたある日、日本人の六歳くらいの男の子が親と一緒に歩いていた。相変わらず黙って棒立ちのまま遠く立ち去る子供を見ていたが、突然道路側に張られたバラ鉄線の柵に取りすがり、大声をあげて泣きだした。何となだめても泣くだけで、わけの分からないことを口走り始め、子供の名前らしいのを呼んでいるようだ。

私は肩をつかんで工場内に連れ込んだが、その時はだれが見ても発狂状態だったので、私は組長の孫さんに話をしておばさんの住んでいる難民収容所へ連れて帰った。途中話をしても何も答えてくれなかった。

その収容所で同じ所にいた人に会って聞いたところによると、佳々斯(チャームス)方面の開拓団へ五年ほど前に入植して一生懸命に働いて、生活も安定したが、二十年五月に夫が招集されてからは、五歳になる男の子と二人であった。ソ連軍の侵入で八月十日、開拓団の人たちは家を捨て、みんなそろって南方へ避難するべく駅まで、三里くらいの道程を、夜中に着の身着のままで逃げだした。その時は開拓部落の五十人くらいだったらしい。

『日本人は我が土地の侵略者である』と、現地の満人たちは、ソ聯軍侵略に敗退する日本人開拓団員に対してまでも、その憤まんが一気に爆発したように、逃げて行く日本人にも暴行を加えだした。抵抗すればほとんど殺された。道路は危険なので山の中を歩いた。各所に満人たちが待ち伏せしているのを避けながらであった。おばさんの五歳の男の子は病気だった。歩けなかったので背負っての逃避行である。重病の子供は、敵がそこにいても泣き声をたてる。口を押えて窒息するかと思うほどのことが何度もあった。開拓団員もこの子供一人のためにみんなの行動が思うようにいかない。

思い余った団長は「子供を置いて行け」と命令した。おばさんは泣いて頼んだが、殺気立った団員は既に正常な思慮分別はとっくに失っていた。おばさんの背から子供をもぎとり、大きな木の根にしばって握り飯を二個置いた。泣き叫ぶ子供の声に「私も残る」と叫ぶおばさんを、有無をいわせず連れてきたらしい。

撫順に落ち着いてからも、子供の泣き声が頭から離れないらしいが、他の人には一切子供のことについては言わなかった。

最も母子の別れとしては、これほど残酷な話はないであろう。おばさんの胸を切りきざむ苦悩が、発狂によって救われたのではないかと、私はせつない思いで工場に帰った。

それから五日後に聞いたが、おばさんは発狂以来子供の名を呼び続けつつ、何も食べずに、そして何も人に語ることなく死んだという。

関東軍は北満の日本人を置き去りに

昭和十七年『関特演』と称する特別作戦符号、即ち関東軍特別大演習を展開した。これは事実上対ソ作戦行動であって、内地本国より招集された部隊が、どんどん満州国内の主として北満に送られてきた。即ち満ソ国境に向けての配備であり、当時私は東満の鶏寧県鶏寧第二六三三部隊および東安の軍司令部等に勤務していたが、どんな山奥にも日本軍がごちゃごちゃの感じで幕舎生活をしていた。話によるとこの大演習により関東軍の兵力は二百万と称していたことを覚えている。ことあらば一挙にソ聯国内に攻め込む作戦道路は、極秘の中で巨額の軍費を投じて各所に造られて、まさしく北満一帯は日本軍で充満し、国境は一触即発の緊迫の毎日であった。

関東軍は攻め込む機を今や遅しと待ったが、大本営海軍部は真珠湾攻撃を突如敢行したため戦局は様相を変え、関東軍の兵力は逐次南方戦線に移動を開始し、昭和十九年夏ころには関特演により増強された兵力はすべて関東軍から姿を消した。関東軍の苦肉の策としか受け取れないような現地招集が始まった。在満日本人がどんどん招集されて、数個軍が各所に編成されたが、歩兵部隊には銃が無かった。有っても五人に一丁くらいで、戦車大隊も造られたが、一台も戦車の無い大隊であった。砲兵隊にしても同様で、食糧も現地自活主義。私たちの最後にいた鄭家屯ではアルカリ地帯で一メートル五十ものびたホーレン草を、毎日鎌で刈り、二~三週間も主食として食べた。従ってソ聯軍の進入当時は、少数の部隊が北満地帯に残っているだけで、無血の進撃を許さざるを得なかったのである。

北満の奥地に至るところに、在留日本人はたくさんいたが、異郷の地では軍隊だけが頼りである。国策的に開拓団として移駐を命ぜられた日本人農民は当然強制されたものが大部分であった。にもかかわらず、これら在留日本人を関東軍は無防備のまま置き去りにしたのであった。

せっかく営々として築き上げた田畑、家財を投げ捨て、体一つで幸いな人は汽車を利用したが、奥地の人は汽車の利用も出来ず、混乱の中で実にその工程百里に及んで歩いて逃げ、途中で倒れ、落伍し、殺され、幼児は殺すに忍びず満人に預け、さらにやけになった女は満人の嫁さんになるなど、筆舌に尽くしえない地獄の状態であった。

満人は日本人の子供を大変に欲しがった。先進国日本人に対する畏敬の現れだと思うがとにかく欲しがった。うっかり目を離している間に随分と誘拐された子もあった。

一人で何人もの日本人の子供を貰っている人がいたが、これは商売であるらしい。子供の代償として若干の食料をもらうのが通例であった。女の子ばかり欲しがる満人もいたが、これも商売である。当時の満人は一夫多妻であった。金で妻を買うしきたりで、金がないといつまでも妻を持つことができなかった。従って女の子を欲しがる原因がここにあった。

