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no.13 -変容する社会と文化:本質を求める音楽-

2020年4月。
私たちは、2019年には全く予想だにしなかった場所に漂着しているようだ。
世の中の風景が急速に変わりつつある。

2011.3.11の時に感じた感覚に似ている。しかし、今回は地球全体の危機である。

この70年、感染症対策が進み、時に戦争や天災の危機もあったが、我々は国家や社会システムの庇護を受け、予定を立てそれを達成するために日々を過ごしていた。
オリンピック、仕事、イベント、エンタメ... 全てが予定調和だった。

今年始まったウイルスの脅威は、私たちに「わからない」ことを日々突きつけている。自然と共生することを、自然側から求められているように思える。

「わからない」ことを「わかった気になる」ことは危険だ。
「わからない」ことに関心を持たず、むやみに三密の環境に出かけるのも危険だ。

今は、「わからない」ことの中でも、「わかってきたこと」だけを手がかりに、周囲の大切な人々、日々接する人々と「生きること」に注力していくことが肝要だ。


そうした日々の中で、表現や音楽は何処に向かうのだろうか?

2011.3.11のときのことを、ちょっと回想してみよう。

あの当時よく人々が口を揃えて言っていたことは、被災された地域において「街から色が消えた」ということだった。街は、グレーや黒などのモノトーン一色になった。実際、ボランティアとしてお手伝いさせていただいたときに見た光景は、今も心に刻まれている。

街から色がなくなると、人の心も荒廃していく。

そんな時に必要だったのが、音楽やスポーツ、エンターテインメントなど、様々な文化だった。人の心を勇気づけたり、癒したり、メンタルの安定のために欠かせないものだと思い知らされた。

あれから9年経ち、世界は感染症の危機に見舞われた。
欧米では都市封鎖が行われ、日本も緊急事態宣言が出された。

一つ私の中で、最近気がついたことがある。
これからは物事の「価値の本質」が問われる時代になるかも知れない、ということである。

この50年くらい、特にこの20年は新自由主義という思想と経済システムが世界を席巻し、効率性、短期的利益などあらゆる全てのモノや活動が数値となり、どれだけベネフィットがあるか、どれだけ貨幣と交換できるかという考えが蔓延していたように思う。つまり、そこでの物事の価値は、「貨幣によってどう交換されるか」が大事な世の中だったように思う。物事の価値の前提は、「お金」だった。「お金」自体が悪い訳ではない。それを前提とした人の考えだったということだ。

音楽においては、どれだけ音圧があって効率的に人の耳に届き、売上を伸ばすかという産業音楽=CD時代、どれだけ視覚的に素敵なPVを作り訴求するかというストリーミング時代が太平の世を謳歌したが、ここから音楽家、音楽に携わる人々のマインドは変化していくのだろうか?

しかし、そうした社会に最適だったシステムやモデルが、今回訪れた経済的危機、生命の危機によっていきなり揺さぶられ、変化を自然の側から求められているように思う。今回のウイルスの一件は、地球環境問題、生態系の問題と関係しているというウイルスの専門家の意見もある。

地球・自然と私たち人間が共生していくために、政治・経済的なモデルの変容、そして生きる上での音楽を含めた「文化」モデルの変容が求められていると、私は考える。疫病は歴史的に社会システムを転換させる契機になったという専門家の意見が多い。例えば、中世にヨーロッパで蔓延した「ペスト」は、当時権力のあった教会が人々を守れなかったとして打倒され、文化の面ではイタリアの「ルネサンス」のきっかけとなったそうだ。

ここ5年私は、現代のイギリス、アメリカの新しい音楽ばかりをキャッチアップしていたが、詞の内容はどこか退廃的で、シニカルで、サウンドも似たような音楽が多かったように思える。
イギリス社会は、新自由主義の波がもっと押し寄せている現場であり、若者の音楽からはどこか絶望感のようなものも感じていた。パンクな音楽の萌芽が見られていたが、サウンドとしては面白いものだった。

コロナウイルスは、自然の持っている荒々しさ、「死」の概念を私たちにをもたらす。私たちが「死」を意識するということは、反対に「生」を意識することである。そういう時、人はその意味を考え、発せられる言葉はより「文学的」になる。

疫病は過去に、ペストやスペイン風邪(インフルエンザ)など今まで沢山あったはずなのに、歴史的文献としては充実しておらず、ボッカチオの「デカメロン」やカミュの「ペスト」など文学作品として残っているのが興味深い。

勿論、昨今の科学の進歩は目覚ましく、今回の件は克明に蓄積され、AIによって分析され、ウイルスに対しての対策は充実していくであろう。

これから5Gの出現により、ストリーミング音源やYouTubeの音質が向上する。VRの体験も我々の想像を超えるものとなり、三密を防ぐ上でフェスやライブの収益を底上げする技術と産業になるであろう。

しかし、より我々一人一人の市井の人々の心には、より「生」の物語や音楽、絵画や記憶としての写真が必要になってくるのではないだろうか?

人々の心を勇気づけ、時に悲しみに寄り添い、癒す本質的な音楽を私たちは必要とするように思う。

貨幣は、「価値の本質」とパラレルに共存し、「価値の本質」は、お金だけでなく、「価値の本質」同士と交換されることも増えてくるのかもしれない。

「Withコロナの時代」と言われるこれからの1〜2年、文化がどう変容し、私たちに何を残してくれるのだろうか?


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