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10年

東日本大震災が起きてから、10年が経とうとしている。

何となく、3/11に限って皆で思い出すみたいな空気も苦手だから、このタイミングで気持ちの整理をしてみる。

当時、僕は高校を卒業して、大学の陸上部の寮に早々に入寮しており、先輩たちと仲良くゲームをしていた。

そんな中、震災が起きて、当時は「へー」くらいだった。宮城県東松島市に残した家族は父、母、姉。

姉からは「二階こんなちらかったよ~」と、写真付きのメールがあったため安堵。

テレビで東北が大変になっていることは知っていたが、リアルタイムで地元の東松島市の様子がが写し出させることは無く、何も知らない僕は一安心していた。

1~2日後、午前練を控えていた僕は、親とやっと携帯電話がつながる。ほんの、練習数分前。

「沙織ちゃん(姉)と連絡がとれない」

そんな予想外のことを聞いてしまった。

自分の家族が亡くなるという発想があまりにも無さすぎて、平然とした心境で、

「大丈夫だよ、直後におれ写メ付きで連絡来たし。どっかに避難してるんだと思う」

と、親に返答。

電話を切ってから、すぐに、そんな訳ないと自分の頭で理解した。泣いた記憶も少しある。

それでも練習は行った。

そしてその夜、親から姉の遺体が見つかったと連絡が来た。

やっぱりという感情で、何故か冷静に受け止めた。

とはいえ、めちゃくちゃ大声で泣いたことは覚えている。

後日談だけど、僕の家は全壊で一階だけが全て流されており、二階までは浸水していなかった。

姉は二階にずっといれば助かったのに、どうやら家の外にいる人を助けようとしたらしい。

その後運良く、すぐに東京の親戚と車で宮城まで帰り、

数日間、親戚の家で避難している家族と一緒に過ごした。

泣いている親をみたら泣く気になれなくて、悲しいという感情にはならなかった。

というのも、あまりにも悲惨な現場であったため、東京から何も知らない自分が震災後のこのことやってきて、当事者と同じ心境でいていい訳がない、と思った。これは自然とそう思えた。

父と母と3人川の字で、電気も付かない寒い部屋で、姉の思い出話をしながら泣きながら寝た。

これ以降、泣いた記憶は無い。

そしてすぐ東京へ帰るわけだけれども、
悲しいという感情は中々訪れなかった。

無理しているわけでもなく、本当に悲しく無かった。

東京があまりにも別世界すぎて、フラッシュバックする要素が無かったこと、

そして何より、仲間が寮にいたことが幸いだった。

練習の帰り道、竹内一輝さんが「今日の昼おごってやるよ」とぼそっと言ってきた優しさは今でも忘れない。笑

その後もカラオケに数人で連れていってくれて、こういう先輩になりたいと思った。

この頃から「気を遣われる」という行為にすごく敏感になった。

この経験があって、今でも異常に気を遣われるのが苦手だ。逆に、気を遣われないためにはどうすればいいか考える習慣も自然と身に付いた。

それから僕はしばらく、

不自由ない生活に加えて好きな陸上をやれている毎日が楽しいと思うしかなかった。

むしろ、落ち込んでいたら余計親が心配する。

震災前の、入寮直後ですら、母親から「宗司が毎日していた風呂洗いをしたり、好きだったカステラ思い出したら泣けてきた」みたいなメールが来るくらいだから、

そのうえ姉も亡くした両親のメンタルと自分のメンタルなんて比べ物にならない。

僕は背伸びできるほど大人じゃないし、むしろ地元の友達も親族を亡くしていたから、一周回って元気出すみたいなノリだった。

夏に宮城へ帰ったとき、地元の同級生は笑いにかえる能力まで身に付いていて、余計前向きになれた。

まじで笑いに変えるノリは助かった。

それでも一年生の頃は、震災前の幸せな日常生活が夢に出てくることも多く、朝練はメンタルがやられた。

ぼくの場合は悲しい気持ちを完全にシャットアウトしていて、現実を理解する気が無かったんだと思う。

むしろ、アスリートとして競技に影響を与えないために、そうするしかなかった。後付けだけど。

結局、やっと10年経ってじわじわと現実を整理することになる。

ふとした、姉がいない現実に落胆することもあれば、

姉が亡くなったからこそ、自分のプラスになったことは何なのか整理することも。

ここまで割と現実をズラズラと書いたけど、ここからは僕の心情。

一番嫌だったのが、変に気を遣われること。

「出身は?」
「宮城です」
「え、地震だいじょうぶだった?」

この流れが幾度となくあるわけで、
こちとら何も気にしていないのに正直に答えるだけで空気がどんよりするのが本当に耐えられなかった。

けれど質問者に悪意はないわけで。けれども、大丈夫じゃない場合の答えは用意していないわけで。

という感じで、大丈夫じゃない場合も自虐ネタで笑いに変えるか、もう会わないなっていう人には「実家は大丈夫です」ってことにしておいた。

なぜノートを書いたかって、一番は自分の気持ちの整理だけど、二番目くらいには「質問した人はこういう空気になっても変に気まずくならないでね、当事者は落ち込んでないから」を伝えたいってのもある。笑

亡くなった家族構成を正直に答えないといけない場合も、いかに空気が悪くならないようにクスッと笑ってもらえるように話すか、一人っ子ってことにするか。

酷だけど、周りの友達もこんな感じ。空気を濁さないように自然とそういう癖がついている。

大変だったねと言われることはあっても、

僕は姉と仲がよかったかって言われたら、そうじゃないから複雑なメンタルだった。笑

今はなんとなく、生きてたら仲良くなってた気がするから、良い思い出しか残っていない。

幽霊でもなんでもいいから、出てきてくれよって思うけど、残念ながらそんな心温まる話も無い。

一度、意味不明なタイミングで夢に出てきて、色々説明されるっていう不思議な夢をみたくらい。笑

生きても死んでても、とりあえず僕のなかでは毎日思い出す存在。

あなたの天然な所も、異常にお人好しなところも、僕が受け継いでしまいました。

ただ、責任感とか努力とかに関しては受け継げなかったので許してください。

あなたのように真面目に生きている自覚もありません。

正直、実家に帰る度に仏壇に線香をあげるのが面倒くさいときだってあります。

罰当たりかもしれませんが、これも許してください。

今後は、ちゃんと線香あげますんで。

マイペースで生きていく予定しかありませんが、せっかくの姉弟、これからも仲良くしていきましょう。

これからも僕がよそ見運転で死んだりしないように、守護霊おなしゃす。






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