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はじめまして、山本宗禅です。自己紹介に代えて。

はじめまして。山本宗禅です。
普段は京西陣菓匠宗禅の店主として、また上技師(じょうわざし)として、日本古来からの伝統菓子であるあられをつくり、その文化を伝えるべく活動しています。

上技師 究極のあられ『上技物あられ 亀』

一子相伝で受け継がれてきた技を・・・と言うと、後継ぎとして順風満帆な道を歩んできた感じられるかもしれませんが、決してそうではありませんでした。

歴史ある菓子屋とはいえ、現代では数ある中小企業のひとつですから、早い時代の流れによる需要の変化、新型コロナウイルスによる経営困難、原材料価格の高騰など、多くの壁に立ち向かい、ときには涙しながら(恥ずかしながら、泣き虫です)、軌道修正を重ねての今があるというのが実状です。

これらの問題を前に、どんな思いを持ってどのように乗り越えてきたのか、また今後どのように事業を展開させていくかなどを書き留めていくことで、同じような悩みを持たれている経営者の方のお役に立てたらと、noteに書き記していくことにしました。

とはいえ、山本宗禅が具体的にどんなことをしてきた人間なのか?が不明瞭なままだと、イメージしにくい部分も多くなりそうなので、本記事ではこれまでの事業展開を紹介し、自己紹介とさせていただきます。

少し長くなるかも知れませんが、時系列に[出来事]と[背景や想い]を連ねていきます。


昭和48年8月18日、かきもち・おせんべいを製造販売する株式会社 長寿堂恵佳の4代目として生まれました。

23歳、『たこべえ』の開発

23歳でたこ焼せんべい『たこべえ』を開発し、大阪土産ナンバーワンの座を獲得。たこ焼きという大阪名物をお土産にするムーブメントのきっかけとなりました。その後も『お好み焼せんべい』、『心斎橋バーム』、『京抹茶ポテト』など、次々と土産商品を開発。大きな人気を頂戴しています。

愛され続けて20有余年、本物のたこ焼の素材をそのまま使用した 元祖たこ焼せんべいです

[背景や想い]
一見華やかな功績に見えますが、実はこの時、23歳で2億8千万の借金を背負うことになりました。土産菓子を開発したのは、「会社をV字回復させ、生き残るためには土産に特化するしかない」と考えたためだったのです。

小学校の頃から1人で販売に行かされていて(今なら問題かも知れませんね…)、当時、あられはなかなか売れなかったので、幼いながらに「どうすれば売れるか?」「どんな商品ならば売れるのか?」を考え続けていた経験がヒット商品の開発に繋がりました。

26歳、京西陣菓匠宗禅有限会社を設立

ハイエンドなあられとして認知され、リッツカールトンホテル、セントレジスホテル、京都ブライトンホテル、マリオットホテルなど有名ホテルの御用達に。皇室やドバイ王室にも商品を献上しました。

ドバイの王室に献上した最高峰の創作あられ「金襴」

たこべえの大ヒットにより会社はV字回復を遂げましたが、百貨店から「駄菓子になった」と取引を中止されたのもこの頃です。

[背景や想い]
これら明暗のコントラストが強い2つの出来事から、あられ屋の未来、これからの自分の人生に強い不安を感じていました。何を一番大事にしたいのか?と自問自答を繰り返し、「日本一のあられ処になりたい」という想いから一念発起し、『京西陣菓匠 宗禅』を創業しました。

『京西陣菓匠 宗禅』西陣本店の外観です

33歳、京町家を用いたカフェ『京町家茶房 宗禅』の立ち上げ

『京町家茶房 宗禅(カフェ)』を立ち上げたのは、あられ文化を残すため。あられに関する体験ができたり、焼きたてのあられを食べられる場所をつくり、あられとの接点を生みだすことで、興味を持っていただくことが近道だと考えたからです。

