芸能人に対する世間のイメージは真実か?
社会との関わりが減ってみて思うのは、僕は世の中や社会や育った環境に随分と不満があるのだなぁということ。
どーも、こちらではお久しゅう。あおいりゅーです。
世の中に0-100なんてさして多くは存在してないのに、彼らが自分のせいじゃないと思ってることがきっと解せないんだろーね。
もちろん自分で選択してきた人生。
誰かのせいだけじゃない。
でも、僕だけのせいでもない。
が、『全て誰かのせいにしたい』という人との関わりが僕は多かったのだろう。
彼らに「僕のせいだけでもないよ」と抗えなかった僕が全ていけないのだろうか?
そこまでの情と労力を、僕が彼らに与えてやれなかったことは悪いことでしょうか?
僕は誰に助けを求めていたら「彼らと離れる良い選択をした」とダレカに認めてもらえたのでしょうか?
ダレカに認めてもらわなくては僕という存在に価値がないとでも言いたげな世間こそが、自己責任を否定してはいないだろうか?
*
僕は思うのです。
僕はまるでニュースの中の著名人みたい、と。
偉そうな理由じゃなくてね、生きてきた環境と僕自身が持つ事実との『カベ』みたいなもの。
そしてそれらが産む僕の障害について。
『〇〇さん(芸能人)のイメージ』みたいなものを見る機会があると、世間の人たちはとても自由に想像していることが見える。
そして現実はどうかといえば、全く違う場合はよくあるもので。
僕もそんな風にして周囲との隔たりを感じているのだなぁと。
*
例えばなんだけどさ。
事務所の方針で、周囲がイメージを守るウソのエピソードや、イメージにピッタリのエピソードだけを話したとする。
本人が場の空気が濁らない程度に否定したとして、それはパフォーマンスとして終わる。
そして『世間のイメージは正しい』と認識される。
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僕が自分の障害について思うところは、こんなイメージに似ている気がする。
僕の言う事実や感情はウソの『パフォーマンス』で、僕のことを知りもしない人のイメージに合う言動だけを都合良く切り取って伝えられたことは『真実』として、僕の障害が肯定されていく。
「お前らがこいつの何を知っとんねん。見てもおらんくせに。笑」
的な、ファンに向けて身勝手なアンチへの思いを『仲良しグループのイチャイチャエピソード』としてほっこりとお届けした推しのような気分である。
(ファンの中には、そうして濁してまで『発言をしなければならない』状況や感情に彼らが”追い込まれた”のだと感じ、心を痛める人も一定数いるのだけれども。あぁ推しよ幸福であれ。尊)
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心の声の脱線はさておき。笑
『僕がどんな人間であるか』というのは、僕の言葉を見聞きしようと思って接してくれた人にしか伝わらない。
僕の場合は、趣味やネットの中が比較的に自分らしくあれるトコロだったからね。
だから身近な、僕を見ようとしない人たちの意見で僕が障がい者と定義されるのなら。
僕が『ウソツキ』で彼らが『真実』を話しているとするなら。
その人たちにとっては僕は『社会不適合』なのだろう。
ものすごくオーバーにナルシズムを発揮するならば、凡庸な社会に適合できない僕は
《おおやけにアーティスティックな才能に太鼓判を押されている。》
そうとも取れはしないだろうか?
応援したくてたまらないくらいの、魅力を発信できる人にならなくちゃいけないね。笑
あ、昨日かな?
『夢物語みたいな現実の備忘録』をアップしたから気が向いたら読んでみてね。
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