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沖縄の「シーサー」の由来は?シーサーのルーツをたどって分かったその正体をご紹介!

こんにちは!沖縄南部観光局です。GW直前ということで、さっそくですがこれ、何の写真だかわかりますか↓↓

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目と鼻があることから人にも見えます。でも人にしてはずいぶん目堀が深く、顔色が悪い… それでは正解に行きたいと思います。

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正解はシーサーでした!しかも、ただのシーサーではなく、沖縄で最初に置かれたシーサー「富盛の石彫大獅子」です。今も八重瀬町富盛に、300年以上に作られた当時の姿のままで残されています。

ということで、今回は沖縄のシーサーについて、本気で分析・解説していきます。「読むのが面倒くさい」という方は、「富盛のシーサー絵付け体験」に参加すると、詳しく話を聞くことが出来ます。

沖縄にシーサーが置かれるようになったきっかけ

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今ではシーサーといえば、ペアになって置かれるのが一般的です。正面から見て右に置かれるのが、口を開けたオスで、災難を防ぐとされ、左に置かれるのが、口を閉じたメス。メスは福を招き入れるといわれています(諸説あります)。沖縄のシーサーはもともと中国の獅子、さかのぼるとエジプトのスフィンクスに由来するとか。今回の記事のミソはまさにこの部分。沖縄にシーサーがやってくるまでの経路です。

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沖縄に獅子像の文化が流入したのは13~15世紀と言われています。そして、獅子像が本格的に「村落の守り神」として置かれるようになったのが1689年。写真の「富盛の石彫大獅子」は今も、当時作られたそのままの姿で残ってます。獅子と言いつつも、これが沖縄の元祖シーサーです。

なぜ獅子像が富盛(八重瀬町)に置かれることになったのか。それは、この地区で火事が多く発生していたからです。困り果てた住民たちが風水師に相談したところ、風水師は「八重瀬岳(富盛のすぐそばにそびえる山)の方角に向かって、獅子像を置くように」と言いました。

琉球王国時代、風水師は政治への影響力を持つほど、大きな権力を持っていました。住民たちは「風水師さんが言うならば」と、言われた通り、八重瀬岳に向かって獅子像(シーサー)を置いたところ、なんと集落の火事は無くなったのです。

この噂が少しずつ口コミで広がり、沖縄南部の各集落に村落石獅子が置かれるようになりました。

ただ実際は、火事が無くなったのは事実ですが、権威ある風水師さんの言うとおりにして火事を起こしてしまったら、とんでもないことになる!と恐れた住民たちが、夜に火を使うことを止めたことが、火災撲滅の要因であると言われています(笑)

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シーサーについてもう少しだけ。この元祖シーサー、今と違ってオス・メスが対になって置かれているのではなく、1体だけで置かれています。そして、元祖シーサーはオスです。さすがに写真でご紹介することは出来ませんが、実物をよく見ると付いています。

ではいつから、今のようにシーサーが対になって置かれる様になったのでしょうか。

狛犬と獅子、シーサーの違い

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沖縄のシーサーは中国からやってきました。

これは日本の寺社などに置かれている狛犬にも共通しています。日本の寺社には左右に1体ずつ「狛犬」が置かれています… というのは間違い!対になって置かれた2つの像が両方とも狛犬ではなく、向かって左側が「獅子」、右側が「狛犬」となります。

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よって、正確には「口を開けた獅子像」が置かれていることが、日本の寺社にも共通している点であるといえます。

沖縄では対になった獅子像をオス・メスで区別していますが、日本の寺社では獅子・狛犬のように、全く別の生き物として認識しているということになります。

では次は、中国の獅子思想です。中国に獅子=ライオンが生息していた歴史はありません。中国には、インド・ガンダーラを経由して、アフリカからその思想がやって来たのです。つまり、沖縄のシーサーの起源を突き詰めていくと、やっぱりアフリカに辿り着くのです。

