「泥だらけの純情」を見て、私

おいおい、順当に幸せになれる結末を考えるのが面倒になっちまったんじゃないか?!と思うような結末である。雪のきらめく煙の中をいじらしく戯れているあたりが切なさをかき立てるいいスパイスにでもなるだろうとでも言いたいんだろう?!と興奮を隠せないこちとら。
この興奮、この煮え切らなさに対する興奮、これがこの二人の恋、愛情の見せたものなのかもしれない。
…なんてうまくまとめた風をしてみたここまでの文章で、彼ら二人よりもいじらしいほどにタッチミスをして入れては消すのタイピングを繰り返している私。もう夏から染み出してきた空気が立ち込める東京の夜に、網戸だけでその夜気を漉して、気取ってタブレットで文章をこしらえている私。小さな部屋の私。
壁は白い、エアコンもある。何が一体映画の中の次郎の部屋と違うのか。あの、毎日を生きている感覚をにじませる昭和の映画の中のアパート。下宿というのか。憧れるけれど、とんでもない虫の闖入やありがたくない匂いの来訪とか、今時代の生活に慣れてしまった者には耐え難い日常の折り込みがあるのだろう。
あえて電気を付けないで夜にタブレットで映画を見る。凝縮した映画館を作る。東京で見る。一人暮らしで見る。それに意味がある。やることを済ませてから、なんていういかにも戦略的世渡り上手なやり方はいけない。みたいと思ったら、もう衝動に任せて見るのがいいんだ。もう止まらない夜の恋人たちのように!!それで少しは、昭和の映画の世界の住人になる資格を持つことになる、と思うのだ。
青春コンプレックス、本来の青春時代とはいつを指すのか。
…あらいけない!また自分の観想の朗読を始めてしまった。えっとねえ、今回の感想を記しておこうネ?はじめに、浜田光夫の乱暴な性質と性を荒っぽく消費する感じの役のものは初めてみたから、きゃーってなっちゃった。あと真似すべき点は、いつも手袋をしているお嬢様で、ピーナツを入れることもできるのは画期的だった。夢の時間の二人だけのアパートは、カーテンをしないのがちょっと落ち着かないわねえ。お互いに相手の真似をして、性に合わないような日課を実行するシーンは、レミゼラブルみたいだと思ったね、ちなみにレミゼラブルはよく知らない。アルジェリアが出てきたけど、カスバの女でも出てくるよね、一体どういう位置付けで出てくるんだろうか。アルジェリアは水商売とかヤクザとかの比喩だと仮定すると、そこに行きたがらなかったお嬢様は、やっぱり綺麗な表の上層の社会からまるまる飛び出すことはできなかったのねと思う。どうしても、次郎には堅気の世界にきて欲しかったのね、その一方でもちろん自分の今いる世界も嫌気がさしていた。
ところで、今日走り込みトレーニングを終えて夜のアパートに帰った時、近くの畑の綺麗に均されたい砂が白い薄明かりに陰影を授かって、雪が積もっているように見えたんです。だから、二人が心中した雪山も、本当はあのカーテン無しアパート近くの畑だったんです。だって、あんな張り込まれてるのに新潟まで行けるのおかしくねって話!二人は、雪だるまの話をした後で、畑で薬を飲んだ。その時見たリアルな夢があの雪の時間なのです。ザザンボまでがその夢。ゆえに二人は生きている!目を覚ますと二人は病室、まあいろいろあって、二人は結ばれる!これで万事ハピネス!
大体、雪だるまにゴミついてきたねえって話も、「泥だらけ」のタイトルも、やっぱり畑だったことを物語っている。

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