グランパレ公民館

 この公民館は寒かったのか暑かったのか、あんなに通っていたのに思い出せない。ただ、後架でもないのに館全体がその匂いを閉じ込めていたのは思い出すことができる。というより、その匂いがすることをこの世で私だけが発見したかのように鼻高々と提唱していた自分のことを思い出すことができる、と言った方が正しいかもしれない。私はその時の様子を覚えていることは得意かもしれないが、その時の感情を覚えていることは苦手なゆえ、後々になって創作した感情をその時の景色に重ねてしまう小細工を施している場合もあるからだ。後架の匂い、といっても今よくよく考えてみたら公民館はどこもあの匂いがするような気がする。例える対象ではなく、例えられる対象としての公民館の匂い。フレグランスのラベルに書かれるべき匂い。そもそも、こうみんかんの中にこうかが含まれているのだから、関係深いのは当然のことかもしれない。しかし、どうしてあの匂いになるのだろう。少し甘みのある優しい要素も抽出はできるあの匂い。やはり、公の場たるゆえ、何か後架的アクシデントの積み重ねで染み付いてしまったのだろうか。…いずれの由縁にしろ、私の青春時代を分配した地なのである。
 ところでタイトルに「グランパレ」なぞと銘打ってはいるが、共通因数はガラスの目立つ部分があることのみで、丸天井も特になかった。どこも似てはいない。けれども、サンライズという文化ホールが隣にあったことは何となくシャンゼリゼの語感を思い出させないと断言することはできないし、この敷地内にあった木が幹から枝先までピンクの電飾を施されて、寒い闇に能天気な毛細血管のように浮かび上がっていたのも、パリの通りの華々しさと全くの違う世界だとは言い切れない。(ちなみに私はこの国以外の土を靴の下に敷いたことはない) この毛細血管について、学校帰りの私は迎えに来てくれた母の車の中で「幹は別の色にして、枝だけピンクにすれば、冬の桜みたいでいいのにねえ」なんて評価して、地域社会に欠かせない発想力のある若者の自分を見出して満足げにカーブに揺られていた。ちなみに、本宮駅前の冬の電飾は青い細い線が林立しているような様子なのをみて「まあ深海みたいと思えばいいのでは」なんて小賢しがって気取っていた私がありありと思い出せる。私よ、いいから早く帰路につけ!
 あの日以来、鈍い銀の工事用の壁に覆われてこのガラスのある建物は見えなくなった。高校生の頃、玄関ポーチに行くまでのゆるいスロープを通る時、ガラスに映る自分をみた。あの時の自分はいつもメランコリックを演じていた。…本当にメランコリックだったのだろうか。恋が故?クラブのこと?進路の暗さ?周りの中でもとりわけ物憂げな少女たるのが私の青春の醍醐味であったが、青春たる者みんながみんな物憂げである。それを自分の特徴として見出すか否かの差だ。そしておそらく、友達の中のガラスにはトンチンカンな人物として私は写っているに違いない。
 …このようにして書いているうちに、冒頭で述べていた温度の思い出が蘇った!冬、あそこは寒かった!寒いから嫌だ、と文句を言っていた。図書室の温風が出る部分のみ楽園で、あとは寒いことこの上ない。寒い中で勉強をする。終わりの見えない勉強。試験という区切りのために勉強すると、憎たらしい試験は範囲をもたらしてくれるものとしてかえってありがたい存在にもなる。勉強というより、もはや温かい家へ戻るための待合室のような目的と化していた。母の迎えが来たらすぐに、海老茶のタイルの床をあとにしよう。玄関正面の短い階段を降りて車に向かって、あわよくば母が持ち合わせたおやつにありつこう。その前に、自己発動型関所を突破せねばならない。それは、「ありがとうございました」といっても返事をしてもらえない場合の多い受付の職員さんに、挨拶をするか否かを決断することだ。公民館、地域のみんなの出入りしていい場所、屋内空間のように見えて公園広場のような青空の下の空間の性質がある。挨拶はしなくてもいいのでは?と思いながらも、挨拶をすることつまり関所を自ら建設する選択をする方が多かった。その職員さんも時には、カタカナの半角で表現すべきな裏声の短い返事、というより音、を返してくれる時もあった。

 本宮駅から自宅に帰るというのは、なかなか壁の大きな作業であった。自転車でも疲れてヘトヘトになってしまう体力のなさだったから。ゆえに両親の迎えか地域の行政管轄のバスに揺られるしかない、と私は決めつけていた。一度だけ、持ち合わせていた数枚の紙幣と交換にタクシーに乗って帰ったことがあるが、母にきつく咎められた。今ならばずいぶんひどい娘だということを身にひしひしと感じるが、当時は困惑に困惑を重ねていた。というのも、中学の頃に一度タクシーで本宮市の塾に行ったことがあるので、無邪気にも自宅と本宮間の交通手段にタクシーが組み込まれていたのだった。

 この公民館で一体何をしていたのかといえば、あら本当だろうかと疑うようだが「勉強」をしていたのだった。特に高校2年の初夏あたりだと思うが、奈良から平安時代にかけての日本史を勉強していたのがよく心に残っている。ずいぶん湿気を吸って重たげになった日本史の資料集と印刷物の裏紙を、広い四角の机に出して勉強していた。机が3つあるうちの1つに私は座ったのだった。同じ高校生らしき人もいれば、地域の明るい奥さんもいたし、一度気になると裏腹に次の音を構えてしまう新聞の頁を勢いよく繰る音を響かせるおじさんもいた。地域の明るい奥さんは、「頑張ってるね」と缶の飲み物をご馳走してくれたことがあり嬉しかった。基本的に私にとってこの公民館は学校帰りの夜に訪れて勉強する場所であった。その静かな夜の空間は、昭和の裏路地にある夜ゆえにシャッターを下ろして、裸電球だけで、土埃でビネットが施されたコンクリ床の寂しげな店の中を思わせるのだった。どこか閉鎖的で、明日が「やってくる」というより気づいたら俯き加減で入り口の脇に佇んでいるような所。もう既に遂行された明日を再度迎えるような淡々とした所。…多分この公民館にこんなことを思っているのはわたしだけだろうし、それに私は平成生まれだ。でもそう思わせるのには理由があって、壁を背にして机に向かった時に見える入り口が暗くて、階段が中央を占めていたので閉鎖的だったし、夕食時にはほとんど職員さんと私ともう一名くらいしか動くものはなかったのだ。そんな夜の時間の中で、おそらく9時くらいに市歌が流れる。賛否両論あるだろうが、私はものすごくこのメロディが好きだった。歌詞があるかはわからないが、妙に心に馴染んだ。館が閉まる時間に近づくと、職員さんが電気を消したり戸締りしたりして回った。

 高校を終えてからも友達と時間を過ごす場としてここを訪れたが、あの独特な独り占めせざるを得ないような夜の時間を過ごしたのは、高校のときだけだった。

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