_アマガサ_

【小説】水性花火 ~雨が降ったら~

序章:積雨

『別れる男に、花の名を1つ教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます』
 村上春樹だったか川端康成だったかの小説に出てきた言葉。この一節をあのヒトに、本でこれこれこんなことを読んだよ、みたいなノリでそれとなく伝えたことがあった。別段僕は当時あのヒトと別れるつもりなんてなかったし、あのヒトだって別れる前提で僕と付き合っていたということはなかったように思う。でも僕がその一節を漏らしたとき、あのヒトは屈託ない笑顔で躊躇いもせずこう言った。
『花かぁ!じゃあ花火!花火を見たら私を思い出してね!』
 浴衣姿の彼女が提灯のさらに上を指したとき、ちょうど夜空に大輪の花が咲き誇った。桜色の光は夜空から、水面から、あたりの闇を音を立てて塗り替えるように世界を照らし出した。その光景はまるで一枚絵のように幻想的に僕の頭に焼き付いた。そんなことがあってから、僕は花火が苦手だ。
 しばらくして僕とあのヒトとの交際は終わりを迎えた。当時は永遠に続くように思えたものの、いま冷静に考えてみると中学生の恋愛が永遠に続くケースなんてレア中のレアケース。むしろ二年続いたのは統計的に見れば長持ちしたほうだろう。
 けれど、それだけ長く好意を抱いていたこともあって当時は壮絶なショックを受けて死にそうなくらい落ち込んだし、実際学校を一か月だか二か月だか休んだ。心のコンディションが極限まで悪い状態が続いていて、最悪本当に自殺していたかもしれなかった。『不登校は不幸ではないというけれど、あの頃の僕は明らかに不幸せだったし塞ぎ込んでいた。死ななかったのは正しかったけれど。
 今でもちょっぴり未練は残っていて、残念ながら花火をみるとその古傷ははっきりと僕を痛めつける。夏祭りとか花火大会とかの本物の花火だけが対象ならいいんだけど、ポスターとかのイラスト、誰かが「花火大会がね~」みたいなことを言っているのを聞いたときでさえ胸の奥が締め付けられるような感覚が蘇るのだ。
 だいたい、あのヒトのほうからフっておいて忘れられないような呪いをかけるなんておかしくないか?川端康成の小説も男に女がフラれるときの描写だったはずなんだが。
 それに、なんで『花』で『花火』が出てくるんだよ。僕だって横文字がズラズラ並ぶような洒落た花は知らないけれど。こうしてあのヒトへの愚痴は尽きることがない。それでも僕はあの時のことを忘れられることができず、こうして縁日へ出かけては精神的外傷をなぞっている。


第1章:陰雨

『次は、鯉城池、鯉城池でございます――』
 二十三時の暗闇と降り注ぐ天からの雨が、一層車内の静けさを引き立てる。この時間は学校や会社帰りの人の数も減り、車内の座席にもちらほらと空きがみられる。きっとその中でも僕は異彩を放っているんだろうな。黒の浴衣姿で終電に揺られる僕は前の席の乗客たちがちらちら視線を送ってきていることに気づいていた。確かにこの近辺では今日夏祭りはなかったし、あったとしても車窓から見えるこの雨で中止、乃至は延期になっていると考えるのがごく自然だろう。しかし、別に周囲の人からおかしな目で見られようと一向に構わない。ただ少々、いや大分退屈してきたところであって、何か紛らわせるものはないかと考えつつ手元の携帯に目を落とすだけである。
空が光った。雷だな。目を閉じて雷鳴が鳴るまでの時間を数える。いち、に、さん、…………。
 が、電車の走行音に紛れてうまく聞き取れなかった。大体四秒くらいだろうと当たりをつけると、音の速度が秒速三四〇メートルだから、
「一三六〇」
 目の前に座っていた学生らしき男子がそう呟く。同じことを考えてたんだろう。しかして電車はずっと進み続けている。それ故に雷落下地点からの距離を出したところで現時点ですでにどこかわからなくなるくらいには距離が開いてしまっている。すべては無意味だ。
『まもなく、鯉城池、鯉城池です――』
 電車がホームに入る。音を立ててドアが開くと、予想以上に大きい雨の音が入ってきた。これは大雨。自転車通勤の皆さんは大変だろうな。
 それなりに明るいホームへ社内のほとんどの人が下りていく。ここから先は本当に田舎の山付近の過疎が進行した駅しかない。大体の人が下りるだろうなとは思っていたが、この車内には僕しかいなくなってしまった。
「まあそれも一興か」
 誰もいないことをいいことに声に出してそんなことを呟き、伸びをする。湿気と少しの寒さが閉まる扉で外界と遮断され、一人だけの車内に静寂が訪れる。ところがおかしなことに電車が一向に動く気配がない。ドアも締まっているしホームに降りた人たちもほとんどいなくなってしまった。いったいどうしたというのだろう。
『誠に申し訳ありません、雨の影響でこれより先の電車の運行が危険で困難であると判断したため、一時的に運行を取りやめます――雨が弱まり次第運行再開予定です――ご乗車の皆さまには大変申し訳ありません――』
 ぷしゅー、とドアが開いた。
「うそだろ……」
 呆然としつつホームに降りる。ざんざんと降り注ぐ雨が一層の無力感を掻き立てる。ホームの椅子は風で軌道が曲がった雨が降りこんだのだろう、水滴で濡れていた。できるだけ濡れが少ないところを見繕って、手で乱雑に水滴を拭う。そこに座って、一体これからどうしようかと考えた。

