見出し画像

作曲家筒美京平と作詞家松本隆。


1.前提

書こうとしたきっかけは、生田絵梨花が筒美京平トリビュートアルバムで「卒業」を歌った事です。

画像4

作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:武部聡志 歌手:斉藤由貴
1985年2月21日 リリース

生田絵梨花が「筒美京平トリビュートアルバム」の1曲「卒業」に選ばれたのは、この企画の総合プロデューサー武部聡志氏の推薦によります。
そのあたりの件については、下記の2つの記事をご参照ください。
乃木坂の曲のドラマを妄想する#5-1 
「乃木坂らしさ」を言語化できないの #8

斉藤由貴と生田絵梨花tv32

生田絵梨花の歌唱録音はなんとあの「音楽プロデューサー亀田誠治さん」でした。ほぼ一発撮りでOKとなり、生田絵梨花のプロとしての心構えに大絶賛 頂いたようです。
テーマ7:生田絵梨花は群盲に撫でられる象?

卒業レコーディング5

その後、2021年5月の日比谷野音に出席して、「君の名は希望」と「卒業」を歌いました。
「君の名は希望」は亀田誠治さんが引きいるまるで東京事変の様な豪華バックバンドの中、キーボードの弾き語りで楽しそうに歌ってました。
「卒業」は武部聡志さんがキーボードで加わり、ボーカル一本で歌ってました。コロナ禍で無観客だった事が本当に残念です。行きたかった!

日比谷野音生田12




2.筒美京平氏は、職業作曲家として2700曲

■ せっかくなので、J-POPの元祖とその以前に音楽市場を席捲していた職業音楽家の二人筒美京平と松本隆氏を取り上げたい。

筒美 京平 プロファイル 『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本の作曲家、編曲家
1940年〈昭和15年〉5月28日 - 2020年〈令和2年〉10月7日)
筒美音楽事務所(個人事務所)代表(神奈川県逗子市所在)
本名は渡辺 栄吉(わたなべ えいきち) 既婚。
東京府東京市牛込区(現:東京都新宿区)出身。
青山学院大学経済学部卒業。 2003年、紫綬褒章受章。
弟は音楽プロデューサーの渡辺忠孝。
活動の概要 『ウィキペディア(Wikipedia)』

1960年代後半のグループ・サウンズ、その後は歌謡曲、アイドル歌謡曲、J-POP、『サザエさん』に代表されるアニメ主題歌等の作曲と、非常に幅広いジャンルにわたる多数のヒット曲を世に送り出した、昭和後期から平成期を代表する職業作曲家。
1971年、1972年、1973年、1975年、1976年、1981年、1982年、1983年、1985年、1987年と10回にわたって日本の作曲家別レコード売り上げ年間1位を記録。また作曲作品が、1960・1970・1980・1990・2000年代と、5年代連続でチャート1位を獲得。1960・1970・1980・1990・2000・2010年代と、6年代連続でTOP10にチャートインしている。
実績数字

・作曲作品の総売上枚数は7,560.2万枚(オリコン)で作曲家歴代1位。
 別名義での作曲作品の売上枚数を加算すると7,600万枚を超える。

・編曲作品の総売上枚数は3,747.1万枚(オリコン)で編曲家歴代4位。
・最大のシングル売上 累計で約200万枚 「魅せられて」 1979/02/25
   歌手:ジュディ・オング  作詞家:阿木燿子

・JASRACに登録されている2709曲(2020年4月20日現在)
来歴 『ウィキペディア(Wikipedia)』

幼稚園からピアノを始める。青山学院初等部・青山学院中等部・高等部、青山学院大学経済学部卒業。大学在学時はジャズに打ち込み、大野雄二とも面識があった。
大学卒業後の1963年に日本グラモフォン(後のポリドールK.K.→ポリグラムK.K.→ユニバーサル ミュージック ジャパン)に入社。洋楽担当ディレクターとして勤務する傍ら、大学の先輩である作詞家の橋本淳に勧められ、すぎやまこういちに師事し作編曲を学ぶ。
1966年8月、「黄色いレモン」(藤浩一ほか、競作)で作曲家デビュー。1967年から専業作家となる。ペンネームは鼓(つづみ)が平らに響くという意味から「鼓響平」を考えていたが、「真ん中で折った時に左右対称の名前は縁起がいい」という意見があり、文字を左右対称にするために「筒美京平」とした。
1968年12月に発売されたいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」が、筒美の作曲では自身初のオリコン週間1位を獲得。自身が作曲・編曲で日本レコード大賞を受賞した曲は、1971年、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」第13回日本レコード大賞と、1979年、ジュディ・オングの「魅せられて」第21回日本レコード大賞である。
1970年代の吉田拓郎ら、シンガー・ソングライターの出現には脅威を感じたが、物ともせず、ヒット曲を世に出した。

