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レッズ少し隠れた名選手たち20「ペトロヴィッチ」(リクエスト)

数々の名選手達によりクラブの歴史が作られてきた。
ここでは、実力も実績もあるけど、歴代ベストイレブンにはなかなか名前が出てこない。そんな選手達を勝手に独断と偏見で紹介していきたい。


第20回はペトロヴィッチ選手

ゼリコ・ペトロヴィッチ
1965年11月13日
モンテネグロ(旧ユーゴスラビア)出身
MF
1997年〜2000年
公式戦 71試合4得点
背番号 37-6
前所属 PSVアイントホーフェン(オランダ)
移籍先  RKCヴァールヴァイク(オランダ)

W杯にも出場した「闘将」ペトロ

ユーゴスラビア代表として18試合に出場。ディナモ・ザグレブ、セビージャ、PSV等、各国の有力クラブチームを渡り歩き、現役ユーゴスラビア代表としてレッズにやってきた。
派手さはないが堅実な技術、MF全般だけでなくSBもこなすユーティリティ性と戦術眼、そしてなによりけっして試合を諦めず、熱い気持ちを全面に出す闘志。加入時すでに32歳だったが、試合終了までピッチを走り回る体力と精神力、献身性を備え、福永泰や小野伸二、ベギリスタインといったスマートでテクニカルな選手が多いチームにおいて、ペトロのキャラクターは際立っていた。

97年。Jリーグ最終戦をもって引退、退団したギド・ブッフバルトと入れ替わりでチームに加入。
残された試合は天皇杯のみで、これは来季に向け早くからチームにフィットしてほしいという期待があってのことだろう。天皇杯でのNTT戦(!)でデビュー&フル出場&初得点&初イエロー。初めかららしさ全開だった。

98年。背番号が37からギドが着けていた6に。シーズン開幕から主に守備的な中盤の位置でレギュラーとして活躍。2ndステージ開幕戦では2ゴールを決めた。中盤の底で力強いプレーを見せ、味方を鼓舞し2ndステージ3位に大きく貢献した。
一方で、熱さが悪い方向へ行くこともあり、シーズン通して警告6回、退場3回。出場停止が4試合あった。
また、この年にフランスワールドカップが行われ、ピクシー(ストイコビッチ)らと共にユーゴスラビア代表として選出。浦和の選手がワールドカップの本大会に出場したのはこの時が初めてだった。
ペトロは4試合に左サイドバックとして出場した。

99年。前年天皇杯での退場により、まさかの開幕戦は出場停止(!)。2.3節は延長含めフル出場するも3試合目でイエロー2枚で退場。結局1stステージ15試合中7試合の出場にとどまった。2ndステージは安定した出場を続けるもアウェイ鹿島戦で1発退場。その後は怪我もあり、降格の二文字が現実的になる中先発での貢献ができなかった。
それでも11月17日ジェフユナイテッド戦。途中出場したペトロは終了間際、センターでルーズボールを奪取しそのままドリブル、左に開いていたチキ・ベギリスタインに見事なスルーパスを通し福田正博の決勝ゴールをお膳立てした。この試合で残留をグッと引き寄せた…はずだったが、最終節で無念の降格。ペトロは泣き崩れ、ピッチに倒れ込んだ。

2000年。J2での戦い。ペトロ34歳。開幕からスタートダッシュを決めたチームに先発として貢献。フル出場は少なくなるも、熱い闘志は変わらずチームを盛り立てた。しかし15節で負傷、その後欠場が続いた。7月、負傷後約2ヶ月後に復帰してからは先発フル出場を続けるも9月に「家庭の事情」で退団を発表。
大宮とのダービーに出場後退団セレモニーが行われた。

多くのサポーターが涙を流し、それ以上にペトロ本人が泣いていた。

退団後は家族のいるオランダのクラブへ移籍。
すでに35歳になる年だったが、4シーズンで98試合に出場。最終年でキャリアハイの31試合。引退試合も行われたようだ。


本文では触れなかったけど、ペトロは監督としてレッズに帰ってきた。が、結果は散々。
就任が決まった時は不安と期待が入り混じった。
外国人のOBと言えば、ギドブッフバルトという成功例がある。しかし、もし結果が出なかったら?
今回は不安の方が当たってしまった。
ペトロを責めたくない、悲しそうな顔を見たくない。でもサッカーも成績もひどく、色々な意味で苦しいシーズンだった。降格しなくて本当に良かった。
監督としてのイメージが強く、ネガティブな印象を持っている人も多いだろう。
でも、喜びも怒りも悲しみも全て常に100%で、浦和を愛し、持てる全てをピッチで出してくれた、そんな選手だったということが少しでも伝わると嬉しいな。
また会いたい!

(監督としてはちょっと様子を見よう)

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