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悟性と直感の間にあるもの:2023年6月18日時点の意味づけ

何か一冊本を、と言われ、手帳を開いた。
私にとって手帳は、自分の分身のようなものだ。
一日の時間の使い方と、何に触れて何を感じたかが記されている。
内容からはもちろん、書かれている文字の乱れ具合や突如現れる長い空欄から当時の感情の起伏や体調が思い起こされる。


2021年3月20日 土井先生の本購入
2021年3月22日「一汁一菜でよいという提案」読了。「感じやすい」ことは悪いことじゃない。

この直後から、バーチカルタイプの手帳の左端の空欄に、
「今日のお味噌汁」という欄が出現する。そしてしばらくするとその欄は消える。

2021年4月25日 …これから先のことを考えるうえで、悟性と直感(本能)の交差するところにどれだけ敏感になれるか、従えるか、自分を試す1年になりそうです。…




人と関わる中で、組織と関わる中で、社会と関わる中で、
大量の情報が、わっと押し寄せてくる。

触れてみたい
聞いてみたい
見てみたい
食べてみたい
やってみたい

これらの気持ちの一つ一つは、果たして私の本心か。何かにそう思わされているのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そもそも本心ってなんだ。

何か社会のシステムに飲み込まれている感じがする。
自分の取り組みや存在そのものにラベルが貼られ、消費されている感じがする。

それだからといってそれらを放棄することは現実的ではない。このシステムとの付き合い方を大切に考えたいとも思う。

揺るがないもの、普遍的なものを求めていた。
何か疑いなく、心労なく、安心できる場所はないものだろうか。


味噌や漬物という自然物は、人間の中にある自然、もしくは、自然の中に生かされる人間とであれば、無理なくつながることができるのです。(中略)私たちは、自然の景色を見て美しいと感じ、それは何度見ても見飽きることはありません。そのダイナミックな変化に感動することもあるでしょう。自然は自然とよくなじむ、このことを心地よいと感じます。その心地よさに従って、命を育んできたのです。

土井善晴,『一汁一菜でよいという提案』,13頁

何を信じたらよいか分からない。頭を使えば使うほど分からない。
そんなときは、身体に聞いてみることにする。
お湯を沸かしてお味噌をとけば、身体に耳を澄ませる習慣がついていく。
少しずつ、何を美しいと思うのか、何が自分に馴染みよいかを会得されているような気がする。


今日はまだお味噌汁をつくっていない。
でも今晩つくるかもしれないし、明日つくるかもしれない。
いつの間にかつくっているだろう。

どこまでも安心の場であるし、
暗黙の存在を思い起こさせる拠点でありつづけるだろう。

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