また夫を失った日本人の女は戦後のの難民生活の苦しさと、いつ日本へ帰れるかも分からず食もない苦しさに耐え切れず、満人の嫁になった人も随分とあった。私と同じ錫物工場にいた難民女性の一人が、工場の職人のもとへ嫁さんに行った。私たちの引き揚げ情報が流れたとき、彼女は工場を訪れてきて「こんなに早く帰れるのなら・・・」と悲しい顔で私たちに別れの言葉を残して行った。

満人は日本人の女を妻にすることは大歓迎で、自慢でもあった。だれに聞いても日本人妻は大事にされたらしい。

現在も満州に生活する日本人孤児の数は一万近いだろう。そして日本人妻も相当な数だと思う。戦後三十七年を経た今日、当時を思い起こして記録のペンを走らせる私の心の中で錫物工場の職人の嫁さんになった人は、もう六十五くらいになったろう、元気なのかなあ・・・。淋しい心で日本を恋しがっているだろうなあと思う。

四月を過ぎて五月を迎えた。道路や防空壕に転がっている難民日本人の死体も、暖かい気候で腐乱し始めた。ソ聯軍の指示でその死体の片付けが始まった。私たちにも居留民団から片付けのため使役の命令が出され、近辺の難民収容所や道端の死体運びに出役をした。

久保町より一段下りた川原で、重油をかけて死体を焼く作業を手伝った。その数およそ一千体を越し、約一週間も燃やし続けた。敗戦国の日本人とはいえ、線香一本上げることなく、ごみのように焼き捨てられたのであった。

終戦後三十七年を経た今日では、およそ考えられないことであり、異郷の地、誰にもその消息を伝えるすべもなく、しかも国の政策に従い、望まずして渡満した一般邦人の、哀れな末路であり、心から哀悼の意を表したい。

故郷日本への引き揚げ情報に喜ぶ

五月も半ばを過ぎて、気候も暖かくなった。一メートルのツンドラ(凍土)状態の大地も若芽を吹き出し始めた。日本人難民の間で日本への引き揚げ情報が、誰からともなく流れ始めた。飢えと寒さにしいたげられた難民にとっては、何よりの朗報であった。

「さあ帰国準備だ・・・だがどうやって帰してくれるんだろうか・・・汽車なのか・・・船なのか・・・いや朝鮮まで歩かされるんだ・・・汽車に乗ったらそのままシベリアに連れて行かれるぞ・・・男はみんな殺されるんだ・・・帰してくれるのは女子供だけだ・・・」

など取りとめのない情報も流れた。敗戦の経験のない私たち日本人は、新聞もなく日本との交信を断たれて十カ月を経た当時、国際情勢など知り得る方法もない。私たち難民は盲目の中にあって、良い情報に歓喜し、悪い情報におののく悲喜こもごもの毎日であった。

昭和二十一年六月十日、日本人居留民団を通じて、正式に私たちに引き揚げのための帰国手続きの通達が出された。私は引き揚げに関する複雑な書類の提出を求められ、隣近所走り回って大急ぎで取りまとめた。その頃はすでに第一陣は日本へ向けて出発したらしい。話に聞くと難民中一番困窮している者を優先するとかで、私たちのように一般民家で生活している者は遅くなるとも聞いた。

でもとにかく帰ることができるんだ、先ず帰るための道中の食糧を確保することが、だれしも共通の考えであった。少なくとも十日分は必要だと判断して、日常の食糧を倹約して乾パンを作ることにした。軍隊で経験がある焼竈を煉瓦を集めて造った。僅かな金の中から大豆粉とトウキビ粉を買ってきて乾パンを毎日焼いた。味はまずいが親子三人十日くらい命をつなぐものができた。小麦粉が一番いいが買う金が乏しかった。隣近所の人たちもこれを見て、携行食糧としては最適だと私の焼竈は大繁盛であった。次は雅彦の着替えや若干の持ち物。そして乾パンなどを携行するリュックが無かったので、軍隊の携行天幕を利用して妻に大きな手製のリュックを作らせた。(これは今でも我が家の宝として保存してある)

引き揚げ命令により撫順出発

すっかり引き揚げ準備は整った。出発命令を一日千秋の思いで待つこと十日、遂に出発命令がきた。それは『二十三日朝七時までに市の中心地帯の、公園横のグラウンドに集結せよ』であった。

工場の満人とも別れを告げて所定の場所に集結した。当日の引き揚げ難民は全部で千八百人。三百人ずつの中隊編成とし、六個中隊の大編成となり、私は第五中隊の中隊長として三百人の引率責任者とされた。

二列に並んだ私の中隊を眺めたが、女子供が七割を占めており、皆一面識もない人たちばかりだった。胸の名札を見ると九州から北海道まで全国にまたがっていたが、中でも九州が一番多かった。胸には各自の帰国先の住所、氏名、性別、年齢の書いた布片をつけているが、その中には帰国先のない人が七、八人いた。それは身内全部が渡満して、故郷はあるが帰る場所がない人たちだった。動くこともできないほど荷物を持った人、そしてなんにも持たない人と、まちまちで、いずれにしてもまさに乞食の行列に似ていた。

日本人難民の引き揚げはすべてソ聯軍ではなく、八路軍の管理下で行われているので、八路軍の兵がわれわれを点呼し、携行荷物および所持金の検査などをした。五時間くらいかかって漸く所定の検査も終わりいざ駅に向けて出発といった時に、突然『帰国中止』を命ぜられた。何事かと思ったが、詳細は分からない。夢にまで見た帰国が中止とは、全員がただうなだれた姿で解散した。

私は再び久保町の住家に帰ったが、寝る布団はもう必要ないものとして帰る費用に満人に売ってしまった。寝る布団もない。だが暑い季節なのでなんとか我慢できた。さていつになるのやらと、心細い気持ちがつのるばかり。私たち中隊長は、大隊長とともに翌日は朝早くから、居留民団を通じ八路軍に対して強引に折衝を続けた結果、二十五日に出発命令をやっともらうことができた。突然の帰国中止があったのは、引揚者の荷物検査中に不法な禁製品があったためらしい。