「ねえ、隣いい?」
 携帯に目を落としていると頭上から声がかけられた。見ると髪を後ろで束ねた女の子だった。そして驚くべきことに浴衣を着ている。この辺りでは夏祭りなんてないはずなんだが。
 そういった事情が気になったのと特段拒否する理由もなかったので、頷いて肯定の意を伝える。するとその女の子は僕の隣に座ったのち、文庫本を開いて目を落とす。そのまま僕に話しかけてきた。
「雨、すごいことになってきたね」
「ああ、記録的豪雨らしいよ」
「そうなの?」
「さっき携帯の天気予報で見た」
「そういうことね。毎年この時期はなかなかの雨が降ってるけど、やっぱり今年は大雨なんだよね。異常気象だなぁ」
「ネットによると去年も同じくらいには降ったらしいし、ここ数年の天気がおかしいんだろうな。やっぱり」
「んーとそうだったっけ?覚えてないや」
 彼女はここら辺の住民なんだろうか?口ぶりからするとここらの地域の風土を割と知ってそうではある。
「電車、これ動くかなぁ」
「動いてくれないと困るんだが、如何せん記録的豪雨だから」
 そして閑話休題。気になっていたことを聞いてみるとする。
「今日どっかで夏祭りがあったのか?」
「うん、奏寺の近くであったんだ」
 奏寺駅といえばここから二時間ほど電車でかかる場所。なるほど確かに其処だったらこの雨の影響も受けてはいないだろう。この近辺が雨が多いのはこのすぐ先にある大きな山に雲がぶつかって停滞してしまうせいなので、それなりに距離を置いた地点ではからっとと晴れていることも不思議ではない。
「でも油断したなぁ、電車が止まるくらい降るなんて。それよりキミこそどうして浴衣なの?てっきり私と同じく奏寺のお祭り帰りかと思ったんだけど」
「僕は品実原の祭りの帰りだ」
 そういうと彼女はやや驚いたようだった。
「えっ!品実原⁉あそこってだいぶ遠くなかったっけ?」
「ここ鯉城池だから……ここからだと大体三時間ほどかかるな」
「品実原ってお祭りあったんだ」
「ぼちぼち有名な方だと思うぞ。人が超ごった返して祭りどころじゃなかったけど」
「あっ!でも聞いたことあるかも!友達とかが前に言ってた気がする。確か花火上がるんでしょ?普通のまるいやつだけじゃなくて絵柄とか文字とかが浮かび上がるやつ!ハート形の花火の写真、友達に見せてもらったよ」
 しまった、墓穴を掘ってしまった。僕の中を元彼女の顔が横切る。僕は花火に軽度の精神的外傷を抱えているせいであまりじっくりとは見ていない。だから花火についての話を他人と共有できない。かといって、そのことを説明するのは……なんだ、格好がつかない。うまくやり過ごせればいいが……。
「今年もいろいろ上がったみたいだよ」
「どんなだった?」
 そんなこと聞かれても、
「さぁ。僕はあんまり見てないから」
 彼女はきょとんとした顔になって聞いてきた。
「なんで?花火大会なのに?」
 確かに夏祭りとしてではなく「品実原花火大会」と銘打っているから彼女の疑問はもっともだ。しかし上手い返しを思い出せず、
「いや、まあいろいろあって……」
 曖昧にしようと口ごもるしかなかった。
「そうなん?」
 納得いっていない様子だ。そのせいか雑に本音がこぼれてしまった。「僕、花火あんまり好きじゃないから……」
 小声で言ったのだが、しっかり彼女には聞こえていたらしい。
「それってどういう――」
『お客様へお知らせします――現在停車中の電車――』
 ことだ?と、彼女が続ける前に電車のアナウンスが入った。助かっ――
『――便は、豪雨の影響で再開のめどが立たないため、本日中の運休を取りやめます――お客様には多大なご迷惑を――』
――ていなかった。これは酷い。
「えぇ⁉運行中止?」
「つまりここで夜を越せと」
 アナウンスを最後まで聞くと、どうやらとりあえず終電はここで運航停止、雨が弱まっているようであれば始発から通常運転へ戻るらしい。
「ここで時間潰すか?」
「ねぇ今なんじ?」
 携帯をつけるともう零時を回っていた。
「えーっと始発は……五時半だって」
「五時間もここにいないといけないのか……」
 とりあえず親に連絡するといって席を立つ電話をすると親は半分寝ていたようで、むにゃむにゃ言いながらも、気をつけろだの、朝になっても運航再開しなかったら車で迎えに行ってやるからまた連絡しろだの言ってくれた。戻ると、彼女は変わらず文庫本を手にしていた。
「親には連絡したのか?」
「してないよ。私、携帯持ってないもん」
「……じゃあよかったら使うか?」
 そういって僕の携帯を差し出す。彼女はスマートフォンに不慣れなようで使い方をぼちぼち教えつつ、電話をかけさせた。
「……あれ、なにも言わないよ。画面真っ暗だし」
「つながってる途中なんじゃないか?耳に付けてると画面は消える仕様だし」
 そう思って待ってみたが、
「やっぱりだめみたいだよ」
「ええ?なんでだ」
 そう思って彼女に携帯を返してもらった。ボタンを押しても確かに画面がつかない。そして電源を長押しすると……無情にも電池マークが充電が切れたことを示していた。
「あーごめん、電池切れだわ」
「そっか。まあ多分大丈夫だよ。ウチの両親多分寝てるし」
「まあ大丈夫そうならいいんだが」
 確かに電車の中で三時間ほど音楽を聴いていたし、エアコンの冷気に晒されて電池がいっぱい飛んでたのかもしれない仕方ない。しかしここから六時間ほど、どうやって時間を潰そうか。

