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本当の忠誠心とは

お客様にせよ、上司にせよ、家族にせよ、相手に忠誠を尽くすということはどんなことかをよく考える。

通常は、極端に言えば「言いなりになる」ことが忠誠心と解されている。

しかし、顕在的に望んでいることをそのまましてあげるのは、必ずしも相手を利さない。

人は自分の思いのすべてを認識できているわけではないということがある。自分の内なる動機に、しばらくたってから気付くということはよくある話だ。

動機が意識に上り顕在化するためには、その動機がある程度の社会的望ましさを満たしている必要がある。社会的になかなか認められない衝動が自分の中に存在していることを容易く承認できる人は少ない。「僕はあいつに嫉妬している」とはなかなか言えない。

そういう「隠れた動機」に目を向けることなく、社会的望ましさのフィルターを通して無害化された要求だけに応えても、結局は相手の満足を引き出すことはないだろう。

また、「良薬は口に苦し」ということだ。その人にとって本当にためになることは、その人がなかなか改善できなかったことであることが多い。

すぐできるなら、とうの昔に改善されている。「わかっちゃいるけどやめられない」ことこそが誰かの助けを借りてでも取り除くべきことである。

しかし、そこを助けてあげるのは、とても勇気がいることだ。なにせ本人もわかっているのだから、改善を指摘されても愉快なはずがない。もっと言えば、そんなことを指摘してくる人には怒りや憎しみさえ抱くかもしれない。

そういうシチュエーションにも関わらず、相手に嫌われるリスクも冒してでも、相手のために良かれと思って何かをしてあげるという自己犠牲的精神こそが、僕は「忠誠心」であると思う。

中国の古典の中の言葉で「逆命利君」という言葉がある。命令に背いてでも、君主を利する行動を取ると言う意味だ。

昔であれば、命に背けば嫌われるというレベルでなく本当に首が飛ぶかもしれなかったであろう。それにも関わらず、わかってもらえないとしても、忠誠を尽くす相手のために行動するというのはなんと崇高なことだろうと思う。

繰り返すが、忠誠心とは、相手の言いなりになることではなく、相手のためになると思うことを真摯に行うことである。

そのためには表面的には相手の意にそぐわないこともしなければならない。生きているうちに分かってくれることもないかもしれない。それでもやるのが本当の忠誠心だろう。

自戒の念を込めて言うが、この世にはなんと多くの「忠臣面」した輩が多いことか。そういう人達のことを「面従腹背」と言うのだろう。顔ではニコニコ相手に従っているようでも、腹の中では舌を出している。

自分が「この人こそは」と思う人がいるのであれば、「面従腹背」ではなく「逆命利君」でいきたいものだ。

そういう勇気を持ちたい。

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