前の通りの編成で所定の場所に集結し、無事全員の検査も終わって出発を開始した。駅まで約四キロの道を四列に並び、総勢千八百人の行列は今思い出しても歓喜にむせぶ帰国への第一歩であった。だがボロボロの衣服に女、子供を主とした行列は、現地人の目から見ても哀れさを思わせる奇妙な、”乞食の隊列”であったろう。この隊列の周りを多くの八路軍兵士が銃剣を手に護衛してくれた。それは最後の現地満人の略奪から守ってくれたのである。

漸く駅に着いた。われわれ引揚者の乗るのは全部無蓋貨車で、しかも私の中隊の割当は三両であった。即ち一貨車に百人がすし詰めになるのであったが、乗らねばならん、いや詰めこまなければならないのだ。

私は隊員の中で歩けない人を助けながら四キロの行程と、声を枯らして隊員にしゃにむに貨車に押し込むことでもうヘトヘトであった。すし詰めの貨車内では、身動きも座ることもできない。大小便はどうしようもないので、おのおのがあり合わせの瓶と鍋を利用して窓の外に投げ棄てていた。

汽車は奉天を過ぎて錦洲(キンシュー)の方向に走っているようだ。どこへ行くのかさっぱり分からないままだが、大連はソ聯軍の占領下にあるので上海へ行くらしいとの情報だった。私の隣にいた三十歳くらいの赤ん坊を背負った人が、急に大声で「背中の子供が冷たいッ・・・」とわめき出した。私は子供の口元にかろうじて手をのばしてみたが、呼吸をしていない。首に手をあててみたが冷たくなっていた。みんな立っているだけがやっとなので子供を下ろしてみることもできない。多分貨車に乗ってからのすし詰めで、人と人との圧迫で窒息したのであろう。みんなが泣きわめく母親をなだめながら・・・。のろい貨車は走り続けた。

午後四時ころ、貨車は錦洲駅に停車し、我々は下車を命ぜられた。一泊するためであった。下車した場所の近くに満鉄社宅が二十棟ほどあり、そこが宿泊場所で八畳間に二十人の割り当てであった。私は一晩外でそのまま寝た。下車と同時に死んだ子供を、二千メートルほど離れた林の中に、手で穴を掘って埋葬した。

翌二十六日、朝早く集結して、再び無蓋貨車に乗った。初めてコロ島から船に乗ることを聞かされた。

日本が近づいている・・・。そんな思いが全員の心となって、苦しいすし詰めの貨車に明るい空気がみなぎった。軍歌などの合唱が前後の貨車から流れ、そのうちいつのまにやら「ここは御国の何百里」の大合唱になった。みんな希望の涙を流しながら・・・。

コロ島に到着

私たち撫順の日本人難民千八百人を乗せた引き揚げ列車は、いよいよ午後三時過ぎ、コロ島に到着した。ここでも我々は八路軍に誘導され、難民キャンプ場の大きな仮設の建物に収容された。周囲には柵が造られて八路軍の監視下にあった。キャンプ内には満人の売店がたくさんあって、金のあるものはぜいたくな食物をとり、金の無い者は食うことができない。乗船のためには厳重な身体検査があり、金は千円以下で、貴金属類は一切没収であった。私の率いる中隊三百人は、調べて見たら半分の百五十人もが無一文だった。

あと何日をこのキャンプで過ごすのか見当がつかないので、私は中隊の全員を集めて訴えた。「明日にも船に乗れるんだ・・・。船の中は日本だぞ・・・お互いに日本に帰るまで助け合おう・・・。金は千円しか持てない、みんなの金を全部出してくれ。そして均等に分けようじゃないか・・・。」金のある者はもちろん異論を唱えたが、必要なことを強く説得して間もなく全員の同意が得られた。さっそく全部集めて三百人に均等に配分したが、たしか一人当たり八百円ずつだったと思う。

あるお婆さんが私の手を取り、泣きながら八百円を拝むようにして受け取ったのを覚えている。みんなの顔が明るくなった。食べられる者、食べられない者の同居の中での卑屈感がなくなった。同志の中でのねたみ、恨みも消え去って、中隊全員のまとまりができ上った。

コロ島引き揚げ難民キャンプの便所は、今思っても想像のつかないもので、それはキャンプの各所に十間(二十メートル)四方に、高さ五尺(一メートル五十)くらいのアンペラ(むしろ)の囲いがあるだけで、屋根は無く、その中に幅一尺五寸(〇・五メートル)深さ一尺五寸(〇・五メートル)の溝が無数に掘られ、横に板を並べてその板に両足をのせるだけのもの。囲いの中は全部一望できる仕組みで、一度に五十人が並んで用を足せるのである。人間は与えられた環境に良く順応できるもので、女も男も平気で尻をまくり、用を足していた。馴れるに従い、お互い用を足しながら世間話に花が咲いていた。

高い監視台の上の八路軍兵士の監視も何のそのでまことに大陸的な風景であった。

いよいよ引揚船への乗船準備

翌二十七日、撫順から来た我々の大隊が私の中隊だけ残して、上陸用舟艇に似た小さい舟に乗り、佐世保に向けて出港していった。私の中隊には何の連絡もない。撫順から大隊編成できたし、すべて大隊長の指示による行動を取って来たのに、このコロ島で何の連絡もなく置き去られたのであった。

このコロ島難民キャンプは、全満州各地からの引き揚げ出港地であって、連日のように貨車で難民がこのキャンプに送り込まれ、そして検査を受けて出航していく。後で聞いたのが、ここでも金次第であったらしく、私たちより一日遅くコロ島に来た奉天からの引き揚げ者団体は、さっさとその日の夕方出航したのである。それは八路軍の参謀に相当の金を渡した結果らしい。当時の我々引き揚げ者の心境としては、一日でも一時間でも早く乗船するのが願いであった。それは長い難民生活の中で、常に自分の意志による行動ができないために、絶えず不安がつきまとう。この束縛感から一刻も早く解放されたいからであった。コロ島キャンプには常に三千人から五千人くらいが乗船待ちの状態で、何日このキャンプにいようと給食はなく、皆自分で賄うよりすべがないのであった。私たちの中隊は女と子供がとくに多かったので、足手まといだから大隊長は置き去りにしたらしい。