おかげさまで、『京町家茶房 宗禅』は、京都御所の特別拝観において日本初となるカフェの御用命を賜りました。

『京町家茶房 宗禅』店内の様子

[背景や想い]
カフェを始めたことにより、ご近所の方々から私がつくるパフェやアイスクリームが食べたいとご要望をいただくようになりました。パフェをつくるにはさまざまなお菓子が必要となりますが、その全てを自社で製造したいという想いが強くありました。これがアイスクリームやわらび餅、クッキー、お米のラスクなどをつくるきっかけとなったのです。

※コロナ渦の影響もあり、現在『京町家茶房宗禅』は休業中です。休業の選択に至った経緯なども、またnoteで綴っていきますね。

35歳、『株式会社 千客萬来考社』を設立

35歳になる頃、大阪名物くいだおれの人形焼店や商品開発、店舗開発に携わります。他社の商品開発を手掛けるようになったのもこの当時です。くいだおれ人形焼きのお店の開店サポートは、非常に思い出に残っています。

40歳、『トライズネットHD株式会社』を設立

物流と販売を一貫した新たなネットワークづくりをスタートしました。
 
[背景や想い]
当時、これからのお菓子メーカーは、コンビニや大手流通菓子の百貨店、そして百貨店ブランドのお土産進出などにより、過酷な競争を生き残らねばならない大変な時代が来ると予想してました。

そうなると、物流がボトルネックになるであろうことは容易に想像がつきます。お菓子メーカーの配送先は、百貨店や駅、空港、観光地がほとんどで、ほぼ同じルート。なのに、各メーカーがそれぞれに何台もトラックを走らせているという状態でした。

これを共同配送にすることで、自社だけでなく、他のお菓子メーカー各社のコストカットにも繋がります。また、配送トラック数を減らすことは、排気ガスを抑え環境配慮にも貢献できると考えたのです。

おいしいお菓子と、安心の環境。未来の子ども達によりよい社会を残すことにつながるとの想いにより、トライズネットHD株式会社を立ち上げました。
トライズネットという社名は、『新しいお菓子のネットワークにトライ(挑戦)し続ける』という信念から命名しました。

44歳、食事や洋菓子ジャンルのメニュー開発に勤しむ

唐揚げ専門店『株式会社から亭』の味を監修し、最短での唐揚げグランプリ金賞を受賞しました。

日本で唯一の上技物師として京のあられ・おせんべいを焼き続けながら、焼きアイス『五山の雪』やグルメサイトのパフェ部門にて三つ星を獲得した京パフェ『ひとえふたえ』など、洋菓子の要素を取り入れたメニューを次々に創作しました。

[背景や想い]
この頃から先述のカフェ『京町家茶房 宗禅』で提供する、京町家カレーやオムライスといった軽食メニューの開発もスタート。これをきっかけに他社のフードメニュー開発にも携わるようになりました。

カフェの看板メニュー『西陣パフェ』が『SARAH JAPAN FOOD AWARD』で三つ星をいただいた時は、洋菓子やカフェメニューでも認められたと、本当に嬉しかったです。

現在、料理人として、他社製品のプロデューサーとしての活動

50歳を迎えた現在、テレビ、雑誌などの取材、食品メーカーなど企業向け講演会を多数行うとともに、大手メーカーのオリジナルスイーツや、PB商品などのプロデュースも手がけ、活動の幅を広げています。

[業界を盛り上げる仲間は多い方が効率もあがりますし、横の繋がりから生まれる相乗効果もある。なにより、根底にあるのは「みんなで幸せになりたい」という想いです。

このような想いから、私が他社商品をプロデュースし、販売をお手伝いするブランド『京都 文禄庵』も運営しています。これに関しても、また今後の記事で紹介させてください。

現在までの私の人生をふり返ってみました。
常に新しいお菓子を作り続けていることもあり、「宗禅を訪ねれば何か新しい話題がある」との認識をいただいているようです。毎年、多くのメディアにも取り上げていただき、我々が精進してきた『おいしいもので笑顔を増やす』の輪が広がっていくのを実感しています。

今日も丹精をこめて日本一のあられを焼いています

今日はここまで。
お読みいただき、有難うございました。

次回からは『コロナ禍の軌跡 泣き虫社長の大奮闘記』を記していきます。
スローな更新にはなりますが、またお付き合いいただけますと幸いです。

ではまた。

山本宗禅


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