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中間被災者として、いやただの東北好きとして

大学生になってから県外の友だちがたくさんできた。自己紹介で出身地を答えるとまずこの言葉が最初にくる

「地震大丈夫だった?」

「うん!うちは海から離れてたから特に被害はなかったよ。停電や水道が止まったりしたくらいかな・・」

もしかしたら県外の人に言わせたら被災したと捉えられるのかもしれないが、私からすると本当に被災した方に申し訳なくて自分を被災者なんて呼べなかった。

でも確かに私は10年前のあの時宮城にいて先輩たちの卒業式の準備をしていた。揺れを感じた時には世界の終わりかと思った。家族に連絡をとって身の安全を確認できた時本当に安心した。電気が止まったためテレビが見れなくてラジオで次の日に流れた「300人ほどの遺体が・・」に耳を疑った。

そこから3日後くらいに電気が戻り、1週間後すぎたくらいに水道が戻った。電気が使えない日は本当に辛かった。ろうそくで余震に怯えながら過ごしたのを覚えてる。

福島の原発が爆発した。放射能は子どもが浴びると癌になるから危ないらしい。私はまだ中学校2年生で育ちざかりだったため親に外に出て買い物に並ぶことも禁止された。

テレビから流れるポポポポーンにも飽きてきた頃、私は普通の生活に戻れていた。

そこから時が過ぎ、その日がくれば黙祷はするが常に意識するほどもなく震災は私の中で小さくなっていた。

高校に入って仲の良い友だちができた。東松島出身の子で震災以降仙台に引っ越してきたという。もしかしたら津波の犠牲になっていたかもしれないという話を聞いた時、一気に震災が私の中で大きくなった。本当にその子が生きていてよかったと思った。と同時に震災当時、私と同じように生きてて欲しいと思った人たち、そして生きれなかった人たちがいるんだと思った。

大学に入って仲の良い友だちたちができた。一人は詳しくは聞いていないが、放射能のこともあり高校から一人で宮城にきて学校に通っているという。一人は被災地出身で親を失った友だちをたくさん見てきたという。

どこまでが被災しているというのか私にはわからないが、10年前のあの震災がその後の私たちの人生に大きな影響を与えていることは間違いない。

私は私で宮城にいながら被災地に対して何もできていない思いが少しずつつのっている。

というかここまで散々震災のこと書いておきながら。

でも震災がなくても東北は好きだったとも思う。だからこそそんな東北に何か一つでも生きていく中で恩返しできたらいいなって思っている。

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