筒美京平さんと作詞家の橋本淳さんやすぎやまこういちさんとのなれそめ、初めて知りました。
2021年9月30日

★ 年代別に代表曲を挙げてみる

画像6

・生田の「従伯父(ジュウハクフ)父親のいとこ」である佐久間正英氏が
  近藤真彦の「ミッドナイト・ステーション(松本隆)作詞」
  小泉今日子「まっ赤な女の子(康珍化作詞)」
 の編曲で関わっていました。

佐久間さんと生田20


★ 筒美京平氏と共作した作詞家の変遷

筒美さんと作詞家の年表3

・初期の頃から歌謡曲が主流
・初期の頃グループサウンズへの提供も
・レコード大賞取ったのは1970年カントリー&ウエスタンの尾崎紀世彦に歌わせた「また逢う日まで」はかなり欧米色の強い楽曲であった。
・郷ひろみを始め当時人気になりだしたジャニーズへの提供は多かった。
・女性アイドルも多く提供したが、松本隆と組んだ「木綿のハンカチーフ」は業界の転換点になった。それ以来、松本隆と組んだ黄金コンビがヒットを量産した。
・1990年代以降ヒット曲は生み出せなくなった。50歳代になって時代をとらえきれなくなったのだろう。



3.同時代を生きた9才年下の松本隆

松本隆 東京都港区青山出身 1949年7月16日(現在72歳)

松本隆 プロファイル 『ウィキペディア(Wikipedia)』
1949年7月16日 生まれ。
日本の作詞家、ミュージシャン。
ロックバンドはっぴいえんどの元ドラマー。
東京都出身、現在兵庫県神戸市在住。

父は大蔵省の一般官吏。東京都港区にある「財務省 青山公務員宿舎」で生まれた。
港区立青南小学校(みなとくりつ せいなんしょうがっこう)、慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校卒業。慶應義塾大学商学部中退。
生まれ育った南青山を基点として、多感な時期に多くの時間を過ごした乃木坂や麻布、六本木や渋谷界隈の範囲を「風街」と呼び、心の拠り所として愛している。
活動の概要 『ウィキペディア(Wikipedia)』

1970年代後半までに手掛けた特筆すべき仕事は、1975年の「木綿のハンカチーフ」の作詞ぐらいであるが、1978年に一連の原田真二作品の作詞を手掛けて世間に知られるようになった。
松本自身、「1970年代後半は歌謡曲の駆け出し。駆け出しといっても、78年頃にはトップの方にいた」と述べている。

筒美京平とのコンビで中原理恵「東京ららばい」、桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」、近藤真彦「スニーカーぶる〜す」など、合計380作品(概数)を手掛ける一方、1980年代よりはっぴいえんど時代の仲間たちとその後のティンパンアレイを通したシティーポップの仲間たちを歌謡界に呼び寄せ、ヒットメーカーとしての快進撃が始まる。
ミリオンセラーとなった細野とのイモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」や大瀧の大ヒット・アルバム『A LONG VACATION』、第23回日本レコード大賞を受賞した寺尾聰の「ルビーの指環」、そして松田聖子の24曲連続オリコン1位中17曲を手掛けるなど、阿久悠に代わり歌謡界で一時代を築き上げた。

松本隆作家売り上げランク8

松本隆楽曲売上10



4.二人の共通点

職業作曲家筒美京平氏とカウンターカルチャー出身の松本隆氏は、来歴が違うが職業作家という事=ヒットを期待される創作者という共通点があります。

今でこそ、自作するのは当たり前ですが、1960年代~1970年代に曲を自作できる人は少なかった。海外のサウンドを手に入れる環境が少なく、東京でもド真ン中に住んでいた人々がそういう事ができた。
筒美京平は、東京府東京市牛込区(現:東京都新宿区)出身。青山学院大学経済学部卒業。
松本隆は、南青山出身慶応大学中退。細野晴臣は、東京都港区白金出身。立教大学卒業。
現在でも日本一おしゃれな地域であり、青山大学、慶応大学、立教大学は今でもお坊ちゃん大学であり、幼少時から海外の音楽を聴いてきた環境に居たという事が非常に大きい。


5.シンガーソングライターの創出期

戦後経済発展があって消費者の意識が変化して田舎出身の自作アーティストが喰える環境が整った事で、フォークソング&ロックブームを作った。
特に、『ヤマハポピュラーミュージックコンテスト ※10』から音楽に興味が有って才能がある人が出現した。

