ワーキングホリデーでの出来事(3~7ヶ月目、ミートファクトリー生活 セカンドVISA労働)
※セカンドVISA労働先の現実が理解できればと思い、写真多めに仕上げています。先にお伝えしておきます。セカンドVISAのための仕事先は安易に決めず、しっかり情報収集した上で決めるべきと実体験を元にお伝えしておきます。
パン職人になる夢を抱いてきたオーストラリア。
一秒たりともミートパイの仕事、パン職人になるために来たオーストラリアで時間を無駄にしたくないと思っていました。
なので、セカンドVISA(滞在期間の1年間延長)の権利を得るために働く仕事先選びにも変にこだわっていました。
ミートパイの原料はミート。ならば、肉に関わる仕事
そう、ミートファクトリーに決めていました。
ミートファクトリーで働いたら、ミートパイの仕事を探す上で履歴書に箔が付いて仕事も見つけやすかったり、面白い人材と評価してくれたりしないかな♪
なんて、ワクワクしていました。
(そんなことは一切なく、もっと他に大事なこと、準備しておくことがたくさんあったと、仕事探しを再会したときに痛感します。。。)
いつからセカンドVISAに向けた仕事をするかは、未定でした。
すぐパンの仕事が見つかれば、その職場で労働VISAだって、、、なんて夢も見ていたので。。。
ただ、現実は違いました。
入国早々、財布も失くし、足も痛めて、パン屋の勤め先見込みもなし。異国の地での洗礼を受け、打つ手を早速失ってしまった感あった、ゴールドコースト生活。
そのため、入国3ヶ月目という段階で動きました。
ゴールドコーストの語学学校で一緒のクラスだった韓国人がメルボルンにあるミートファクトリーの採用担当者を知っていると聞きました。
現地の担当者が韓国人とのこともあり、クラスメイトも一緒に行くとの話にもなったので、彼に到着までの担当者とのやりとは、ほぼ丸投げで進めて、あっさりと受け入れ日が確定しました。そして、住まいも用意してくれるとのこと。当時はほんとなんだかんだ運が良く進んでるなと思っていました。
そして、
メルボルンに向かいます。
メルボルンの中心街から電車で2時間半かかる田舎町にあるミートファクトリー、指示された駅で担当者が待っていました。
理想と現実の差をここでも感じます。
何か悪いことをしたのかな?と思ってしまうほど、パンチの効いた住まいでした。
「帰る!」とも「住まいを変えてくれ!」とも言えない立場、、、帰るところも、新しい住まいのアテもないんですから。。。
英語で交渉できるほど流暢に喋れない状況でもありましたし。。。
一緒に来た韓国人は別に驚いた顔もせず、すでに住んでいた韓国人たちも普通の感じ。韓国ってどんな生活してるのかなと疑問に思ってしまいました。。。
目的はセカンドVISAを早く取ること。つまり仕事をすることだ!と自分に言い聞かせて、指示された住まいでの生活を開始します。
翌日、さぁ!仕事をするぞ!!と思って職場に向かうと、
なんと仕事がないということが発覚します。。。
工場のルールとして、来たからといって仕事をすぐもらえるわけではなかったんです。。。
労働希望者は”waiting room”と呼ばれる、雇用待ち部屋でひたすら仕事をもらえる日を待つとのことでした。
(ここでも韓国人に段取りをほぼ丸投げしていた自分を後悔します。。。)
集合時間は毎朝4時でした。
なぜなら、工場は24時間稼働しているので、朝の仕事に就くにはその前に選考されないといけないからです。
選考といっても、
現場責任者が
「お前、こい。」
って感じで選んで、連れ去られるだけでした。
ほんと漫画の中の世界が現実に起きている恐怖を感じがしてました。。。
こんな田舎で(あんな部屋で)大切な時間を浪費できない!と焦った自分は、waiting roomで待ってられるかと知恵を絞ります。
日本人は我慢強く、勤勉
それだけが、海外でも客観的な価値となると思ったんです。
なので、次の日から、目立つように赤いTシャツを着て、現場責任者と目が合えば、「ジャパニーズ」と口パクをしてアピールをしました。
ほんと何やってんだよと思いつつ。。。
