ベネデッタ

少女は両親の意向で修道院に入れられる。
彼女はとても信仰心が強く、「正しい」修道女に育った…はずだった。
ある女性との出会いで彼女は変化し「タブー」を犯す。
彼女は狂人なのか、聖人なのか…。

ウソだ・・・

これは悪者が死の間際ベネデッタに
「私は天国に行けるか、地獄か」と聞いて
ベネデッタが「天国に行ける」と言ったのにも関わらず、
「ウソだ」と信じないシーンなんです。

つまり神とは自分自身であり、
罪を罰するのは自分自身であり、
「本当のこと」は自分が知っているのであり、
偽ることは出来ないんです。

つまり信仰とは自分の良心との闘い
みたいな感じなんだろうなと思うんです。

悪者の彼はどんなに自分は悪くないと表面上ではつくろっていても
「自分が地獄に行く人間だ」ということを知っているわけです。

他にもベネデッタを苦しめる人物が死んでいくんですけど
ベネデッタが死に追いやったわけではないんです。
彼ら、彼女らが自ら、自らを罰していく、という状況になっていく。
「自分は罪を犯したから、これは罰なんだ」
というふうに思う状況になっていくんです。
そう思う、というのは「本当のことを自分が知っている」からでしょう。

後半、そういう罪と罰の連鎖みたいなものが起こって行って
キリストの磔刑のくだりのような展開に発展していくところは
もうすげ~としか言いようがないw

現代でも、全然ある状況だと思います。
誰にでも心当たりがあると思います。

子供ね

あともうワンシーン印象的だったんですけど、

最後「恋人」であるはずの彼女にベネデッタは「本当のこと」をかたくなに言いません。
これは「大人」の人なら分かると思うんですけどw
本当のことなんてどうでもいいからです。
何を信じたいかってことです。

でも本当のことにこだわる彼女はベネデッタに
「子供ね」
と言われるんです。

例えば「浮気じゃない」って言葉に真実なんかないじゃないですか
それを信じられるか、信じられないか。
真実を追いかけてもそれには答えがない、なのに正しい一つの答えを求めるという態度が「子供」なわけです。

そして彼女はベネデッタと別れて「成長」したってことなんだと思う。
彼女はベネデッタを常識的な目線で描き、かつ子供から成長するという物語として分かりやすい存在として描いてくれていて、だからこそ
満足するエンディングになるんだなぁと思いました。




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