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かつて僕たちがトモダチっぽい距離感だったのは、タイミングとか場所とかの絶妙な偶然が生み出したミラクルだったってことにします

今こんな感じ。①大学の時の同級生と遊びに行こうぜみたいなまぁまぁ社交辞令っぽい約束をして、それがまぁまぁ適当な理由で流(さ)れた。②大学の同級生と明日遊びに行く約束をしているんだけど、私が投げたラインに誰も返事をしないので何時にどこに集まるのか決まっていない。

低気圧だから普通に身体的なダルさもマックスなのだが、上記①②のようなことが発生する度に思うことがあるんだけれど、まぁ人と人との出会いって奇跡よね。学生時代の縁が貴重なのは、(i)水平的な平等が担保された状態で、(ii)所属を伴う「場」への拘束性を共有する体験が、人生の後段ではそうそう発生しないためであろう。大抵の場合条件のどちらかが欠けている。

学生は「空間」に縛られているから、そこに共同性が生まれるのだけれど、そこから解放されてしまった今、我々は会わなくても良いわけで、畢竟いてもいなくてもいいわけで、もっと言えば生きていようが死んでいようが知ったことではなくて、そのことをうまく隠蔽しながら、冠婚葬祭のようなセレモニーをこなしていくのがオトナなのだろう。

あるいは。これは、単に人々から私が忌み嫌われているからなのだろうか。みんな、どこで本気出してんだろ。少なくとも私とのインターフェースに関してはみんな本番じゃない感じで接してくるよ。「ちょっと明日があるので…」みたいな。いや、明確に抜いてくんなや。そう思うと、誰の人生にとってもお新香くらいの存在感くらいしかない気がして虚しくなるね。

自分の周りにいた人間との、絶妙な距離と温度感を懐かしく思い出す。と同時に、私がいてもいなくてもちゃんと回っていたであろう、あの団体とか、あの時間とか、あの空間の、ジトーッとした感覚が、自分の人生を先々まで曇らせていることを実感する。誰かの人生の必要なピースになっている感覚って、みんな持っているのかな。消費財。おまけ。車海老のアタマ。おれはたまにマァマァしんどくなるけど、みんなはどう?

まぁきっと、かつて僕たちがトモダチっぽい距離感だったのは、タイミングとか場所とかの絶妙な偶然が生み出したミラクルだったのかもね。席替えの時斜め後ろにいたからとか、サークルの飲み会で同じ座組みにいたからとか。そんな感じの距離感で良いから、少しはそういう関係が、未来にも残るといいなって思うよ。街中である日突然取り壊されたビルの造形って、思い出せないことが多いけど、私はみんなが突然いなくなっても、確かに存在していたなんとない一瞬を、きっと忘れないように努めるからサ。

でも、来世はシャチとかになりたいかも、シャチはそういうのウジウジ気にしない気がするし。いや、シャチはシャチなりにあるのかな、色々。海洋哺乳類くらい知能が発達しているといじめとかもあんのかもね。まぁ、とりあえずなってみるんで、俺が死んだらシャチになったと思ってください。

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