それを知った私の中隊は騒然とした。私は止むを得ずみんなから若干の金を集めて、八路軍参謀長に渡し、座り込み作戦で明二十八日の乗船を懇願した。約三時間の座り込みの後、漸く舞鶴行きの二十八日乗船カードを貰うことができた。ふさぎこんでいたキャンプに急いで帰り、これを伝えると三百人の中隊は大歓声となった。この歓声があまりにも大きかったので、何事かとびっくりした八路兵が銃をもって飛び込んで来たほどであった。

明けて二十八日、喜びの中に眠れぬ夜を明かし、早々に荷物をまとめ、乗船準備を急いだ。参謀部から乗船の決まりが達せられた。それは携行する品物は衣類と日用品、金は一人千円以内、その他貴金属類、薬物の持ち出しは禁じられた。もし一人でも違反者があれば中隊全員乗船停止とのことである。

午前十時ころ岸壁に勢揃いし、八路軍の検査を受けた。私の隣に並んでいた引揚者中隊が全員乗船取り止めとかで、八路軍によりキャンプに連れ戻されていった。それは引揚者の一人が金を余分に持っていたので、検査で見つけられるのを恐れて、海に投げ込んだらしく、それを見つけた八路軍が激怒したらしい。私の中隊では一人の違反者も出なかった。

乗船開始だ

私たちを待っている船は大きな貨物船で、船体に大きな文字のVOと書いてあるアメリカからのチャーター船らしい。船上を見上げると日本人船員が大勢で私たちの乗船を待っていた。岸壁で検査を受け、乗船を待っている引揚者の数はざっと三千人は下らないと見た。私の中隊はその一番先に乗船する位置にあった。

乗船の合図があった。

私の中隊が一番乗りである。急勾配のタラップを上がるみんなの足元に、喜びがみなぎっていた。「御苦労様でした」と船上で迎えてくれる船員の声に、祖国の腕の中に抱えられたような思いがした。指示されるままに前部の船倉に落ち着いた。後から続々と引揚者が入り、私たちの座席が狭められたが、やっと座る位置くらいは確保できた。

汽笛が鳴った。ボー、ボーと私たちの今までの苦労のすべてを吐き出すように。

私は甲板に飛び出した。次の船を待つ引揚者が岸壁で手を振っていた。八路兵も手を振っていた。私もただ感無量で手を振った。夢中で手を振る引揚者の胸中は、恨みつらみを乗り越えた一瞬でもあった。私も十年に余る在満生活の労苦にむせぶ思いだった。

船は私たち引揚邦人三千人近くを乗せて一路日本へ向け、航跡を長く残しながらすべるように進んだ。折り良く天気は快晴で、穏やかな海上であった。

船長のアナウンスがあった。「引揚者の皆さん、長い間大変ご苦労様でした。本船は七月四日到着の予定にて、皆様の恐らく夢に見つづけたであろう日本の舞鶴港に向かって走っております。皆様のお世話をする私ども船長以下船員は、全部日本人です。医者もおります。体の悪い方は申し出て下さい」

この船長の感激的な放送は、いまだに私の頭の中に一語も洩らさず残っている。引揚者のいる船倉は期せずして万歳の声の渦であった。国も警察も、そして軍隊も、何にも自分を庇護してくれるもののない異郷の地から脱出できたのだ。そして完全に日本の国の腕の中なのだ。私たちには国があるんだ。もう自由なんだーと相手構わず手を取り合い、もう大丈夫と、これほど国の有難さを意識したことは、私の一生を通じて初めてのことだった。

夕食が早目に出された。私の中隊での当番が軍隊式の食缶を受け取ってきた。船長の心づくしがまた素晴らしく私たちを喜ばせた。それは引き揚げを祝ってのお頭付きの魚がついていた。ふかふかの香りがいっぱいの玄米飯であった。魚なんてのは一年近くも忘れている。そして米のご飯も、こんな素晴らしい食事をしている自分は果たして自分なのかと奇跡の思いに戸惑いながら、嬉しさにむせぶ思いだった。そして徐々に、徐々に「日本人だけの世界にいるんだ、もう恐怖はないんだ」と現実に戻った。

久方ぶりの満腹と、安堵の中で、身も心もゆったりした第一夜を過ごした。天気は良く、ほとんど船の揺れはなく、静かな玄海灘であった。

雅彦も、今まで落ち着きのない恐怖の長い生活の中で、子供心にも恐れからか親から一歩も離れず、常に親の動作に敏感で、ちょっとの動きにも目を覚ますといった状態だったが、乗船後は、親の安心感を体で感じとったのであろうか、その夜は寝顔を揺すってもつっ突いても起きない。子供なりに恐怖から逃れて安心しきったような寝顔であった。

妻はじっと痩せ衰えた雅彦の寝顔をいつまでも、いつまでも眺めていた。恐らく雅彦のまだ見ぬ故郷のおばあちゃんのところへ、元気な姿で連れて帰れる喜びに浸っていたのであろう。

船旅はすこぶる快適。懸念された玄海灘もほんの少しの揺れで過ぎ、船は一路舞鶴へ。

コロ島出航以来五日目。せっかく乗船したのに、病気になって船医の手厚い手当を受けながら、日本を目の前にして亡くなった方三人の水葬が行われた。用意された寝棺に納められて、大きな石を何個も結びつけ、全員の黙祷の中で海中に葬られた。哀れを誘う汽笛の音とともに、船は静かにその場を一周して、みんなの投げ込む花束を後にして、また一路舞鶴へ。

