「誰かのために何かする」ことをやめるという話

最近、バシャール(本ではビシャーと呼ばれている)の新しいメッセージを受け取ったという方が書いた本を読んだ。

久しぶりに、明快で力強いメッセージだなと思った。

色々と印象に残ったけれど、その中にこんな一節が。

皆さん、やりたい事をやりたいようにやるのが人生ですよ。例え、一瞬たりとも誰かのために何かするのはやめましょう。誰かの為に何かをしたとしても、そのことが誰かのためになったと思い込むのは間違いです。(中略)この時、誰かの迷惑になるかどうかなど考える必要は、一切ありません。あなたがやりたい事をやればやるほど、そのエネルギーはまわりの人々を感化します。あなたと共に、まわりの人々も自由で伸び伸びと、豊かに生きることができるようになります。
 Morimoto Yasuhiko. Koujigensonzai Bashar Bishar karano short message (Japanese Edition) (Kindle の位置No.226-229). Tsukinuke Books. Kindle 版. 

犠牲的に生きることや、強制されること、洗脳されること、自分の価値を他人軸で見ること・・・そういうことから切り離して、自分のやりたいことをやることの重要性なのかなと思った。

誰かのために何かする、について大きな勘違いしていた私

ここで勘違いしそうなのが、それは「わがまま」「自己中心的」なのか、ということ。

もしそう思う人がいるなら、重い話になるのだけれど、私がその違いを理解することができた経験についてシェアしてみようと思う。実はこの話は長い間、語ることを避けていたのだけど、近年、ようやく自分の中で、大事な経験として冷静に見つめられるようになったので、自分の中の忘備録としてもちょっと触れてみようかな。

ちなみにほぼ同じ話を前にも記事にしているのでリンクを入れておこう。

それは、前夫とのこと。

前夫は、病気と診断されてかなり異常な状態だった。母国ではない日本で、診断を受けて入院したこともあったものの、治療と薬はかなり過酷なものだったため、本人はそれを受け入れることができず、結局通院しなくなった。(この病の特徴として、病識を持てないということがまた厄介だ。)

私は、内緒で、彼の代わりに薬をもらいに通院していた。それを夕飯の中に混ぜたりした。(その時点でかなりの罪悪感が常にあったし、できればそんなことをしたくなかった。)

彼が仕事できない状態なので稼がねば!という意気込みもあって、生活の全てを自分が負うことが当たり前になっていった。彼の人生をも、背負おうとしたのだった。

それは、「彼のため」だと思っていた。

けれど、それは、結果的に、彼に対して四六時中、「あなたはダメな人だ、自分で人生を切り開けない人だ、私がいないとダメな人だ」と言っていることと同じだった。

そして、まさに彼はどんどん「ダメ」になっていった。

そのうち、私の中に、「私はこんなにも献身的に尽くして、あなたの面倒を見ているのに。私は私の人生を犠牲にしているのに。」という気持ちさえ湧いてきた。(今改めて考えると本当に酷い状態だな・・・・)

ある日、彼は行方不明になった。結局見つかったけれど、いなくなった場所から遠く離れた県境のダムで倒れて(寝て?)いるところを発見されて、入院。彼は、私の前から消えたかったのかなあ・・・それとも自分の足で歩くことで自由を取り戻そうとしていたのか。

彼がいなくなって警察に届けをした時、河口に近い大きな川がある街だったので、警官の人に、「川で人が死んだらどんな風に浮いてくるんでしょうか。海に流れるんですか、押し戻されるんでしょうか。」と聞いた。警官の人は、「そんな風に考えないでください!希望を持ってください!」と言われたのを覚えている。今思えばなんでそんなことを聞いたのか・・・絶望的な気持ち。

(そこからも色々あったのだけどそのあたりの詳細は別の機会に。)

実はそうなる前に私は、あるとき、ハッとしたのだった。

私が、「彼のため」と称してやっていることは、結果的に、彼の自由や人生を生きることや経験することや・・・全てを、奪ってしまっているということに、気づいたのだった。

それは、全く、愛ではなかった。むしろ逆だった。

それに気づいて呆然となった。

(しかしその時は、だからと言って何を変えていいのかわからず、その後に行方不明事件やら起こることになった)

その気づきは、衝撃的なものだった。

私は、その時点でかなり人生として追い詰められていた。一つの原因がわかって、今思えば、その大事なことを理解するためにも、起こっていた経験だったのかもしれないと思う。

いろんなレベルで

うーん、、まさかこのことを朝から書くことになろうとは、今日の書きはじめには想像もできなかったけれど。

これは、私にとっては色々な場面で、思い出してもいいことなのかなとも思う。子育てやもしかしたらこの先、介護、日常の人との関係性。

その中で、相手を手伝うことが、相手の自由を奪うことにならないように、常にお互いに、軸があるように振舞うこと。これってバランス感覚なのだろうか。


他にも、色々と常識を疑うことがこの本には書かれているけど、一見こんな風に混同してしまいがちなテーマがたくさんあると思う。

先のテーマに絡んで、「世のため、人のため」これもなかなか誤解しがちな言葉なんだなと。

この、世のため人のため・・・についてもビシャーさんはメッセージを伝えてきているのだけど、この話はまたの機会に・・・


この社会の中で生きてきて、無条件に受け入れた「常識」について疑うこと。

(またもや原典が引けないけど)ルドルフ・シュタイナーが、大人になってからは全ての学びを忘れていくことが大事、みたいなことを言っていたような。

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