※10『ヤマハポピュラーミュージックコンテスト』
『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヤマハ音楽振興会の主催で1969年から1986年まで行われたフォーク、ポップス、ロックの音楽コンテストである。略称「ポプコン」(POPCONとも)。後に年2回開かれるようになった。グランプリ優勝者には自動的にレコードデビューが約束され、世界歌謡祭の出場資格を得ることができた。もともと第5回まではプロを対象にしたコンテストで、アマチュア向けのプロへの登龍門として開催されるようになったのは第6回からである。

1970年代のニューミュージック全盛期に注目を集めたが、1980年代のバンドブーム、J-POPへの移行とともにこの名称での大会は終了。1987年以降は世界最大のアマチュアバンドコンテストBAND EXPLOSIONやTEENS' MUSIC FESTIVALに受け継がれ、さらに2007年には「MUSIC REVOLUTION」と名称を変更した。

大会の模様はフジテレビで編集版を放送していたほか、関連協賛番組として、『コッキーポップ』をフジテレビとのつながりが深いニッポン放送他、NRN地域基幹局を中心にネットしたラジオ版と、日本テレビ系列全国ネットで放送されたテレビ版が放送された。
【主な出身者】
オフコース、赤い鳥、井上陽水、上田正樹、小坂明子、葛城ゆき、庄野真代
八神純子、松崎しげる、中島みゆき、世良公則&ツイスト、佐野元春、
長渕剛、円広志、チャゲ&飛鳥、 C・W・ニコル、クリスタルキング、
杉山清貴&オメガトライブ、あみん、辛島美登里

★ ヤマハは『ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』でも大物を輩出している。

【特記事項】
ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト
ヤマハ音楽振興会主催による音楽コンテストの名称。1967年(昭和42年)から1971年(昭和46年)までの5年間行われた。
コンテストの概要
このコンテストは、全国各地で行われた地区予選を勝ち抜いたアマチュア・バンドが東京で行われる全国決勝大会(会場は東京厚生年金会館)に出場することができた。 V.G.S(ヴォーカル・グループ・サウンズ)、ロック、フォーク、ジャズ・コンボ、フルバンドの5部門に分かれて審査され、最終的にその5部門から1組のグランプリが選ばれる。
ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト 有名な出身者

・ダウンタウンズ(吉田拓郎) - 第2回全国大会V.G.S部門第4位。
赤い鳥 - 第3回(1969年)全国大会フォーク部門グランプリ。
オフコース - 第3回全国大会フォーク部門第2位。
メンバーの小田和正はこの大会で最優秀歌唱賞を受賞。当初はグランプリを獲得したら解散することになっていたが、赤い鳥がグランプリを獲得したことで、プロとしての第一歩を踏み出すこととなった。
チューリップ - 第4回(1970年)全国大会フォーク部門第2位。
メンバーの財津和夫は、前身のザ・フォーシンガーズで第3回全国大会に出場し、6位入賞。


★ TVで洋楽のMVが見れちゃう時代になった

1980年代になって、海外ヒットチャートがTVでも見れるという衝撃(小林勝也のベストヒットUSA)もあって、英米のサウンドクリエーションを取り入れられる事になってから、誰もが曲つくりを行える下地が出来上がって、発表の場所として「路上ライブ」が大勢出現してきた。

ベストヒットUSA  『ウィキペディア(Wikipedia)』

1981年4月、テレビ朝日系・ブリヂストンの一社提供番組『Bridgestone Sound Highway ベストヒットUSA』(ブリヂストン・サウンド・ハイウェイ - )として番組スタート。アメリカで人気を集めるポップスやロックにスポットライトをあて、最新のヒットチャート、注目の楽曲の紹介をプロモーションビデオを交えて放送し、深夜の時間帯にもかかわらず人気を博した。


★ ニューミュージックと言われる時代にも生き残った二人

フォークとかニューミュージックとかロックとか英米のポップカルチャーをベースにしかも曲を自作するという事で、職業作家の活躍の場を奪ったともいえる存在になりました。
そんな時代にも筒美京平と松本隆以降は生き残ってヒット作を作って来た。凄くないですか?

松本隆は、「はっぴいえんど」で既存の音楽を追い詰めた側出身なのに、職業作詞家として大成功した。不思議じゃないですか?
それは、筒美京平が時代にしがみついて『ヒット作曲家』のポジションをだれにも渡したくなかったから、特に時代の先を歩いていた『筋が良い松本隆』を取り込んだのだろうと思います。
しかし、初めは筒美京平氏と松本隆氏とが反発しあったというのは、本当に当時の状況から面白かったです。


下記に続く

松本隆は歌謡曲時代からJ-POPの創設に関わった元祖の一人。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?