だが祖国日本へ帰れる喜びも、日本の山並みを目の前にして、初めて別な実感に、新たな心の動揺と、そして不安が引揚者のほとんどに広がった。それは故郷の父や母は、あるいは子は、そして家は、どうなっているだろうか。生きているだろうか。焼かれているのではないか。果たして落ち着く所があるだろうか。皆それぞれに自分の故郷を目的地にしているのは事実ではあるが。船内はいつしか、今までとは別な雰囲気に包まれ始めた。

今まではその時の喜びに浸り、その時の悲しみに泣き、その時の恐怖におののく、せつなの生活で生きてきた。だが今は違う。これからどうしよう、どんな生活が待っているのか・・・。私の中隊の中に、全然落ち着き先のない人、故郷のない人が十人ほどいたが、かえってその人たちの方がサバサバしていた。「何とかなるさ・・・」であった。

そんな喜びと、不安をいっぱいにした船は、七月四日昼ころ、静かに舞鶴港沖に停泊した。港内にはたくさんの船がいたが引揚船らしいのが二船、岸壁につき、引揚者の上陸するのが見える。私たちの船は検疫のため早くても明五日の上陸という。せっかくそこに日本の土を見ながら残念な思いで最後の船内の夜を過ごした。

舞鶴上陸開始から故郷へ

七月五日昼食後、船は待望の舞鶴港岸壁に横付けされた。潮の香とともに日本の甘い香りが何ともいえぬ。上陸開始であった。各編成通りの中隊ごとに下船した。久方ぶりの日本の土のぬくみと、そして引揚援護局の人たち、一般市民の温かい歓迎に、やっぱり日本だ、見知らぬ人々だが、喜んで私たちを迎えてくれる有様にただただ感激する私たちだった。

我々の姿は実に哀れだった。乞食の行列とみえたことであろう。私は半ズボン姿で手製のリュック(中味は若干の乾パンと雅彦の着替えだけ)妻は手製の和服を利用したズボンに上は薄いシャツ一枚で、雅彦は軍服を改造した手製のズボンとシャツのいでたちであった。

私たちは誘導に従って検疫を受けた。衣服は着たままであったが、DDTを全身にかけられ、荷物も同様。次は入浴であった。すべてこれらの消毒が終わって休憩室に案内された。ここで一泊するらしい。いまだ私たちは自由行動を許されていないのであった。この部屋は引揚者への配慮であろうか畳敷きであった。大人も子供も畳の香にそそられて転がり回り、日本を肌で楽しんでいた。おいしいぜんざいの配給とともに心づくしの夕食であった。複雑な帰国手続きにかなり時間がかかったが、私は偽名で乗船したので、この舞鶴で本名を登録し、復員手続きを完了したのである。

七月六日朝早く、京都駅で下車し、駅前広場で、我が中隊三百人は、これからの活躍をお互いに祈りながら解散したのであった。

それからは各自それぞれの目的地に向かったが、私と妻子は東海道線経由で北海道への汽車に乗った。舞鶴上陸時に援護局から大人一人につき千円と毛布一枚ずつ貰った。懐かしい日本の風景を車窓に眺めながら聞いた話に驚いた。日本は昨年の大凶作で食料飢饉は極度に達している。そして北海道は最も悪く、二カ月半の食料の欠配だという。(当時物資統制令により、全部配給制度であった)北海道へなんか帰っても食う物がが無い、といわれたが家は農家だからーと心配はしなかった。

途中で駅弁を買ってみて驚いた。異様な臭いで味もひどく、団子状態だった。良くみるといも粕らしい。引揚者の私たちも食べることができないままに、ある駅で車窓からホームへ投げ捨てたものであった。確か名古屋だと思った。するとホームにいた数人の老人子供が奪い合って拾って食べ始めたのである。それを見て食糧危機の話の深刻さを知ったのである。

東京は戦場さながらの焼野原化していた。車窓にこれを見ながら、東北本線に乗って初めて北海道の父母に電報を打った。

「オヤコトモゲンキデ アスカエル シン一」

たしか仙台から乗った若いサラリーマン風の人が、向かいの座席で弁当を開いて食べ始めた。今まで見たこともないしろ光りのするおにぎりであった。恐らく雅彦には見たこともないものであったはずだ。不思議そうに見つめる雅彦と、当然引揚者とわかる私たちの姿に気が付いたように、その一つを雅彦にくれた。おいしそうに食べる雅彦を見ながら、若い人の心に胸のつまる嬉しさを感じた。

青森駅に着いたのは七月七日の夕方であった。連絡船の乗船まで五時間以上もあったので乗船待合所に出てみた。駅付近にはたくさんの仮設の屋台が立ち並んでいた。古びた木材とトタン板で、入り口には莚を下げた屋台であったが、温かい味噌汁、おいしいかまぼこなど新鮮な焼き魚の匂いがプンプンしている。妻はこの匂いの中に「ふるさとだ、北海道の匂いだ、父さん」と思わず大きな声で私に向かって叫んだのであった。私たち親子は妻の言葉につられたように、夢中でカレイの焼魚にかぶりついた。魚の味噌汁もうまかった。長い在満生活の中で、いつも忘れることのできなかったのは、北海道の鮮度のいい魚の味のことであった。雅彦に焼魚の身をほぐしてやりながら妻は「おいしいだろう。これが故郷の味よ」と何度もくり返していた。

翌七月八日、朝早く函館に着いた。撫順で編成した私の中隊で、北海道の人が二十人ほどいた。この人たちともいよいよ別れであった。駅のホームで名残を惜しみ、再起を誓い会った。名簿は大事に保存してあったが、引揚後の三十七年の間に紛失してしまい、今では一人の名前の記憶もない。残念な事である。