「ねぇキミ、まだ名前を聞いてなかったね」
 ぱたんと読んでいた文庫本を閉じ、彼女は僕にそう問いかけてきた。
「閑籠。閑籠善って名前だ」
「へぇ偶然!私のはシズカ」
 シズカというのは下の名前だろう。奇妙な偶然。もし僕と結婚したらシズカゴシズカか。語呂、悪いな。
「閑籠くん、よければあそこで時間潰さない?」
 ホームの柵からのぞける駅前に、ポツンと全国的にも有名なファミリーレストランの看板が見えた。シズカが指さしたのはあの店だろう。雨のせいで見通しが悪いのもあるんだろうが、やはり田舎である所為か、それ以外の明かりの灯った建物が見当たらない。ほんとに駅前か?
「そうしようか。さすがにここは蒸し暑い」
「だよね。それに……」
 シズカは線路を渡す連絡通路の階段を数段上ったのち、振り向いて返事に困ることを言ってきた。
「ちょっと閑籠くんと、喋ってみたいなって思って」


第2章:宿雨

「うわっ」
「ひゃー」
 素っ頓狂な声を上げならシズカと僕は駅からファミレスまで走る。あいにく二人とも傘を持っていない。改札を抜けると予想以上に雨足が強くなっていて、距離がほとんど無いにもかかわらず、結構濡れてしまう。
 ファミレスに入ると、外の世界とは遮断されたかのような平穏な世界が広がっている。照明の明るさと警戒に流れる音楽は、小さく聞こえてくる雨音すらも雰囲気づくりに貢献させていた。店内は冷房がよく効いていて、ひょっとしたら風邪をひくかもしれない。とりあえず僕らは席に着くとドリンクバーと軽く食べられそうなものを注文する。各々の飲み物を手に取ったところでやっと腰を落ち着けられた。
「気になってたんだけどさ、閑籠くんって大学生?」
グラタンをスプーンで口に運びつつシズカが聞いてくる。
「高校二年生」
「へぇーっ。なんとなく大人っぽいから大学生くらいかと思った」
「んと……シズカさんも高校生なのか?」
 彼女のことを何て呼べばいいのか少しばかり迷う。なれなれしい感じがしないよう、いつもなら女子は苗字で呼ぶのだが、なぜか当人が教えてくれないので仕方なく下の名前で呼ぶこととした。シズカはそれを感じ取ったのか、
「私、高一。だから私のことは『さん』なくていいよ?センパイ」
「あんまりからかうなよ。僕に女子耐性はない」
「見ればわかる」
「ぐっ……」
 まだ出会ったばかりであんまり会話はしてないんだが、僕と会話することには慣れてきたんだろう。言葉の端々にシズカの性格が覗いて見える。
「お前、結構良い性格してんな」
「閑籠センパイほどじゃないよ?」
「『先輩』はやめてくれ。慣れないから変な感じがする」
「えー?後輩とかに言われないの?」
「部活入ってないからな。後輩との関わりはゼロだ」
「へぇ奇遇。私も帰宅部だよ。じゃあやっぱり帰宅部の先輩じゃん」
「それはちょっと意外だな」
 シズカは女子にしては快活な方だというのが初対面ながら伝わってくる。バレーとかテニスとかの運動部にはいっているものだと思っていた。まあ、出会って数時間の相手の性格を把握した気になっていたなんて烏滸がましいにも程があるけれど。
「よく言われる。でも面倒くさいんだよね、人間関係とかが」
「へぇ僕と同類じゃないか」
「それはないよー。だって私、部活はやってないけど交友関係は広いもの」
「おいおい、僕の友達が少ないみたいに言うなよ」
「え?多いの?」
「……」
 十人は……居るはず……。
「じゃ、私が友達になってあげるよ。友達第一号だね、センパイ」
「流石にそれは僕を馬鹿にしすぎでは」
「いひひ、ごめんごめん」