北アフリカ・西アジアと獅子の文化

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メソポタミア文明が栄えたユーフラテス川中流域の神殿からは、紀元前2千年初頭のものとみられる、青銅で出来た一対の獅子が発掘されています。発掘された一対の獅子像は現在、1体ずつ別の場所にあり、1つはフランスのルーブル美術館、もう1つはシリアのアレッポ国立博物館に保存されています。

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(写真はwikipediaよりボアズキョイのライオンの門。ヒッタイトの遺跡)

西アジアから北アフリカの地域では、古代から守衛の役割を持つ動物像が広く普及していました。そしてそれらの像は、神殿や王宮の外の両サイドに置かれていました。上の写真のヒッタイトの遺跡のようなイメージです。今の狛犬・獅子と同じような感じですね。

ちなみに、発掘された青銅の獅子像は神殿の内部に置かれており、守護とは異なる役割を果たしていたと考えられています。

ライオンが守護から聖獣へ

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(写真はwikipediaより)

メソポタミアやエジプトを含む古代オリエントでは、百獣の王「ライオン」が聖なるもの・守護神として聖獣化とされ、君主の座る椅子にあしらわれたり、墓所の守護として置かれたりしました。

つまり、先ほどご紹介した、神殿の内部で発掘された青銅の獅子像は、「聖獣」として置かれたと考えられます。

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(写真はwikipediaより)

エジプトの有名なスフィンクスも、ファラオ王の守護や権力の象徴として置かれたとされています。

古代エジプトの神殿の「ルクソール神殿」と「アメン神殿」をつなぐ参道の両脇には、たくさんのスフィンクスが並んでおり、「参道の両側に置かれる」という意味において、狛犬・獅子との親和性も感じられます。また、ギリシャ神話においては、スフィンクスが魔除けとして登場します。

ちなみに、古代オリエントの時代は紀元前4000年から紀元前4世紀まで、ルクソール神殿が建てられたのが紀元前14世紀頃と言われています。

インドのライオンと獅子文化

こうして古代オリエント(北アフリカ・西アジア)で聖獣化されたライオン(獅子)の文化・思想は、続いてインドへと流入しました。

ただ、ここまでまだ、沖縄のシーサーが「対になって置かれる」ことへの根拠には辿り着いてないですね。そうです、今は沖縄のシーサーの話をしていることをお忘れなく。シーサーはかなり奥が深いのです。

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(写真はwikipediaより)

今では「ライオン=アフリカ」というイメージですが、実はインドにもライオンは生息しています。かつては、現在のイラン・イラク・パキスタン・インドの南部地方に広く「アジアライオン」が生息していました。現在はインドのギル野生動物保護区に生息するのみです。

つまり、インドの人々は、アフリカから獅子文化・思想が入ってくる前から、ライオンを見たことがあったということです。

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インドでは紀元前5世紀に仏教が起こりました。開祖は今も有名な「お釈迦様」です。釈迦が生まれた時、一方の手で天を、もう一方の手で地を指差し、獅子吼(ししく/獅子のほえる、雷のような声)で「天上天下唯我独尊」と言ったそうです。

実はこのエピソードより、仏教でも獅子は神格化され、仏法の威力の象徴とされ、釈迦の付き添いである文殊菩薩が乗る神獣となりました。今も高僧の座る位置を獅子座といいます。

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(筆者がマレーシアで見つけた獅子像)

釈迦の死後、その教えを継承する過程で、仏教は多くの部派に分裂しました。その教えのひとつが上座部仏教です。また、仏教においてライオン(獅子)の像が作られるようになったのもこの時期とされています。

サールナート(釈迦が最初に教えを説いた地)にある、アショーカの石柱の柱頭には4匹の獅子が彫られています。アショーカ王というのは、紀元前3世頃のマウリヤ朝時代の王で、上座部仏教を保護した人物です。

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つまり、獅子像がつくられるようになった背景として、古代オリエントで広まっていた【ライオンを聖獣化する考え】が、釈迦の死後に一部の僧侶によって導入され、やがて一般化したいう流れが考えられます。