私は函館本線札幌行きに乗車した。懐かしい風景を眺めながら、いよいよ故郷の山、羊蹄山が見えてきた。妻は満州で生まれた雅彦に「あのふもとが父さん、母さんの生まれたところだよ」そして「おじいちゃん、おばあちゃんがいるんだよ」と幾度となくいい聞かせていた。

午後一時ころ狩太駅(現在のニセコ駅)ホームに降りたった。昔と変わらぬ駅前風景であった。三キロほどのところに妻の実家があるので、歩くことにしたが、ここ狩太は妻の出身地であるためか、親子三人の乞食姿に気おくれしながら妻の気持ちを察して、人通りの少ない裏道を選んだ。本通りを避けて今の稲林印刷横のガケ道を登るのに閉口したものであった。二年四カ月の雅彦を歩かすにはしのびないので、私のリュックの上に乗っけて歩いた。

元町にある妻の実家の戸を開けたが誰も居ない。表でウロウロ探している間に三百メートルくらい離れた畑から、大声で叫びながら妻の母が走ってくるのが見えた。妻は「母さんだ」と叫んだきり雅彦を抱き締め座り込んだ。そしてただワアーワアーと泣くばかり、近寄る母に取りすがり、子を持つ妻が泣きながら母の胸に、ただわけもなく、辛さ、苦しさ、悲しさを涙で訴え、母の愛情に今の幸せを告げていたのであろう。

気丈な母であった。最も尊敬できる母であった。当時五十五歳であったが、その十年ほど前に夫を亡くした後は、女の手一つで四男四女を育て上げた立派な母であった。

母はさっそくとって置きの白米飯を炊いてくれた。私たちは故郷というより、母の愛情にむせる思いで食べた。今までにこんなにおいしいご飯はなかった。

私の実家はその隣村の真狩村で、この狩太からは十二キロほどあり、交通機関は夏だけ民営のバスが走り、物資は小さな豆汽車による軌道があるだけであった。すっかり落ち着いた気持ちでバスに乗り、真狩の十字街で故郷の地に降りたった。

年老いた父母、そして終戦後に復員した兄も姉も迎えてくれた。父は七十六歳、母は七十歳であった。終戦後音信の途絶えた一年後である。私たち親子揃って帰ることは夢想だにもしなかったことで、ショボショボした目に涙をためて喜んでくれる母であった。

私の電報により、八日朝から汽車の着くたびに、真狩の母と大広のおばあちゃんの心遣いでにぎり飯をたくさん持って大広の義兄が駅まで迎えに来てくれたらしい。私たちは駅に降り、他に三家族ほど撫順からきた引揚者が札幌方面に向かっていたので、汽車が発車するホームで見送っていたため、私たちが改札口に出たころは客は一人もいなかった。迎えに来たものの、この汽車でも帰らなかったと思って立ち去った後らしい。

父母のもとで温かい布団の中で「私の逃亡は完全に成功したんだ」と大声で叫びたい気持ちであった。

●第二部 生きる

引き揚げ後の私の生活

昭和二十一年七月八日、幾多の苦難を乗り越えて、生まれ故郷の父母のもとに帰り着いた私は、一日も早く自活の道を立てなければと考えた。父母がいるとはいえ私は四男坊の立場であった。戦時中、農家を継いでいた兄も招集になり、各地に転戦して終戦後に帰ってきたのであり、従って留守中は兄嫁の手一つで辛うじて営農を続けてきたので貧農状態であった。

九月になってから、春に設立したばかりの製材会社の経理係として職を得、一応生活の基盤ができた。(会社は真狩共栄製材株式会社で社長大西左源太、役員は藤本重吉、大上譲、大谷弥造、小川安太郎、鈴木吾平等のメンバーで支配人は清都勝四郎であった)

翌二十二年三月、当時の澱粉飴ブームに目をつけた有志(製材会社の役員)で設立した製飴会社(社名 真狩製菓株式会社で社長は鈴木吾平)の支配人として招かれ、私はその業務を引き受けた。

物資統制令による当時の世相

札幌の藤屋鉄工所に発注して、酸糖化の製飴設備一切を購入し操業を開始したが、当時としては物資統制令によりすべての物資、即ち日常生活品、食料品一切が配給制で、いかに不足しようともそれに甘んじなければならない。配給以外はヤミ物資であった。農家の生産物はすべて供出を強制されて、僅かに認められた自家保有生産物以外はヤミ物資として摘発された。だが田舎の末端までは容易に官憲の手は届かない。従って農家のヤミ保有物資を狙って札幌、小樽等都市に住む市民が、不足食料の獲得にこの真狩に殺到した。

さらにこれを狙ったヤミ屋が出現し、バスなど交通機関の一切ない山村の奥まで、三里も四里も歩いて死にもの狂いで獲得する時代であった。札幌のこれらヤミ行為を取り締まる高級官僚の奥さんが、高価な衣類を持ち出して食料獲得に来たものであった。せっかく雪道を何里も歩いてやっとの思いで駅に辿り着いた途端に、待ち受けた官憲に全部取り上げられる場も多く見られた。従って段々利口になって、客車を利用せず貨物列車を利用する者も出て来た。石炭貨車などの無蓋車を狙って飛び乗り、トンネルも何のその、一家の食料獲得に必死だった。捕まることを恐れていたら、餓死するのははっきりしていた。

大阪の判事さんが、法により裁く立場上、この統制令に矛盾を感じ、身をもって抗議したのか、法律通り配給のみで生活を続け、遂に餓死したことが大きく新聞に報道されたのもこの年の昭和二十二年であった。

こんな状態の中での製飴会社の発足は大変なことであった。でも私は馬鹿げた矛盾にかえって反発を覚えた。それは警察署長や高級役人には、ヤミ物資が公然のように流れ込み、途中の検問に引っかかってもその名を挙げれば、堂々と通過できたからであった。

