紺碧

狭い入り組んだ道だと思っていたのに、案外わかりやすい配置である。くしゃくしゃに丸められた紙にかすれた印刷で宝物のありかが書いてあると思っていたのに、それが光沢のある印刷用紙(あの、子供の頃に黒鉛で落書きしようと思っても上手く描けない方の紙)が折れ目ひとつなく打ち広げられている様子に変わってしまったようだ。
あの氾濫で、街は水びたしになった。こうやって街を歩いている私は泥水の中をいる、というように信じられない高さまで水があった。
古い建築。時が流れてノスタルジィに燻されたみたいな木の板は、そこに水を含ませてしまった。やんちゃな子供の作った瘡蓋みたいにトタンの壁にできた錆も、思いがけない泥水による軟膏の塗布に出くわした。
団子屋さん。どろんとした大きな玉に甘い餡子やみたらしがのったお団子。飲み込む、という行為をこんなにも意識的にさせるものは他にあるのか、というように満足感がある。あんまり柔らかくて、何も咀嚼していないとさえ思うほどだ。建物の左側に、団子を配列した胸の高さ程のショウケースがあって、真ん中らへんに入口。中は、小さな机と椅子がいくつかあって、壁の上の方に短冊に一項目ごとに書いた品書きが格子ような秩序を与えている。確か、たまこんにゃくらしきものが調理されていた。
こうやって、記憶を文字にすると、いけない。忘れかけている細部は、それまでロマンチックな想像の世界に追いやって自己満足していられたのに、言葉にするとなるとそれが通じない。こういう時に、思考は言語なのだな、なぞとよく分かりもしないことを理解したふりをしている。この曖昧な部分を言葉にする過程で、失われてしまう、いくつかの仮定。その中に、本当の事実があるかもしれないのに。だからといってこうして書き留めることをしなければ、その仮定すらも忘れてゆくのだ。
この記憶の抽出作業と記述作業は、どこかでどなたかに読まれることを意識しているのには相違ない。したがって、嘘は言っちゃあならん、という格言に支配されているから、前述のような「本当の事実」か否かの問題が出てしまうのだ。でも、嘘を言ったところで誰が悲しくなるのか?そもそもこの嘘は故意ではない。そしてこの記憶の書き留め自体、何かの研究の参考文献として援用されるためではない。私の生きた世界という小箱の中身を磨いて整理整頓するためだ。だったら嘘も何もない。私がそう記憶していたら、それが私の世界なのだから。という結論に至ってはみるが、妄想ではなく、地に足つけて生きていたことを書き留めたいのだから、やはり客観性は欲しいだろう。したがって、時折、「確か」とか「気がする」とかいう便利なアクセサリーで彩って文章を書くことにした。
団子屋さんの話に戻る。ここには、高校の時にも行ったと思うが、大学に入ってから行った記憶が新しい。今は疎遠になってしまった友垣と行ったので、どことなくむずがゆく楽しい思い出だ。母も好んでいたようで、私の電車の迎えに車で来てくれたとき、お腹すいたー!などと二人で話してお団子を食べた。透明のパックにホチキスで一箇所留めて、渡してくださる。ホチキスで留まった部分をぶちっと割いてもいいが、こそ泥みたいに跡形もなく、留められていない部分の隙間から抜き取ってもいい。家まで待てないので車の中で食べた。いい歳して、無邪気なふりして頬張った。

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