貴方を形作るもの。
私は自分の名前があまり好きではない、という話をしようと思う。
小学生の時「自分の名前の由来を家族に聞きましょう」という宿題が出た。
今にして思えば色々な家庭がある中、自分のルーツを知る事を学ぶためではあったけれど、難しい宿題ではなかったのかと思う。
それまで自分の名前に意味があるかどうかなんて考えたこともなかった私は、早速その夜父親に問いかけた。
「ねえねえ、私はなんでこの名前なの?」
暫く沈黙した父親は面倒そうに
「かわいかったから」
と答えた。
幼心にも分かった。その答えに愛がない事。
深い考えもない事。
立て続けに「じゃあ姉の名前はなんで?」と聞くとそれに間髪入れずに答えが帰ってきた。
「かわいかったから」
今思えばこの頃の父はもう私達に別段の興味を持っていなかったのだろうと思う。
本来はちゃんと考えて付けていたのかも知れないが、この受け答え自体が全て面倒で、今見ている野球中継を邪魔されたくない、とかその程度の適当な返答だったのだろう。
「そうなんだ」
しつこく聞くことも無く(聞いてもどの道苛立たせるだけでその他の答えはなかったように思う)その晩は終わった。
次の授業中、クラスメイト達は様々な言葉を使って自分がどうやって名付けられたかを語っていた。
漢字一文字一文字に込められた意味、願い、愛情。それを一人一人聞きながら、私は酷い劣等感に苛まれた。
世の親たちは自分の子供に色々な気持ちを込めて名付けているのだ。それには全て意味があって、理由があって、願いがある。
それが「普通」なんだと知らされた。
それ以降父にその話をする事はなかった。
あの頃の私は父に何かを聞くことをほとんどしなかった。今はそれを少し後悔している。
父自身の事や、母の事、私達の事。
もう誰にも知ることの出来ないストーリーが、きっと父もあったはずだけれど、あの頃の子供の私にはそれを聞く術も理解する力も無かった。
だから、私の名前の理由は今も薮の中にあって、ただかわいいだけのままになっている。
なんの意味もなく、なにも込められていない形だけの「わたしを判別するもの」でしかない。
それが少しだけ寂しい。
私の頃と違って今は色々な名前が増えたように思う。パッと見、私には理解できない名前も沢山ある。でも、その分その一つ一つにきっと親達の愛が詰まっているのかなと思う。
良かったら貴方の名前の由来を、今度私に聞かせて。
余談だけれど、私の姉は自分の娘に、自分の母の名前を付けた。私達は母の事を殆ど覚えてない。でも、母が傍にいてくれた事は覚えてる。
貴方のそのそういう所が好きだよ。
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