「それとやっぱり先輩はやめてくれ。年下とはいえ初対面に敬意を要求するほど僕は器が小さくないぞ」
 とかいって、ほんとは何となくくすぐったい感じがして嫌なだけなんだけども。
「わかったよ、閑籠くんね。……あ、飲み物、閑籠くんの分も淹れてくるよ。何が良い?」
「ありがとう。じゃあ適当なコーヒーで」
「おっけー」
 二人分のグラスをもってシズカが立ち上がる。表面上は少々小悪魔的でもやはり内面は優しい性格をしているんだろうな、と今の行動を見て思う。彼女がいなくなると店内の音楽と雨音が強くなった気がする。時刻は午前一時半。よくよく周りを見渡してみれば僕ら以外に客が居ない。そして雨はまた一段と強くなっている気がする。
「おまたせ」
 右手にコーヒー、左手に緑色の炭酸飲料を入れたグラスを持ってシズカが帰還。僕らは各々の飲み物を啜りつつ、暫し他愛のない雑談を続けた。
 僕らはいろんなことを話した。学校生活のこと、勉強のこと、進路のこと、人間関係……友情や恋愛のことなんかをそれとなく表面的になぞった。シズカは口下手な僕とは真反対で饒舌、話題を盛り上げるのが上手い。普段は友達にも話さないようなことまでついつい漏らしてしまいそうになる。時刻は夜中の二時を回りそうになった、そんなとき。まだまだ時間を潰す必要があると思っていた僕らに思わぬ声が掛けられた。ホールの制服を着た従業員さんだ。
「お客様、申し訳ございません当店は二時までの営業となります」
「ゑっ⁉」
「はい、ですので申し訳ありませんが……」
 僕とシズカは顔を見合わせた。確かに営業時間についてはきちんと確認していなかったことを思い出す。仕方がないので、もう何杯目かわからないドリンクを最後まで飲み干しておあいそとする。
「すみません、この辺りで雨風凌げそうな場所ってありますかね?」
 会計を済ませるとシズカが店員さんに訊いた。
「そうですね……なにぶん田舎なもので……、屋根があるところといったら駅でしょうか。ここから二駅のところは駅前が発展しているのでネットカフェなどもありそうですが、終電はもうきてますし」
「そうですか、ありがとうございます」
「あ、あの」
「はい?」
「コンビニって近場にないですか?」
「ああ、それでしたら」
 と、場所を教えてくれた。大体歩いて十五分くらいの場所のようだ。暗くて道は見えないが一本道らしいので多分大丈夫だろう。
「ありがとうございます、雨で電車がなくなっちゃって帰れなくなってたので……」
「あ!そういう事情でしたか」
「はい、この様子なら何とか時間が潰せそうです」
「それなら、ちょっと待っててもらえますか」
 そういうと店員さんは店の奥へ戻っていって、傘を二本持って戻ってきた。
「これ、よかったら使ってくださいって店長が」
「え?流石に申し訳ないですよ」
「ほんとなら、私が車で送っていければいいんですが、さすがにマズいのでこれだけでも」
 シズカは遠慮しているが、店員さんのせっかくの好意を無碍にするのも憚られる。
「……じゃあ、借りるって形でいいですか。僕らは朝に鯉城池駅まで帰ってくるのでその時に、店先の傘立てに返しておきますので」
「はい、ではそれで」
 傘を受け取る。
「あと、コンビニまで行くなら気を付けてくださいね。橋を一つ渡らないといけないのですが、この雨なので。確か去年のこの時期の雨のせいで人が一人亡くなっていたはずなので」
「わかりました気を付けます」
 確かにこの雨では川も増水しているだろう。危険度は大変高い筈だ。
「ありがとうございました!」
 店員さんに見送られながら、僕らはファミレスを後にした。



