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no.14 -場所に依存した音楽から、人それぞれの感性に宿る音楽へ-

以前、NHKFMを聞いていたら、声の専門家が出演していて、歌の発声法について面白い話をしていた。

「人が暮らす環境によって、歌の発声方法がそれぞれ異なる。」ということだった。

西洋と日本の歌の発声法は、建築物や住居の素材の違いに準じて、それぞれ独自の発展を遂げたそうだ。

西洋の音楽は、教会という反響する場所、ホールが関係しているらしい。
声を大きく出すことで、響きはホールが与えてくれる。
そうして発声法としては、喉を開き、腹式呼吸による唱法が発達した。
例えば、イタリアオペラのベルカント唱法や、アフリカンアメリカンの歌は、これにあたる。

ご存知、パバロッティの歌声。

こちらは、アメリカの有名なゴズペルグループを率いるHezekaiah Walkerの圧倒的なライブ。


一方その昔の日本は、木や紙で構成された、音を吸収する環境に身を置いていた。
そうした環境では、声を大きくするよりも、響かせなければならない。
ゆえに、喉をしめて声を出す唱法が開発された。
自分で声に響きをつくることで、デットな環境でも響かせることができる。
義太夫、浪曲などを聞いていると、そうした声を出す。唸るともいう。
お寺で聞かれる、お坊さんの声明も同じ響きだ。バナナの叩き売りや、田中角栄までやっていた、あの声である。(大学時分、応援団の連中も喉をしめて発声していたが、それは喉を守る上でも大切なテクニックだと教わったことがある。)

昔、演歌歌手が海に向かって歌うことで、声を枯らす人がいた。
ダミ声や、ザラついた声、ハスキーな声を日本人は感覚的に好むのかも知れない。

現代の音楽では、そうしたハスキーな声を意図的に出している日本の歌手や音楽家はほとんどいない。日本の現代の歌手を見渡しても、ほとんどが喉を開く方法であるし、私もそうしている。
(西洋に目を転じても、トム・ウェイツくらいしか思い浮かばない。)

ここで、歌唱から音楽の多様性に目を転じてみよう。

2006年、小泉文夫氏という民族音楽の権威の存在を私は知り、世界の民族音楽、また日本の音楽のルーツとは何かを探すべく、色々聞いていた。彼がフィールドワークをして世界中で収集してきた音楽には、民族それぞれの個性があり、カラフルで魅力的だった。

マリ共和国の音楽で見てみよう。アリ・ファルカ・トゥーレという伝説のコラ奏者の伝統的な音楽。

しかし、1990年以降のインターネットの発達以後、世界の音楽は民族性を少しづつ失い、画一的なビート、そして唱法に統合されつつあるように思える。情報への自由なアクセスは、文化の画一的イメージの形成をもたらした。少なくとも2019年まではそうだった。

これは、現代のマリ共和国のヒップホップシーンで活躍する、Mylmoという人。


2020年、疫病という脅威が世界に到来した。

アメリカを発端とした"Black Lives Matter”という運動が起こった。

これを単なる人種差別に対する運動と捉えるのは、何かが違う。

疫病は、否応なく「生きること」とはどういうことかを人間に突きつける。その中で、政治的、経済的に生きることへの尊厳を奪われつつある人々をどうにかしなければならない、とアメリカのみならず、世界各国でこの運動が広がっているのが実情だ。誰でも、生きる権利はある。それが脅かされている世の中の現状に対し、人々は立ち上がっているのだ。

生と死を目の前にし、本質的な生きる上での平等とは何か、それをウイルスは人間に問うているのである。2020年、LGBTの問題も含め、人それぞれの思考や文化の多様性、それぞれの生命の色をお互いが尊重できるのか?そうした時代へと突入したように思える。

2019年までは、音楽は民族の住む集落や、各都市の場所、フェス、クラブという”場所”や”スタイル"に依存していた。音楽の構成、発声法まで、場所という環境が音楽のスタイルを決めていた。

2020年からは、音楽は、”音楽を表現する人”に回帰するのかも知れない。
その人の今まで聴いてきた音楽や、思考、思想、ビート感覚など、音楽家から発せられる音楽を人々は聴きたいと思うのかも知れない。DAWの発達と、Withコロナ時代において、集まることを禁じられた音楽家たちは、自分でプロダクションしていくことを余儀なくされ、その流れが加速していく。表現者それぞれが持つ、その人の感性に音楽が宿っていく。

大きな社会的システムに依存する世の中、例えば産業音楽・レコード会社や、架空の大きなイデオロギーを形成し人々をコントロールする時代は、明らかに終焉し始めている。疫病、環境問題という巨大な”自然”が、私たちの目の前にありありと姿を見せ始めた今日、一人一人が共存していくことに価値を見出す世になり始めた。

確かに見えてきたのは、これからの音楽は、「生きることへの肯定」だと思う。それを表現しきること、それが音楽の仕事のように思える。

最近、ダライ・ラマ氏が1stアルバムを作った。

これは、現代の声明(ショウミョウ)「三宝(さんぼう)の功徳(くどく)をたたえるため、梵語(ぼんご)または漢文の経文や偈(げ)を、節をつけてとなえること」のように思える。人間が生きていく上での大切なことを、ダライ・ラマ氏はポエトリーリーディングの形式で語っている。

自然の大きな力が、現代文明を易々と凌駕する2020年に、ダライ・ラマ氏は、生命の大きさや他者への寛容性を仏教的なスケールから我々に問うているように思える。

音楽は、お金を稼ぎ出すツールではなく、私たち個人の考えや思想を伝える、明確な「メッセージ」となった。そうした時代へ、突入したようにも感じられる。


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