一方で、オリエントの影響は受けず、神格化された獅子が何らかのきっかけで像になったということも十分あり得ます。いずれにしても、ライオンはインドで「聖獣化・神格化」されました。

大乗仏教が中国へ

多くの部派に分裂した仏教は、各派の僧侶同士による論争から、次第に信仰を離れた学問になっていきました。きっと「釈迦の正しい教え」の根拠を巡る研究が盛んになったのでしょう。そうした風潮に対する批判として紀元前後から1世紀に起こったのが〈大乗仏教〉の運動です。

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戒律を守ることを重視する上座部仏教に対して、大乗仏教は釈迦の教えを広めることを目指しました。

3世紀にはシルクロードを経て、中国(西晋)に仏教仏典が伝えられました。こうした仏典の多くは、古代インドの標準文章語であるサンスクリット語で書かれており、インドの僧が中国人僧侶とともにその漢訳にあたりました。

その後も、インドと中国との間で僧侶の交流が盛んになり、5~6世紀の南北朝時代に、中国の仏教は急速な発展を遂げました。

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(マレーシア バトゥ洞窟 ヒンズー教寺院)

大乗仏教では仏像を作ることが盛んだったため、獅子像は上座部仏教よりも大乗仏教に多くみられます。また、インドや東南アジアの大乗仏教寺院の前には、獅子像が対になって置かれています。

また、仏教が興ったインドでは、その後仏教が広まらず、代わりに4世紀のグプタ朝時代にヒンズー教が興り、現在のインドで仏教はヒンズー教の一派とされています。

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ヒンズー教の寺院の前にも、獅子像が対になって置かれる場合があります。その後ヒンズー教は、6~7世紀に南インド、12世紀には北インド、その後、東南アジアへも広がりました。

ようやく、獅子像が対になって置かれる文化がみられるようになってきました。ただ、これらの獅子像の口は左右ともに開いています。

ここまでの流れを整理すると、獅子像は古代オリエント→インド?/仏教→インド?→大乗仏教→ヒンズー教(→東南アジア)・中国(→日本)です。

獅子の思想がいよいよ中国へ

インドからシルクロードを経て、中国にも『大乗仏教』と『ライオンを聖獣』とする考えが流入しました。

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古代中国では龍・麒麟・鳳凰・霊亀の4つの動物が、縁起のいい四霊獣とよばれ、平和な時代のみに出現するとされていました。獅子像はこうした中国古来の霊獣観と融合して「唐獅子」へと変化。

その後、中国では皇帝の守護獣として獅子像が定着しました。中国の獅子像は一対であっても、多くは両方とも口を開けて並んでいます。中国の獅子は「口を開けている」ということがポイントです。また、古代オリエントやインドとは異なり、獅子が聖獣・神格化されておらず、守護神として見られています。

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そしてもうひとつ、中国の『風水』にも注目する必要があります。wikipediaによると、中国に風水思想が生まれたのは紀元前ですが、その思想が盛んになったのは7世紀・唐の時代。

この時代になって陰陽説や五行説が、現代の「縁起がいい方角」のような風水思想が取り入れられるようになったのは、それよりさらに後のことなのです。

ここで考えられるのが、唐代の中国で風水思想と獅子像が融合したということです。獅子像は【魔よけの風水グッズ】として、ポピュラーな存在になりました。

獅子像、仏教とともに日本へ。狛犬の登場

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日本には遣隋使や遣唐使によって獅子像、同時に仏教阿吽の思想がもたらされました。日本の仏教は聖徳太子によってその基礎が据えられたと言われています。

仏典はサンスクリット語で書かれており、サンスクリット語の配列では「a(ア)」と「hum(フーン)」が最初と最後の文字にあたります。そこから阿吽には「物事の始まりと終わり」という意味が伴うようになりました。

口の形に注目すると「あ」と発するときときは開き、「ふーん」と発するときは閉じますよね。これが狛犬に派生するわけです。「ヴァァア」という口を開けた獅子像があるなら、「ヴゥゥン」という口を閉じた像もあった方がいいだろう。そんな感じだと思います。