第3章:雷雨

 店を出るとまた世界の音が雨一色になった。快適だった店内と違い、まとわりつくような湿気が循環する。
「街灯は一応あるんだな」
「ちょっと暗いけどねー」
「しかし傘は本当に助かった。コンビニについてもびしょびしょだったら風邪ひいちゃうしな」
「そういえばなんでコンビニなの?」
「最近のコンビニって大体イートインスペースあるだろ。ついでに傘とか携帯のバッテリーとか買いたかったし」
「なるほどぉ」
 僕が借りた傘はちょっと大きめの黒い傘、シズカのはコンビニで売ってそうなビニールの傘だ。僕はビニール傘で構わなかったのだが、シズカがあまりに遠慮するのでありがたく使わせてもらっている。
「雨、ちょっと弱くなったねー」
「その代わりちょっと風が出てきたな」
 と、僕が言ったとたんひときわ強い風がごう!と吹いた。
「きゃあ!」「わ!」
 雨がたたきつけるように注ぎ、傘は煽りを受けて飛んでいきそうになる。慌てて僕は傘をすぼめた。
「……あ」
 今の一瞬の強風で、シズカの持っていたビニール傘が骨から折れていた。
「壊しちゃった」
「まぁ……うん。そういう日もあるだろ」
「とりあえず入れて」
 と言って僕の傘の下に入ってきた。このままだと店に着くころにはずぶ濡れになるだろうし、断ることはできない。大きめの傘とはいえ、二人で入るには少々狭い。
「せっかく貸してもらったのにな」
「風は仕方ないだろ。コンビニで代わりのやつ買って弁償しよう」
「不幸な事故だったよ……」
 しかし一つの傘に二人で入ってるこの状況、
「暑いな」
「女子と相合傘しといてその感想は酷くない⁉」
「実際、暑いだろ」
「それは、まあ……ね」
 ところどころで言われているように、日本の夏が特段暑く感じる理由の主たるものが湿度だ。おそらく外気温はそんなにあつくないんだろうが、じとじとした空気が暑さを掻き立てている。尚且つ僕らは浴衣だ。
本来の人間の体の仕組みとは、汗を出してそれが蒸発するときの気化熱で体温を下げる。しかし湿度が高いといくら汗を出しても蒸発しないので結果べとべとするだけになる。とはいえ、僕らの体はやめてくれと言ってもやめてくれないのだ。不便。
「……なんか雨強くなってない?」
「だな」
 一つの傘ではさすがに無理があるくらいに降ってきた。
「傘を共有してると大きい水たまりを回避しにくいな」
「それはそうだけど、暗くて水たまりがあるかどうかもはっきり見えないし、どうせ雨もしみ込んでくるし、靴はあきらめた方が……」
 シズカが言い終わらないうちに目の前が一瞬白く光った。
「いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、」
 ドンガラガッシャーン!
「きゃあああああああああぁ⁉」
 雷が落ちたと同時に、シズカが僕の腕をがっしり両手で掴んできた。
「ああああ、びっくりした!」
「むしろ僕はシズカの悲鳴にびっくりしたんだが。……ていうか爪立てるな爪、痛いから」
「ああ、ごめん」
 そっと腕を離される。雷が落ちた後雨足も気持ち強くなったように思える。
「雷はさすがに怖いなぁ……」
 閃光。
「いち、に、さん、し、ご、ろく、」
「そのカウントダウンやめて⁉」
 ドンガラガッシャーン!
「きゃあぁ⁉」
 落雷。
「光ったんだから、落ちてくるのも読めるだろ。あと爪」
「怖いものは怖いの!」
 そういってシズカは腕(爪)を離す。跡残りそう、コレ。そして遠くの方で少しずつゴロゴロゴロ……、と雷の音が聞こえる。光こそしないものの、確実にいろいろなところで落ちているようだ。
「この状況だと傘差してる方が危ないかもな」
「確かに。お店まで戻る?」
「いやー結構な距離歩いたし、周り田んぼしかなかったからな……」
 と、言いつつも先のほうに小さい倉庫のような場所があったため、そこまで早足で駆けて行った。
「雷ってさ……。来るってわかってても、大きい音とカメラのフラッシュみたいな閃光で無理矢理五感をびっくりさせてこない?」