さらにこの統制の盲点をついたヤミ商人が続出したものである。これらは役人にコネを用い、あの手この手で正当化し、巨利をむさぼるのであった。

私はこの事態を眺めながら私の育った真狩村、そして死線を越えて帰ってきたこの真狩のためになることをしようと考えた。働ける男はほとんど招集された後で満足な営農ができない。この虐げられた過去から村人が立ち上がるために、私は故郷真狩村のためにヤミをやろう。そこに我が村の将来があろうと考えた。もちろん個人のためではない。

真狩村は開村以来の馬鈴薯の主産地であり、そのほとんどが澱粉に加工されていた。農家の直営する澱粉工場は大小合わせて当時百十工場あった。(後に百七十工場になったが昭和四十一年には合理化のため全工場を閉鎖して、羊蹄合理化澱粉工場の一工場にした。その規模五億円にして当時としては東洋一を誇った)。

統制下であったが、私は製飴原料である澱粉を農家から買いに買いまくった。そして製品化した飴は都市の製菓原料として、主として札幌、小樽に流した。ドラム缶に詰め込んだり、あるいは一斗入りのブリキ缶に詰めて、検問の網を潜り、昭和二十四年八月まで二年余りで、当時の金で一億八千万円の売り上げをした。僅かな人件費と会社の利益以外は、四十キロ一袋約四千円の澱粉代として農家に支払ったわけである。

農家は終戦後の荒屋から立派な二階建の、当時としては近代的な家に変わり始めた。いわゆる飴御殿とも言われたものである。

製飴会社に官憲の目は厳しさを増す

前記の経過からして、当然会社に対して官憲の目は厳しく、その目は公然たるヤミ飴工場の煙突の煙に注がれ始めた。会社では苦肉の策として、物資統制から外れているカボチャ、菊芋から製造した澱粉が主原料であるとしゃにむに正当化しての操業であったが、その原料の入手は皆無であった。隣村の狩太村(現ニセコ町)で小規模製飴業者が、原料澱粉三十袋(四キログラム入り)を買い入れたことについて摘発され、原料売先農家十五軒に三百万円の罰金が科された。

当時、十勝の製飴業者が摘発され、約五千万円に及ぶ罰金がその買い入れ農家に対して科せられたニュースもあった時代である。製飴会社の場合、澱粉買い入れ袋数から押しても、もし摘発されたら少なくとも五千万円に近い罰金が予想され、それは皆、買い入れ農家に科せられる。私は物資統制の矛盾に反発して走り続けたことに、私自身に誤りがあると思いながらも統制違反に敢えて走った。それは、農産物のいずれにしても、すべて供出を強いられたあげく、いかにも正常なルートに乗せられているようでいて、いつの間にか官僚と財界人の手によりヤミ物資に変わって行く実情を知ったからであった。

昭和二十四年八月、会社の製飴一筋の業務に見きりをつけ、社長とも相談し、三次加工に踏み切ることにし、着々とその準備中、私は突然悪質な盲腸炎に罹り、さらに手術後、腹膜炎を併発して約五十日間、小樽病院に入院した。九月中ころに全快、退院したが、五十日を留守にした会社の状況は一変していた。

それは入院前、役員と共にヤミの環境から脱出し、正常な時流にそった農村工業として飛躍するための三次加工計画(キャラメル製造)が、すべて覆され、さらに二次加工の製飴の大幅な設備拡大に取りかかっていたことだ。

私は社長に「今後の経済事情の中で、無謀な策である」と進言したが聞き入れられず、やむなく私はその職を辞した。時は九月二十日であった。(注 この製飴会社はその後の経済の悪化で、翌二十五年七月に倒産した)

私は会社の社宅を出て、別な家を借りて住まった。引き上げ後三年余りであったが、貯えもなく日雇い生活を送りながら、やがて独立するべく決心をし、農業機械商の勉強に入った。

製飴会社に官憲が手入れ

十月一日であった。製飴会社の私の後任者である市野さんが私のところへ駆け込んできた。それは道警本部からヤミ澱粉の買い入れ先の調べが入った、とのことである。私は辞任直後のことであり、さらに支配人としての今までの責任を持つべきであるので、直ちに会社に出向き、取り調べを受けたが、私はヤミ仕入れのことは一切語らず、正規に造られた帳簿による説明しかしなかった。

取調官は高橋巡査部長以下三人であった。一応その日は倶知安に帰ったが、三日に再び来た。そして六日、九日と続けて取り調べに来たが、私は依然としてヤミ澱粉の買い入れ先農家については語らずじまいだった。

しかし私が、取調官に訴え続けたのは「確かに私はヤミ澱粉数千袋(一袋四十キロ)を農家から買い入れたのは事実である。だが買い入れの際に絶対に迷惑をかけない事を約束しての上であるので、私の口から農家名を申し上げることはできない。あなたたち警察官が独自でそうさすべきことであり、私に口を割らそうとしても私は黙秘権を行使するだけである」

もし私がベラベラ実態を吐いたら、一袋に当時一万円の罰金が例であるので、少なくとも五千万円に近い罰金が、それぞれ袋数によって真狩および近郊農家に科せられるからであった。

「わが心の帳簿」と叫んで・・・

手を焼いた道県本部取調官の高橋巡査部長は遂に、私と社長の逮捕令状と家宅捜索令状を取り、それを持って今でも忘れない十月十二日午前十一時ごろ、当時の村長田畑元、社長鈴木吾平を、いその旅館に呼び出し、その立ち会いの中で、最終的に私からヤミ摘発強行手段に出てきたのであった。

私にもこの旨の呼び出しがあった。「最後だな、結果的には逮捕されるだろう。でも仕方がない」観念しつつも私が負けたら、生産農家は壊滅的打撃をこうむるだろう。何としてでも、私はどうなっても良い、私は約束した農家の方々に私の心情を分かってもらいたい。それには与太者といわれても仕方ないが、小指を切ることだ。切った小指で私の責任を認めてもらうよりほかに方法がない。セッパ詰まった人間の戸惑い心の中に、そして責任感の前に、意味も何もない動作が生まれたのであった。窮鼠猫を噛むというが私は噛むすべがなかった。

