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レッズ少し隠れた名選手たち22「土田尚史」(リクエスト)

数々の名選手達によりクラブの歴史が作られてきた。
ここでは、実力も実績もあるけど、歴代ベストイレブンにはなかなか名前が出てこない。そんな選手達を勝手に独断と偏見で紹介していきたい。


第22回は土田尚史選手

土田尚史
1967年2月1日
岡山県出身
GK
1989年(三菱)〜2000年
公式戦 183試合
背番号 1-22
前所属 大阪経済大学-三菱
移籍先 引退

大声で盛り立てたレッズ初代守護神

総評
シュートストップなどの技術はもちろん、スタンドまで届くコーチングで最後尾からチームを支えたレッズ初期のゴールキーパー。
後に多くの実力派GKを送り出す浦和レッズの初代守護神が土田尚史だ。
若くして正GKになっただけでなく大学在学中に日本代表に選出されるなど評価は高く、同じ年に生まれたライバルである田北雄気と激しいポジション争いを繰り広げながらチームを支えた。

1989年
前身である三菱に加入。
3年目にはポジションを得ていた。

1992年
浦和レッズとして挑んだリーグカップ、天皇杯全てにフル出場。

1993年
Jリーグが開幕。サントリーシリーズ開幕試合からスタメンが続くが、チームが弱すぎ全く勝てない。第3節を除き14節までスタメンだった土田だが、その間僅か2勝。無失点はまさかの0だった。
15節から田北にポジションを明け渡す。するとチームは4試合中2試合を無失点。以後ニコスシリーズも含めて田北と途中加入のミロがゴールを守った。

1994年
サントリーシリーズ開幕戦から正GKに返り咲き、全試合にスタメンフル出場。しかしチームの弱さは変わらず、初完封は17節フリューゲルス戦だった。
ニコスシリーズでもポジションは譲らず、欠場はイエローカードの累積による出場停止の1試合のみ。
またこの夏に加入したギド・ブッフバルトの存在も大きく、完封や勝利も増えていった。
なお3シリーズ連続最下位だったがこのニコスシリーズで初の最下位脱出(ブービー)

1995年
サントリーシリーズは当たり前のようにフル出場。
ニコスシリーズも、数試合を田北に譲ったがほぼ全てに出場した。
そしてチームは大躍進。ギド・ブッフバルトが守り、ウーべ・バインがチャンスを作り福田正博が決める…サントリーシリーズは3位、ニコスシリーズは6位となった。

1996年
前年の好成績を受け期待が持たれたシーズンだったが、土田は開幕前に負傷。この年出番はなく、一年間ゴールを守ったのは田北だった。

1997年
土田と田北の本当のポジション争いが始まる。
土田尚史14試合、田北雄気18試合。

1998年
土田尚史17試合、田北雄気17試合に出場。
綺麗に出番を分けあった。

1999年
監督は前年から引き続き原博実だったが、開幕からポジションを得たのは田北だった。
1stステージ、土田はほぼ全ての試合にベンチ入りしたものの出番はなし。
2ndステージではベンチ入りもならず、安藤や西部といった若手にも抜かされてしまった。
チームはまさかのJ2降格。土田は一切の出番がないまま降格という悔しいシーズンとなった。

2000年
J2での戦いとなったが、正GKは田北、若手の安藤と西部も評価は高く、土田はコーチ兼任という立場でチームに残留。ほぼ出場の可能性がない中選手としてかなり複雑な思いを抱えながらのシーズンになった。
チームはなんとか最終節で再昇格を決め、土田尚史は引退を決意。最終節のセレモニーで引退を聞かされたという土田の子供達は目を真っ赤にして泣いていた。

引退後はそのままコーチとしてチームに残った。




大きな声と闘志溢れるプレー。土田尚史は当時のレッズの象徴だったように思う。
サッカー人生のライバルとなった田北雄気はどちらかというと冷静なタイプで、そういう意味でも面白い2人だった。
土田の引退後、守護神は西部を経て山岸と都築という2人の名キーパーがこれまた激しいポジション争いをすることになるが、「そう!これぞ浦和のGK!」と思ったサポーターは多かったと思う。
2022現在、ここ数年西川周作の牙城が崩れることは
ほぼなかったが、また次の世代、素晴らしいゴールキーパー達が目をギラギラさせて隙あらばポジションを奪うような激しい争いを見てみたい。
そしてその時また思い出すだろう「こんな感じだったな土田と田北も…」と。


それはそうとスポーツダイレクターになった土田さん。3年計画は上手くいかずこの先どうなるか不明だけど、よろしくお願いしますよ。

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