そして、waiting room で待つ日が1週間が経とうとした頃、
「お前、日本人だな、こい!」と言われました。
仕事をもらいます。
肉の切り方とか学んで、ミートパイの仕事に生かす仕事のスタートだ!!と気持ちを高められたのも数秒だけでした。
案内された更衣室は、
渡された道具は、
自分の配属はまさかのキルポジション。
仕事内容は、想像にお任せします。
日本人は我慢強く、勤勉が、裏めりました。。。
僕の前にこのポジションで働いていた方も日本人でした。
とても温厚な方でしたが、
「もっと稼げる次の仕事へ向かうからやめる。」
とのことでした。
何かを背負ってこられたんだろうと勝手に妄想しながら、ここでも自分は心の準備が甘かったと痛感します。
仕事はというと、
色々あって、
爪が剥がれます。打身で腕が真っ赤になります。
ポジションを変えて欲しい。など現場マネージャーへ相談した人が再び仕事をもらえたことはないらしく、耐えるしかなかったです。
辞めてしまえば、工場へ来た意味もなくなり、時間も浪費しただけで、セカンドVISAを諦めることになる。つまりはパン職人になることも難しくなってしまうため、ひたすら働き続けました。
※ちなみに、一緒にきた韓国人は冷凍庫で吊るされた肉をひたすら押すというポジションに就きましたが労働に耐えられず逃走しました。。。それから彼とは今まで連絡を取ってません。。。
ただ工場生活の中で楽しさも見つけることはできました。というか、きつい仕事だからこそ?なのか、国籍問わず目的がみんな一致している(お金稼ぎかセカンドVISA)?からか、みんな仕事を終えればフレンドリーで、色々助けてくれたりしました。
ここでは載せれないような血の気濃い友情感あるロッカーでの写真も撮ったり、笑う時は何もかも忘れてたくさん笑う!!と仲間達から学ばせてもらいましたw
この工場にたどり着いた日本人の方とも情報交換したり、韓国人は自分の悲壮感を心配して、韓国人の現場担当者に相談してくれたり。
(手がほんとに動かなくなってしまった時期があり、その時は、内臓を区分けして土管に落とすポジションについてました。。。)
そして何よりも、台湾人がなぜか必要以上に優しくしてくれました。
新しい部屋を紹介してくれたり、散髪してくれる友人を紹介してくれたり、工場を辞めた今でも連絡取り合って、(コロナ前は)お互いの国でご飯したりと、良い縁にも恵まれました。
親日ってほんとにあるんだと実感もできました。
そして、僕はこの工場で、
大切な言葉を覚えました。
工場のなかで一番最初にラインを動かすポジション(キルです。。。)だったこともあり、現場全体へ休憩と終了を報告(叫ぶ)担当にもなってました。
当時、意味をわからず休憩を知らせるために叫んでいたオースラリアスラングが、
「すもこー!(SMOKO)」
です。
僕が仕事を終える=まもなく仕事が終わるというキルポジションで共通認識されていたので、僕が仕事を終える姿が見えるとみんなが
「YEAHHHHHH!」とか「HAPPY FRYDAAAAYY!!」とか
叫んでました。その姿を見ながら先にロッカー向かうことで毎日の気休め的な爽快感を味わっていました。。。
※キルポジションが工場の最上階にあり、全てのラインがベルトコンベアーでつながっているので、他のポジションが順々に下の階に続いていました。なので僕は最上階の最上段に位置していました。
僕が仕事を終える=階段から降りてくる。ということです。
そしてついに、セカンドVISA申請に必要な労働日数を突破します。
日数達成日と同時に退職を依頼しました。
「日本人は貴重だ、行かないでくれ」と現場責任者の声を喜んでフルシカトとして、去ることにしました。
色々衝撃的すぎて思い出というかトラウマもたくさん残った生活でした。
少し去るときは見送ってくれる仲間もいたので寂しく思ったりも。二度と何があっても戻りませんが。。。
さぁ、次こそオーストラリアに来た目的、パン職人の仕事だ!と、
変に自信をつけて、シドニーへ向かいます。
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