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津川絵理子『和音』

『和音』は津川絵理子氏の第1句集。氏は本句集により、第30回俳人協会新人賞を受賞されています(『津川絵理子作品集I』著者略歴より)。

津川氏の作品の魅力として、取り合わせの巧みさはよく指摘されるところです。例えば、上田信治氏は以下のように述べています。

たびたび例に出しますが、津川絵理子〈つばくらや小さき髷の力士たち〉〈ひつそり減るタイヤの空気鳥雲に〉(『はじまりの樹』)。どちらの句も、取り合わされたものの要素が、どこをとっても響きあっている。読むたびに感覚的な歓びがあってすばらしい。

小澤實・上田信治「対談 新人輩出の時代 小澤實 × 上田信治」
『週刊俳句』2014年9月21日号
https://weekly-haiku.blogspot.com/2014/09/blog-post_56.html

「感覚的な歓び」とは、近すぎも遠すぎもしない、絶妙な季語が配されていることへの評価でしょうか。そのような取り合わせの句は、本句集にもいくつか見出すことができます。

あたらしき名刺百枚朝桜(I)

「あたらしき」とあるので、きっと転勤してすぐの時期でしょう。印刷されたばかりのインクでまだ馴染みのない新たな配属先が印字されている名刺がそろっていることと、朝に見る満開の桜が、不即不離の関係で響きあいます。「あたらしき」と「朝桜」のaの頭韻も心憎い。取り合わせの魅力を読むたびに感じられそうな句です。

ただ、本句集の取り合わせは、むしろ季語とそれ以外の措辞がひとつの景に収まっていくような、一物仕立てに近いような句の方が多いかもしれません。

春光や高跳びの背のおちてくる(II)
切株に樹液玉なす小春かな(II)
踏青や小石に弾む車椅子(III)

一句目、高跳びの選手の練習の様を見上げるように眺めていると、眩しいほどの春の日の光が目に入ってきます。二句目、森の中の切株に樹液が膨らんでいるという様を、小春日和の空気感の中で発見しました。三句目、萌えだした春の野で遊ぶ踏青を楽しんでいるからこそ、小石の上を通った車椅子がかすかに跳ねる様が生きてきます。車椅子に乗っている人も、それを押している人も、どこか楽しそう。これらの句は、季語とそれ以外の措辞が組み合わさることで、ひとつの素敵な景を作り出しています。

一物仕立ての句も魅力的でした。

水着きてをんな胸よりたちあがる(I)
くちばしの一撃ふかき熟柿かな(I)
初雀弾みて土のすこし飛ぶ(II)
苗札挿すわづかに天へ傾けて(II)

一句目は山上樹実雄氏による序文にも取り上げられていますが、〈胸よりたちあがる〉の描写によりこの女性の様子がよく見えてきます。二句目も〈ふかき〉の描写により、この柿についてしまったくちばしの跡(もしかすると種まで貫通しているかもしれません)がありありと想像できます。〈一撃〉も、この柿を啄んだくちばしの勢いや鳥の大きさを思わせて巧みです。三句目と四句目は季題が中心となりますが、土の描写や〈天へ傾けて〉の描写により、季題がいきいきと息づいているように思いました。

しかし、本句集を読んでいると、どこか不思議な感覚というか、独特のものの見方を持っている句も気になってきます。たとえば、次の三句。

香水の香の輪郭の来て座る(II)
今朝秋の新聞の香に葉をつつむ(II)
見えさうな金木犀の香なりけり(IV)

これらの句は、どれも「香り」を実体化しようとしています。一句目、〈来て座る〉のおかげで見えないはずの〈香の輪郭〉が主体には見えているような気がしてきます。二句目、〈新聞の香に葉をつつむ〉という表現により、新聞の紙が湿ったようなあの匂いに手触りが感じられてきます。三句目の〈香〉はまだ見えていませんが、とはいえ〈見えさうな〉と言うからには、もう少し木犀の香りに身をゆだねていれば不意に見えてしまいそう。

先に挙げた三句以外にも独特な感覚を持つ句は多く、自分は特に以下のような句に心惹かれました。

百合生けて壺より深き水と思ふ(III)
滴りの音まつすぐに胸へ落つ(IV)
腕の中百合ひらきくる気配あり(IV)

それぞれ〈壺より深き水と思ふ〉〈まつすぐに胸へ落つ〉〈ひらきくる気配あり〉に主観が濃く表れています。
一句目について、佐藤文香氏は次のように評しています。

津川さんは、いろんなものを、世界を、すごく「見る」人です。たとえば、〈百合生けて壺より深き水と思ふ〉は、自分の世界をこう捉えたという視点が対象の句。

佐藤文香編『天の川銀河発電所 Born after 1968現代俳句ガイドブック』
左右社、2017年、180頁。

この、対象を「見る」という感覚が、先に挙げた二句目・三句目になると、その対象を自分自身に取り込むような感覚になってきます。二句目は滴りの音が主体の胸の中に入っていくという句ですし、三句目も〈腕の中〉で百合が持っている生命感を感受しているわけです。この外界を受容するという感覚に、自分は強く惹かれました。

なお、句の表記は『津川絵理子作品集I』(ふらんす堂、2013年)に拠りました。引用ミスなどありましたら、ご連絡ください。