「言わんとすることはわかる。じゃ、光ったら耳を塞いでみたらどうだ」
 閃光。
「…………はち、」
 ドンガラガッシャーン‼ゴロゴロゴゴゴ……。
「ほんとだ、思ったより怖くないや」
「遊園地のアトラクションとかでも耳塞いでたらそんなに怖くなかったりする。ネズミーランドとか最たる例だな」
 そうこうしてるうちに、十メートルくらいの長さがある橋に差し掛かった。
「これ……」
 シズカがある一点を指さす。ああ、なるほど……。
 雨に加えて街灯が点滅を繰り返しているせいで見えづらかったが、橋の入り口のところに花が添えてある。
 おそらく、店員さんの言っていた水難事故に遭った人はこの川に流されたんだろう。一年前のことだと言っていたが、いまだに花を添える人がいるのか。
 ふと、自分の過去の未練とその花が重なった。名前も知らない、淡い水色のその花はきっと供えた人にしかわからない意味が込められているんだろう。僕は過去をから逃げたくて花火を意識の外に遠ざけている。この花はきっと逆の意味、つまり事故に遭った人を忘れたくなくて、ここにある。雨に打たれ続けているはずの水色の花が、心なしか力強く映える。
「……行こっか」
 シズカの声でふと我に返る。僕もシズカもしばらく何かしらに思いを馳せていたようだ。体感して五分くらいその場に固まってしまっていたように思う。
「ああ、悪い」
 橋を歩いていると足元から轟轟とした振動が伝わってくる。きっと物凄い勢いの濁流だ。確かにあれに飲み込まれたら命はないだろう。
「えぇ、怖。閑籠くん、真ん中歩こう?」
「一応車道だぞ」
「こんな時間の田舎に車なんて走ってないよ」
 シズカがあんまり怖がるので仕方なく従うことにした。なんだか一休さんになった気分だ。それにしても確かに怖いは怖いが、そこまでするほどでもないように思える。というのも橋の端は二重三重もの安全柵が張り巡らされていて、見るからに堅固。橋本体に比べて明らかに新しく、真ん中を歩く方がかえって危ないんだはないかと思えなくもない。
「そういえば」
「なに?」
「石橋をたたいて渡るっていうけど、危険な橋だとしたらたたいて渡ってる途中に落ちるよな」
「なんで今そんなこと言うの!」
 思いつくままを口に出したら思いのほかシズカをビビらせたようでもう少し発言には気をつけねばと思った。 
 橋を抜けると間もなく明るい建物が見えた。宵闇の雨の中でコンビニエンスストアは大変よく目立つな。
「着いた」
 入店音と一緒に自動ドアが開く。冷房が蒸し暑さを吹き飛ばす。
「らっしゃせー」
 時間が時間だからか、店員からもやる気が感じられない。傘とタオルと飲み物とを買って僕らはイートインスペースに腰を下ろした。
 浴衣は冷えるのも早い。風邪をひくかもしれないと思いタオルで浴衣の上からトントンたたいて雨を乾かそうとする。
 タオルをシズカに渡すと、彼女は無言でソレを受け取った。蒸気した様子と濡れた浴衣の取り合わせは存外心臓に悪く、さりげなく目を逸らすこととなった。
「閑籠くん?」
 妙な空気感に気づいたのか、シズカがいぶかしげにこちらを伺う。
「いや別に……」
 その瞬間に、ひときわ大きい雷鳴が轟いた。
「きゃあ!」「おわ!」
 ただの雷ではなかった。その直後、店内から光が消えたのである。突然視界を奪われたせいで、パニック気味だったシズカをどうにか探り当て、手を取った。
「見つけた」
「ひゃっ……。大丈夫なの?コレ」
「店員さんは……」
 と、五分としないうちに電気が点いた。すぐに復旧できたようだ。
「びびったぁ」
「そういえば携帯電話の充電器買ってなかったな。買ってくるわ」
「ああ、うんわかった」
「あのー、シズカサン?」
「ん?」
「手、いい?」
 シズカがさっき繋いだ手を放してくれないので身動きが取れない。
「あっ、ごめんね」
 そういってシズカが手を離す。その瞬間に細いなと再認識する。軽く頷いて、店の陳列棚へ向かった。