狛犬が考えられたのは平安時代後期と言われています。聖徳太子の時代に獅子が流入したことを考えると、結構な年月が経っていますね。日本の狛犬は「神殿狛犬」あるいは「陣内狛犬」と呼ばれ、天皇の玉座を守る守護獣像として誕生しました。

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「枕草子」や「徒然草」にも獅子と狛犬が登場しています。といっても、当時日本にライオンはいません。

ちなみに、日本の動物園で初めてライオンを飼育したのは1902年の上野動物園です。それまで日本人のほとんどがライオンを見たことがないわけですから、「百獣の王」と言われてもピンとこないはずです。

でも、そのフォルムと牙のある顔は犬にそっくりです…というのが狛犬の始まりではないのかなと思います。これは想像です。正しいのかどうかは分かりません。

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狛犬は中国から朝鮮半島・高麗を経由して、日本に流入したという説もあります。高麗(こま)にいる犬だから狛犬。

ただ、ここまで辿ってきた獅子像の流れをみると、ライオンがベースにあるわけですから、「狛犬」は高麗の「犬」ではなく、あくまで「狛犬」という想像上の神獣(実在しない)のような気がします。

まぁ、それぐらい曖昧だということです。さらに、鎌倉時代以降になると、2つの像を一対とし、獅子像と狛犬をまとめて狛犬と呼ぶようになりました。向かって右側、口を開けているのが獅子で、左側の口を閉じているのが狛犬です。

沖縄の獅子像が対に置かれるようになったのはいつ?

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沖縄(琉球)に獅子が流入したのが13~15世紀ということを考えると、当時、もちろん中国にはすでに獅子像が存在しており、日本にも狛犬×獅子像が存在していたことになります。

沖縄の人々に獅子像を教えたのは風水師であることから、沖縄に流入したのは中国の獅子像文化です。これは、沖縄の元祖シーサー「富盛の石彫大獅子」が、1体の口を開けた像であることからも明らかです。

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富盛の石彫大獅子から始まった沖縄のシーサー文化ですが、はじめは富盛地区の火除けのための獅子像でした。もう聖獣でもなく、神格化もされておらず、守護神でもありません。

その後各集落で村落石獅子として普及していきますが、徐々に集落から悪霊を追い払うための「魔除け」の性格を帯びるようになります。

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沖縄の古民家の屋根の上には、獅子像が置かれていますが、これは18世紀の中頃が始まりと言われています。

18世紀以前の沖縄では、屋根に瓦を使っていいのは首里城や王府、役所だけで、一般の家の屋根に瓦を使ってはいけないという「禁止令」が出されていました。

1884年にその禁止令が解かれると、庶民の屋根の上にも瓦屋根が用いられるようになり、家の守り神としてシーサーも置かれるようになったと言われています。

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戦後になり、瓦屋根ではなく、鉄筋コンクリートの家になってからはシーサーを屋根の上に置くことは出来なくなりました。

沖縄のシーサーが阿吽のペアになって置かれるようになったのかについては、はっきりとした情報を見つけることが出来ませんでした。沖縄の家では、門の左右の柱にシーサーが置かれていますが、門そのものは戦前からある文化のはずです。

終わりに

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まさかの、ここまで綴っておいて結局分からんのかい!という結末になりましたが、ひとつ分かったことがあります。それは、獅子像が一般の家に置かれているのは、世界でも沖縄だけということです。庶民に寄り添った、優しい神様としてみてもいいでしょう。

そんな沖縄ならではの文化は、お土産としても人気になっています。

沖縄の元祖シーサー「富盛の石彫大獅子」に絵付けをする体験もあり、自分だけのシーサーをお土産に持ち帰ることも出来ます。

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今お申込みいただくと、こちらのガチ古民家でシーサー絵付けを体験することが出来ます。沖縄らしい体験をしたい方には、ぜひおすすめです。

~終わり~


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