いつかの激・感情 罪の意識

以前、もうちょい情緒が不安定だった時にどういう気持ちかメモしてたやつが出てきたので載せちゃお〜という魂胆 激キモですよ

全員隣人、全員青い芝

インターネットの発達により人類総隣人化計画が着実に進行している 隣人への愛が溢れると共にみんな青い芝に見えるこの頃
今までなら比較される土俵にも上がらなかった、万年ベンチの私という存在が誰かの隣人という枠組みにはめられてマウンドに立たされる感じ

第三者の目だったり、客観的に評価・描写されていく私の表面と内部の自己との齟齬だったり、誰かを悲しませたり誰かに苦労させたりだとか

罪の意識が留まるところを知らず 表面の私が内部の自己を裁き、内部の自己が表面の私を裁き、誰も許せない/許されないまま心に疲労が溜まっていくというか

今まで泣きながらでもご飯を食べてむせたり 味がわからなくなりながらも食べてきたのに一ミリも食べる気にならない

意味わかんねえ人間

考え事をしたり苦しんだり喜んだりしている多くの人間が私と同じ瞬間に今も生きているということ、当たり前に知っているはずなのに、思いを馳せるといきなりのスケールのデカさに圧倒されてしまう

そして誰かと対面した時、そのスケールのでかいバックグラウンドに勝手に責められている気持ちになってしまう

私というペーペーの気遣いも想像も超えた人生がその人の後ろからこっちを見ている

わたしたちって本当は何一つ分かち合えないのかもしれない 私があなたのことで知ってることなんて、あなたの感じたこと、選んだもの、捨てたもの、全ての瞬間を含んだあなたの人生の中で本当にかすかなものでしかない それなのにどうしてあなたの瞬間をひっくるめた全てを愛するなんて、寄り添うなんて言えるだろうか

それでもそのたくさんの瞬間の中から、私に伝えようと選ばれたあなたの瞬間、それの背後の人生、その瞬間しか認知できない私は、想像もできない人生に向けられなかった分をその瞬間に向けるしかないのか

こんなところまで考えすぎずに適度に知らないで生きるのがきっと重要で楽しく生きるコツなんだろうなと思いながらも毎日考えすぎてしまう人間 私

自己愛が最高に強いのに自己肯定感が低いチグハグさを自覚しているし

懺悔させて

自分の悲劇的な境遇については誰にでも話せるが、自分が加害してきたことについて反省したくとも誰にも話せない。突き詰めれば、誰かを悪者にすることはできるのに自らを悪者にする勇気が出ない。一番身近な人にも言えていないし家族にも言えていないことがたくさんある。じゃあ最後まで隠し通せば良いものの、その汚い部分を隠して好かれているふうな自分がちょっとキモいなと思ってしまう のに、まだ言う勇気が出ないでいる。

懺悔室ってそういう点では本当に素晴らしいシステムやなと思う。こういうことを考えていて、お寺やらで聞き届けてくれるところがあるのか調べまくっており、すごく閑散としたお寺で仏様の前でひざまづいて懺悔したいとまで思っている しかし 身近な人に全てを伝えないとこの悩みがなくならないのではないかとも思う。身近で嫌われたくない人にこそ汚い部分を晒して然るべきなのではないかと

許されたい、この人に全てを知ってほしいという欲求は大変なんだか気持ち悪いなと書いてて思ってきた。気持ち悪いな。その人が全てを受け止めなければならない理由など私が知ってほしいということ以外にないのだが 押し付けとか自分勝手ということを認めた上で我儘に振る舞うことができるのが私の美点でもあるが、それにだって程度はあるよな 許されないラインがある

普段から道徳倫理について、また性的なものについてやや潔癖な私がそういう我儘を言うと何様?と思われるかもしれないがそんなことは承知している 二律背反上等人生なので、矛盾だ~と言われようがどうしようもない。誰が言ってるかじゃなくて何を言ってるかで判断しなさいと言われても無理があるでしょ 身内からの指摘と第三者からの指摘はもうその時点で別の文脈を背負っているのだから、誰という情報でさえ何に含まれていく そう思いませんか

何が言いたいのか、書いているうちにあっちこっち行ってしまって本当に良くない

要するに私は自分勝手にも自分が大事にしたいと思っている第三者に対して私自身の汚さを披露し、その上でまだ一緒にいてほしいと望んでいる なんと言うことでしょう そんな義務は誰にもないのに

自分の被害を話せるのに加害を話せないから、被害の経験の悲しい気持ちとかはだんだん昇華されていくが、ずっと加害の意識が頭から離れないでいる つまるところ他人に加害しておきながら加害したことで芽生えた罪悪感や謝罪欲、どうして償っていくべきかという葛藤から逃げようとしていることに他ならない 背負っていくべきなのではないか?
謝ることをその人が求めていないかもしれないし 会いたくないかもしれないし 全然気に留めていなくて私が勝手に気にしすぎてるだけかもしれないし 他者への加害というよりはただ単に私という人間の倫理観の欠如から生まれた行動についてもどうすれば良いかわからない

全て清濁合わせ飲んだ上で生きていくべきなのか?世の中の人間強すぎんだろ 考えすぎなのはわかっているが、懺悔したい。

懺悔したいと思っていることは許されたいと思っていることで、
許されたいということは行ったことの罪悪感といった当然の報いから逃げ出そうとしていることに当てはまってしまう?

結局苦しみ続ける人生が一番いいってまた気づいちゃったね 重ねる加害とともに生きていくには苦しむしかない 人生は苦しみの中にある 苦しむ私、最高


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