☆☆☆☆☆

「でさ~、その時の友達の顔がカマキリみたいでさ~」
「いやどうなったらそんな状況になるんだよ」
 雑談をしつつ時間を潰す。服もだいぶ乾いてきたし雷も落ち着いてきて今はもう雨音しか聞こえない。深夜三時三十分のコンビニだ。店員は清掃をしている。携帯電話はそれなりに充電できた。話題も尽きてきて、彼女も机に突っ伏してうとうとしている。ブラックコーヒーを飲んでしまった僕は眠気が来ず、少々手持無沙汰になる。
 ふと、橋の上に供えられていた花を思い出した。携帯でブラウザを起動《2018 鯉城池駅 水難事故》検索。
 それらしい情報はなかなかヒットしなかった。そんな中、一つのページを見つける。A新聞社のデジタル版の記事だった。水難事故について。日付はちょうど一年前。
 ページを開くと、ほとんど三行に満たない文章が現れた。横に橋の写真。気づかなかったが、晴れているときのものを見るとそれなりに大きいことがわかる。だがそんなことよりもその下に移っている一枚の写真が引っ掛かった。「シズカ……?」
 写真は髪を解いているのできっちりかっちりとは嵌まらないが、確かに目の前で寝息を立てている女の子と同じ容姿に見える。
『……被害に遭ったのは、有田静香さん16歳(高校一年生)、……』
 心臓が止まるかと思った。ゾクゾクと全身が粟立つ。手の震えが止まらない。思わずスマホをテーブルに落とす。視界が狭くなって、思考が纏まらない。
  目 の 前 に い る こ の ヒ ト は 一 体 ダ レ な ん だ ?


第4章:時雨

「閑籠くん……?」
 寝ぼけ声でシズカが僕の名前を呼ぶ。夢じゃないんだといわんばかりに、さっき見た記事はスマホの画面に表示されたまま。
「もうそろそろ始発かな……?」
「ああ、そうだな」
 そう答える僕の声が多少上ずったのは仕方ないと思いたい。時計を見ると午前五時、そろそろ店を出ていい時間だ。寝ぼけ眼の彼女も違和感を感じ取ったようで、訝しまれた。
「ほんとにどうしたの?手、震えてるけど、寒い?」
 どんな言葉で説明しようか、なんて言い訳をしようか、逡巡していると僕の手が温かく包まれた。シズカの手だ。
「あ……」
 浴衣と浴衣の袖が擦れ合う。そこには確かな温かさがあった。さっきとは別ベクトルで思考が停止する。
「ん……、ん?んん⁉」
 急にシズカが跳ね起きる。どうやら無意識だったようだ。パッと手を放して目を逸らされた。心なしか頬が赤い。
「ごめん……、寝ぼけてた」
 その姿には、苦笑するしかない。不可解なことは依然そのままだが、安心感が戻ったのも確かだった。確かにおかしなことはあるけれど、信頼するに足るヒトだと思った。その細い手がシズカの存在を肯定していたからだ。少なくとも、もう恐怖はなかった。
「行こうか」
 それだけ言って僕は、紺色の年季の入った傘を手に取った。

☆☆☆☆☆

 店を出ると依然雨は降っていた。山間部付近の田園ということで湿度は高い。もし雨が降ていなくても朝霧が立ち込めていたことだろう。
 僕は道すがら考える。彼女は一年前……事故の時点で時間が止まっている。高校一年生から進級していないからだ。別人という線も考えた。だか、容姿は完全に一致している。双子だとするのなら名前が同じだということの説明がつかない。
 すぐに、例の橋の前に着いた。鯉城池橋だ。水嵩はまた増えている。渡り切ったとき、蒼い花がそこにはあった。昨日見たものと同じものだ。
「ねぇ」
「何」
「どうして事故が起きたのかな」
「どうしてって……」
「いや、事故に遭った子ってさ。何が起きたのかわからずにしんじゃったんだろうなって思って」
 ちらと濁流を見て彼女は言う。
 そうして僕は理解した。彼女は死に切れていないのだ。自分がもうこの世にいないことを一人だけ知らないんだ。なら僕がすべきことは……。
「有田、静香」
「え?」
「君の本名、間違いない?」
「……そうだけど」
 最後の可能性も潰えた。一年下の後輩に同じ名前で同じ顔をした人が天文学的な確率で存在していたならば、こんな重苦しい気持ちになることもなかっただろうに。
 僕は伝えるべきだろうか。君が被害者だと。伝えたらシズカが消えてしまう気がした。嫌だった。もっと知りたい、仲良くなりたい、そんな願いが浮かんでは弾けた。一方で、シズカには知る権利があるとも思っていた。彼女が全部を知って、それで消えるのなら、満足に成仏できるのなら、その手伝いをするのが僕の義務のようにも思えた。
「怖かっただろうな。浮かばれないよ、こんなんじゃ。私たちだけでも理解してあげられたらよかったのに……」
 考えていたところにシズカは呟く。僕の苦悩はきっと伝わっていない。けれど、今の言葉は彼女が僕に与えた結論だと思った。シズカの望みに従おう。

