学ぶには必要性があり、真似ぶ先に個性がある

ここ最近、中卒や高卒で働き始めた人たちと話す機会が増えました。私は一応大卒なので学歴だけを見れば勉強していた期間が中卒や高卒の人たちと比較すれば長いわけです。それもあって「俺と違って頭いいから〜」とか「俺はバカだから〜」みたいな前置きがあって話されることが出てきて、その度に「そうじゃないんだよなぁ」と思いながら対応しています。

結局のところ、勉強や仕事に必要な知識を頭に入れるといったことは「必要性がある」と感じたものであれば覚えるものなんですよね。もちろん、勉強や仕事ではなく、趣味や遊びなんかを想像して貰えればわかると思いますが、「勉強できない」「頭悪い」と自分で思っている人たちであってもめちゃくちゃ詳しく調べていたり、その知識をちゃんと頭の中に蓄積できています。先ほどの中卒や高卒の人たちでいえば、学歴というもので見たら「必要性がなくて」勉強に頭を使わなかっただけなんです。

実際、例えば格闘技をやっていた人であれば技に対する知識などはもちろん、体の仕組みや弱点などに関する知識が凄い。そして、体を鍛える過程で必要だと判断したと思うのですが、栄養学的な知識もよく知っています。体を鍛える方向が中心なので、栄養学全般から見れば知っている領域が偏っている面はありますけど、それでも知識としては十分持っているわけです。

別の人は趣味が釣りのようで、釣りに関する知識を増やしています。私自身が釣りをしないので知識レベルの程度はわかりませんが、釣具や釣り場の知識を釣り仲間と共有しながら増やしているし、海釣りや川釣りがしたくて船舶免許を取りに行って船の運転をしながら釣りをしています。船釣りを始めてからも、最初は漁場がよくわからなくてまったく釣れなかった経験をしたことで今度はどうすれば釣れる場所を見つけられるのかを調べています。

それ以外にも同様にめちゃくちゃ頭を使って生きてるよねって話はあるのですが、上の2つだけでも学歴とか関係なくみんな頭を使って生きていて、「頭悪い」と自分で言っている人であっても日々生きる中で知識を蓄えていることがわかります。

その点、私の場合は高校や大学へ進学することが目的になったこともあって、勉強する必要性が高く、必要性が高いから実際に勉強をしました。そういう意味で、勉強をするという点では必要性に差があったため差は出たと思います。

また、仕事柄世の中の動きや新しい製品/サービスを始めとする経済活動に関する知識がお金につながることから、それらの知識を持つ必要性が高くなっています。その点でいえば、世の中のニュースになるようなことに対する知識を収集することを、話をしている中卒や高卒の人たちと比べて多くやっているので知識量は多いでしょう。なんとなく、ニュースになるようなことを知っている方が頭良さそうに見えるからってことで「自分より賢い人」だと判断しているだけで、領域としてはまったく別の領域で比較しているだけなんですよね。

仕事などで私と同じような知識が必要になれば覚えていくでしょうし、継続して情報収集していけばその知識でお金を取ることもできるようになるでしょう。現時点ではそのような知識を必要としていないから頭を使わないだけであって、必要になれば頭を使うことになりますからね。

少し長々と書きましたが、上記のような考え方を私はしているので「頭が悪い」と自分で言う人に対しては「必要になって、やる気さえ出せばなんとかなるもんですよ」という趣旨のことを伝えるようにしています。もちろん、そんな上から目線な発言を常にするわけではなくて、そういう雰囲気になった時の話ですけどね。

ま、偉そうにこの話を締めるとするならば…

「必要だと思わない限りは学ばないし、必要だと思えば学ぶもんですよ、人間って」

というところでしょうか。

さて、タイトルには「真似ぶ先に個性がある」と続きをつけていますよね。その話も書いておきます。

「個性」ってことがいつの時からか大事なものとして扱われる雰囲気が出てきていて、なんとか自分の個性ってものを発揮しようとする人を見てきました。

それにしても「個性」ってのはなんなんでしょうかね。正直なところを言えば今でも「個性」がどういうものなのかわかりません。自分の個性的なところを言え!と言われても「特にない」としか答えられない自信があります(笑)
そんな自分がなんとか捻り出して「こういうところが個性かな?」と思える部分についての話です。

先ほど書いていた話が「学ぶには必要性があり」のところなのですが、個性に関するところは「学ぶ」ではなく「真似ぶ」にあえて変えています。「学ぶ」ことってのは人類が過去多くの発見や成功/失敗を繰り返してきて得た知識を効率よく頭に入れるものだと私は考えています。そして、その行為はそれら知識の中において成功したもの(確立したもの)を真似ることでもあるのではないでしょうか。

既存の常識をぶち破れるだけの才能を持っている人もいて、そういう人たちはいきなり自分の個性を発揮できるのかもしれませんが、私なんかはとりあえず良いと思ったもの(成功したもの)を真似るところから始めるようにしています。良いものを真似て、真似て、真似て…と繰り返していくに従って自分が同じことを実現できるまでに持っていくのです。

すると、そのやり方では通用しないものが出てくるわけです。その通用しないものに対応するための方策をまた見つけては真似ます。この作業を繰り返し行なっていくと自分がとってきた行動の中からうまく組み合わせられるものであったり、既存のやり方に変化をつけることでうまく回ったりするものが出てくるんですよね。

そういったものが現れてくることで自分に「個性」というものが宿るのではないかと思っています。もちろん、世界は広いし人類の歴史は長いのでどこかしらで自分と同じ言動をしている(していた)人はいるかもしれませんけど、自分自身の活動範囲だけで見れば「○○さんの考えかたって凄い」といったように個人への評価につながるケースって出てくると思うんですよね。

そして、当然「学ぶ」「真似ぶ」という行為を繰り返してきたことによって、いわゆる常識的なことも自然と身についているので変人扱いされるリスクも減ります(笑)

「個性」とか「独創性」みたいなものを意識するあまり、常識から外れたものを実現すれば良いといった考え方になってしまう人もいるようですが、人間ってのは社会生活を営めなければ個性があってもなかなか成功しませんし、常識は持っているに越したことはありませんので。

「常識的な動きも取れるけど、そこに自分なりの変化をつけられる」

そういった「個性」の出しかたをするのが、私を含めて多くの人にとって最適な方法なんじゃないかと思っています。ということで、「真似ぶ」ことを繰り返した先に「個性」が出せる場が用意されるものだと思い、「真似ぶ」ことを軽んじないのが良いと個人的には思っています。

noteもROM専ではなく少しは発信した方が良いかと思い記事投稿を始めました。少しでもお役に立てたら幸いです。