教養と勉強について

知識の外部化によって、教養とされるものが必要なくなっていくのではないか?という問いについて、考察したい。

「教養」はただ知識として得られれば良いものではないと感じる。「一般常識」とは多くの人々の脳内に存在する共通項で、その情報が双方に共通して存在することでコミュニケーションが円滑に行われるものだ。

教養もそれに似た性質をもつ。しかし、一般常識とやや異なる点として、知識の運用までもが「教養」に含まれるのではないか。

例えば、誰かと会話をしていてある状況を思い起こしたとき、

「それって○○○○(適当な四字熟語やことわざ)だよね~」
(ちょっと気持ち悪いひとだな…)

と話すとする。
その○○○○を瞬時に思い出し、適切に運用できる機転が話者にあることが評価される。
反対に、その○○○○についての知識だけがあっても、適切に、瞬時に運用しうる能力がなければ教養があるとは言えないだろう。

このことから、「知識の外部化」は教養のもつ「コミュニケーションを高度に円滑化する性質」までは奪えない。コミュニケーションの本髄ともいえる部分は、多少のアレンジを含めた、知識の適切な運用が支えているという事を言いたい。

仮にもし脳が直接インターネットや電子辞書にアクセスできて、刹那に情報を入手できるようになっても、それだけではコミュニケーションがうまくなることはないだろう。

ある程度の「教養」はその運用によってコミュニケーションのなかで発生する名刺交換のような役割を果たす。それをふまえると、やはり「知識の外部化」によって「ネットですぐに調べられるから勉強しなくてもいいや」という考えは正当化されることはないだろう。

知識を持ち、それを運用しうるためには学び続ける必要がありそうだ。そう自戒する。

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