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あと一歩は踏み出さないという選択

彼の瞳に私が映る瞬間が、今まで生きてきたどんな快感より心地よく感じられた。ただその奥に自分を映し出していればこの上ない高揚感に包まれていられる。

たとえそれがどんな形であれ。

「ああ、俺ね、また別れたよ」
あっけらかんと赤裸々な事情を話し出す彼に、些か呆れ果てた声色が漏れる。

「また別れたの、懲りないわね。今回はどんな理由で?」
「少し放置しただけだよ、ほんの1ヶ月」

うすら笑みを浮かべてそう告げる彼の顔を見たのは、もう何度目のことだろう。女を取っ替え引っ替えしているこの男のどこが良くて、いなくなる側から新しい女が出現してくるのか、社会の小さな謎は一つ、ここにも存在している。

そんな下らない疑問ばかりが頭を過りつつ、満更自分も人のことを言えた義理ではないな、と彼にわからない程度の笑みを漏らす。

確かに見栄えは良い、整った顔立ちに背も平均より幾分高く、女性ウケしそうな細身の体型。クールな態度は女心の何かを擽るのかもしれない。

+α、自分や彼のような高校教諭と言うお堅い職種の安心感は、女性の心に閉ざされた型結びの紐を緩ませる秘密があるのやも。

そんな事が頭を駆けながら、下げていた視線を彼に戻した。その通じる先で視線が重なるとは思いもよらず瞬間胸がざわめいた。
覗いた瞳の奥に映し出された自分の顔が、酷く女の顔をしている事に気がついて、咄嗟に眉間を寄せて不機嫌な態度を取ってしまった。

「なに」
「いや、俺もお前みたいな堅物を好きになれたら楽だっただろうにな、と」

教職員専用のグレーの椅子から重い腰を持ち上げながら呟いた言葉。自分の中で堅く閉ざされたパンドラの箱が開きかけそうになる気持ちを必死で押し殺した。

「私は、アンタが大嫌いよ」
「はは、そりゃ失礼しました」

これ以上の台詞も思いつかず、寄りかかった椅子から立ち上がり、扉へと向かった。彼の視線を背中に浴びながら一歩一歩踏み出して行く。

このまま、このままでいい。こうやって彼の視線を浴びてさえ居られれば私は生きていけるのだ、と。

──────────────

じゃあサヨナラ、と彼女は告げた。

呆気ないエンディング。

何のことはない、彼女に正面から向き合えていない俺のせいだ。何時もと同じ始まり、何時もと同じ別れ、一方的に迫ってきては自分の理想を押しつける女達。

俺と言う人間は、別にアンタらの為に存在してるわけじゃない。愛なんて言葉は耳障りだ。

キーボードを叩く指をぴたりと止めた。誰かが教室の扉を開けたのだ。きちんと纏めた長い髪を揺らして、見知った女がそこに立っていた。

同僚であり友人とも呼べる彼女は、今日も今日とて、朝礼の前の僅かな時間をよくここで過ごす。

ぼんやりと話す他愛のない会話。差し込んだ朝日が妙に暖かく眠気を誘う。

「ああ、俺ね、また別れたよ」

恒例行事でもあるように近況を報告する。みるみる変わる彼女の表情を、片手で付いた頬杖の上でみやる。
嘲る様な言葉と視線とで見据える瞳がおかしくて、くつりと喉奥を鳴らした。

「また別れたの、懲りないわね。今回はどんな理由で?」
「少し放置しただけだよ、ほんの1ヶ月」

細身の体は椅子に寄りかかったまま腕を組み、艶やかな黒髪がゆらゆらと朝日に反射しながら揺れていた。
不意に触れたくなる衝動は心の中に留めて、取り敢えずな返答を優先する。
幾ら手を伸ばしても届かないものはある。
寄りいっそう遠くに行かないよう留めるだけで自分には精一杯なのだ。
無意識に言い聞かせながらも、思うように言うことを効かない瞳は、気付けばただ彼女を一心に見つめていた。

「なに」
「いや、俺もお前みたいな堅物を好きになれたら楽だっただろうにな、と」

冗談めかして、瞼を伏せた。笑っているように見せかけて彼女に何かを気付かれたくないと焦った。

「私は、アンタが大嫌いよ」
「はは、そりゃ失礼しました」

笑みを含ませお決まりのように告げる台詞に心の中では安堵していた。
変わらない日常。そう、これでいい。この気持ちに名前はいらない。黒いパンプスのヒールが音響かせ、部屋を去る彼女の背中を見つめながら、何回目かも分からない結論に辿り着き、胸をなで下ろしていた。

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