「装飾は流転する」、また装飾は流転させる

先日、東京都庭園美術館で開催中の「装飾は流転する」展に足を運んできた。ちなみに2/25までなのでお早めに。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/171118-180225_decoration.html
いくつか考えたこと、感じたことを提起を兼ねて投稿したい。

アール・デコ

詳しい説明はインターネット検索に譲るとして、アール・ヌーヴォーに続いて現れたアール・デコは、目黒にある東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)の建築様式に見ることができる。
デコはデコレーションのデコであり、装飾のことである。モダニズムにおいては機能性こそが是とされ、機能美なるものが志向される。特に理工学的背景を持つ私としてはモダニズム的価値観に浸かっており、装飾に対するある種食わず嫌い的忌避感を持っていたため、アール・デコに対してもその忌避意識を向けていた。あるいは、バロック的装飾華美を連想しDécoのイメージを肥大化させていたのかもしれない。

ジャポニスムと抽象表現主義を経てデフォルメされ処理流暢性の高まった装飾は、シンプルで洒脱的に建物に味を加えていた。
パキっと分かりやすいデザインと、機能的意味のない適量の装飾は、私が好むファッションの方向性そのものだった。

装飾と機能美

私の定義で言えば、装飾とは無駄である。
機能のみを追い求めれば、装飾は不要である。装飾は、物の持つ目的に対応する機能を残したまま、感覚(感性)に訴える要素である。例えば、鉛筆の目的は字を書くことであり、機能は黒い線を残すこと、装飾は持ち手に刻印された模様である。

機能美という言葉がある。機能の追及によって生まれた造形的美しさ、と言い換えればよいだろうか。
機能を果たしながらも感性に訴えかけるような造形を持つものは機能美と言われる。機能を追い求めた先に美があるイメージだ。だが実際はその逆ではないかと感じることがある。感性に訴える造形に機能が与えられたとき、認知の因果が逆転して、機能故の美しさと合理化されてしまうのではないか。思い付きの仮説である。今後深めたいが今回は展覧会の感想を書き連ねて行きたいので触れるだけに留まる。

装飾とアート

装飾はそれだけでは哲学化した現代のアートにはなり得ない。ある作品がアートというジャンルで成立するには、概念レベルの操作が必要となる。
その意味で、Wim Delvoyeや髙田安規子・政子のアプローチはアート的に興味深かった。

次の写真はWim Delvoyeの作品である。

旅行者がごく当たり前に使うトランクに銀色の塗装と装飾が施され、ヴィクトリア調かというくらい派手な逸品が仕上がっている(筆者は工芸史に疎いので適切な時代様式があればご教示願いたい)。
いかにも利便性を重視し使用のためにあるのが見て取れるゴムとプラスチックのキャスターと、華美な塗装・装飾の間にはギャップが生じており、またトランクのところどころに見て取れる傷や凹みといった使用痕が、装飾の神聖性を打ち消している。
過剰な装飾は道具を使いにくくする。工芸分野には飾るための非実用的な道具も存在すると思うが、このトランクは、使用性を装飾の神聖性によって打ち消した上に、更に使用によって装飾の神聖性を打ち消すような、相克的な関係が実現されている。

次の写真も、Wim Delvoyeの作品である。

ゴムタイヤが彫刻され、装飾が施されている。
この隙間だらけの車輪は、1000kgの車体を支えることができるのか疑問である。また接地面も装飾が施され、接地面積は何割なくなっているのか。きっと車体を支えられたところで、摩擦力の減ったタイヤはスリップを起こしてしまうだろう。
トランクの作品とは少しコンセプトが異なるが、日常に存在する道具に、意味が変わってしまうほどの装飾が施されていると見ることができる。

装飾がものの目的や機能を奪う。即ち、装飾がものを流転させ、アクセントや無駄という形容から本質の収奪に乗り出している。

髙田安規子・政子の作品をいくつかピックアップする。

一見江戸切子の盃のように見えるこれらは、透明な吸盤に彫刻による装飾がなされている。
似た形のものから連想し、違うものへと認識を変えさせる。装飾がそれを可能にしている。

トランプの絵柄がトランプに刺繍してある。
刺繍という装飾による意味の転換も消失もない。ただ、無駄を付け加えるという装飾がそのまま絵柄をなぞることにより機能の役割を果たし、装飾という行為自体が無駄と化している。
あるいは、2次元が刺繍によって3次元に浸食し、ベースのトランプが、ただのトランプからトランプ模様の縫物の型に成り下がっている。

古本から切り出され、小さな本となっている。のだと思われる。

これは思考実験であり思い付きであるが、この「本を切り取り、機能を持たない豆本に再構築する」という行為は、「本を切り取ることで、装飾を生み出す」ことというであるように言えそうである。
装飾を「無駄を付け加えること」と定義づけられるのではと思っていたが、このアプローチを使えば、「意味を切り落とすこと」もまた装飾の役割を担えるのではないか。
あるいは、彫刻に代表されるように、そもそも本来的に装飾は削っていくものなのだろうか。

思考を促す作品群と、思わず目が向きあるいは部屋の各所に目を配ってしまう建築の装飾を同時に楽しめるこの「装飾は流転する」展は充実感があった。

2月25日までである。気になった方はお急ぎあれ。

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