五千万円に近い罰金が私の一言で全農家に科せられるんだ・・・そんなことは絶対にできない。しからばどうするんだ。迷いに迷い、考えに考えるほど私の胸は錯乱するばかりであった。半ば冷静に、しかし反面自暴的に、私の指で農家に謝罪しようとの思いのみであった。私は妻に「いその旅館に行くが、もし逮捕されても心配するな」と言い残して家を出た。妻は臨月の腹を抱えて心配そうに見送っていた。

いその旅館には行かず真っ直ぐに製材会社の貯木場に行き、側にある木工加工場を覗いたところ昼休みで誰も居なかったので、道具箱から幅の広いノミと金槌を持ち出した。貯木場の丸太の陰で小指を一気に切り落とそうと構えたが、もし血が吹きだしたらなどと考え、大急ぎで事務所へ行き包帯とゴムバンドを持ち出して、再び丸太のところにきた。

左手小指の根元に、ゴムバンドを止血のため幾重ににも巻きつけて、ノミを取り上げたが、先ほどの気持ちのように一気にノミを指の上に振り下ろす事ができなかった。焦る心と反対に、切り落とした後のことを考えると、どうしても振り下ろす事ができなかった。

丁度その時、離れた道路を大場君が通りかかったので、とっさに呼んで、幅広のノミを左手小指の中ほどに右手をあてがい、ノミの頭を一撃するよう頼んだ。彼は一瞬ためらった様子であったが、私の真剣な顔に気おされたのであろう。

彼の振り下ろした金槌がノミの頭を叩いた。にぶい音とともに私の左手小指が中ほどからブツンともげて飛んだ。血はバンドの止血効果でちょっとにじんだほどであった。

すぐ指に包帯を巻いて、切り落とした指を新聞紙にくるんでポケットにねじ込んだ。包帯姿の左手には、登山帽をすっぽりとかけて、胸のボタンを外し、懐手のような感じで、警察の待っているいその旅館に急いだ。どうにでもなれと半ばさばさばした思いであった。だが止血バンドが強すぎて左手が痛み出した。

いその旅館には村長の田端さんと、社長の鈴木さん、それに旅館主の清都さんが高橋巡査部長以下三人の警察官とともに私を待っていた。

入るなり私に向かって高橋部長は「もうこれで最後だよ、あっさり澱粉の買い入れ農家を自白してほしい。さもなくば大変なことになるよ・・・」

私は「ハイ」と答えポケットから新聞紙の包みを取り出した。その時、左手は包帯が見えないように無造作に登山帽をかぶせたままであった。警官は一握りくらいの新聞包みを私から取り上げた。多分メモ書きでもしてあるんだと勘違いをしたらしい。直ちにその包みを開こうとした部長に私は「ちょっと待て、それを開く前に私の話を聞いてくれ」と頼み込んだ。そして警官に向かって

「私は何回も貴方に調べられたが、私の言えないことに対して大変御迷惑をかけております。言えないことは言えないのです。この包みは皆様におわびのためです。そして私の心の帳簿です。十分にご覧下さい」

警官はこれを聞くとともに包みを開いた。中から私の小指が転がり出た。

田端村長は私の顔を眺めながら顔がゆがんだ。鈴木社長は一呼吸置いてから、私の右手を取り上げ大声で「大平君すまん」と叫びながら泣き出した。

黙って小指を見、それからじいっと私の顔を眺めていた高橋部長は、一瞬その対応に戸惑ったらしい。私は正座したままであった。

「これが君の心の帳簿か・・・」

「君は与太者なのか・・・」

の二つの言葉であった。

私は黙っていた。しばらくして高橋部長は、「痛むだろう、早く帰って手当てをしろ・・・」と言った。後で聞いたことであったが、高橋部長は瞬間的にむっとしたようであったが、『戦後の混乱の中で、ヤミなくしてだれ一人生活ができないのに、統制令が現存する矛盾だらけだ。いかにヤミ行為とはいえ、他人に対する責任行動をここまで取る男は恐らく他にいないだろう。この矛盾と責任感の前に私は操作をすることができない』と言って直ちに本署に帰り、さっさと警官の職を辞めたらしい。

その後取り調べもなく過ごしたが、私の指が治ったころの十二月初めであった。倶知安地区警の署長に呼び出されて「捜査上の行き過ぎもあり、君に小指を切らしたことは申し訳ない」と謝罪の意を表してくれた。そして統制令も徐々に緩和されつつあるので「この件はヤミに葬る」と署長が直接、大束の関係書類を石炭ストーブに投げ込んだ。

メラメラ燃える炎を見ながら、私はただ何となくこみ上げてくる涙にむせんだ。

これで終わったんだ・・・すべてが終わったんだ・・・。

だれにも迷惑をかけずに終わったんだ・・・と長い間、この苦しみにさいなまれた私の胸に何度も、何度も言い聞かせていた。

だが私の責任感をくんでくれた警察官の温情に、心から手を合わせながらこのことは絶対他人に話をしまいと決心した。そして間もなく物資統制令は解除されたのであった。

それから三十四年を経たが、この小さな真狩村でも、その時代と、そのことを知る人はもうほとんどいない。

著者略歴

大正5年9月21日 真狩村にて農家の四男としてうまれる
昭和9年      札幌酪農義塾酪農科卒業、同年真狩村農会技手補
昭和12年2月    徴兵にて満州独立守備隊入隊
昭和20年8月    終戦後、ソ聯軍の捕虜となる
昭和21年7月    引揚船にて帰国
昭和22年      真狩製菓株式会社支配人
昭和25年      農機具販売業(ロイヤル農機商会)創設
昭和40年      真狩村議会議員





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