「橋の両脇の柵さ、どう思う?」
「どう思うって……?」
「見ればわかると思う」
 そう、本体と比べて明らかに新しいのだ。
「これって、最近作が作られたってこと……?じゃあ事故に遭った子は柵がない橋で滑って川に」
「いや、さすがに欄干自体はあったんだと思う。ただそれが壊れたんだよ」
 実際、記事に載っていた写真の柵は木製で、本体相応に老朽化していた。
「で、でも、いくら柵が壊れても一部でしょ?それに雷鳴豪雨の中川のそばを歩く人なんていないと思うよ?」
 それは、と言いかけて、シズカが来るときに雷に必要以上に怯えていたことに気が付いてしまった。また辻褄が合ってしまう。
「この時期さ、雷がすごいんだ。この地域。山間部だからだろうね」
 何を言ってるの、とシズカが先を促す。
「雷にびっくりして足を滑らせたって言いたいの?」
「まさか。ありえなくはないけどね」
「その心は?」
「この辺り、まあまあ明るいよね」
 川までの道よりもひと際明るい。橋の上の街灯が十秒に一秒ほど点滅を繰り返しながらも、煌々と灯っているためだ。
「もし、これが消えたら辺りは真っ暗。何も見えないと思う」
「停電、ってこと?」
「そう。実際僕らも一回遭遇しただろ?停電それに、この街灯も見ればわかると思うけど十分ボロい」
 濁流が踊るのが伝わる橋の上、突然視界を奪われる。彼女の恐怖はいかほどのものだっただろうか。おそらく彼女の極度の雷嫌いも、直感的に雷が自分の死の遠因になっていると悟っているからではないかと考えている。
「ねぇ、その人って、どんな人だったのかな」
 僕は答えられない。
「調べたんでしょ?」
「……ああ」
「……」
 傘からシズカが飛び出す。蒼い浴衣が揺れる。雨に打たれつつ、ステップを踏むように橋の中央まで躍り出た。
「私なんじゃないの?」
「え?」
 シズカが目をそっと閉じた。何かを思い出すように。僕はシズカが自分を自覚したんだと理解した。
「一年たってたんだ。私が知らないうちに」
「かもな」
 肯定すると、シズカが生者でないことを肯定したことにつながりそうで、怖かった。だから、こんな曖昧な返事しかできない。
「ねぇ」
「なんだ」
「花火、嫌いって言ってたよね」
「ああ」
 今それを言うか。
「なんで?」
「…………くだらない思い出だよ。昔、好きだった人を思い出すからだ」
「私は好きだよ」
 僕が言い終わらないうちに彼女はそう言い切った。主語が省略されているが、おおよそ察せた。
「……」
「きっと、もう、お別れだ」
「超自然的だな」
 かろうじてそう返した。
「私は今日楽しかったよ。……これで満足」
「僕には足りない。まるで話し足りない。シズカのことを何一つ知れてないからな」
「仕方ないでしょ」
「確かに」
 
 お互い浅く笑う。深い意味はないがそうするしかなかった。
「私たちって不思議な関係だね」
「どうした?」
「まさに友達以上恋人未満を体現してるよ」
「難儀な関係だな」
「でも、私にとっての理解者だよ。閑籠くんは」
「ならよかったこととしよう」
「また会えるといいね」
 返事をする前に、シズカの体がサッと淡く弾けた。蒼い線香花火のように、光が雨に溶けるみたいだった。
 カチャリと音を立ててシズカの簪が橋に落ちた。僕の浴衣はもうずいぶん濡れている。
 橋の入り口の供え花の上にその簪を乗せた。僕なりの意味を込めて。傘は返さなければいけない。二人分の傘は僕の手に余って、濡れたまま駅まで戻った。顔を伝う液体は雨か涙か。

 きっと僕はこれから先、花火を見るたびに思い出す。雨の中に咲いた場違いで幻想的な水性の花火を。
 夏が、終わる。



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