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山梨にあるテリー・ライリーのアパートでの会話

「飛ぶ鳥を見るのが好きで、音楽的なフレーズの発想が湧いてくる。
鳥がそこにいて、そして滑空してゆく」

暖かい初冬の日曜日の朝、山梨にあるテリーさんのアパートへ向かっていた。それは現実なのに、非現実的だった。2時間早く駅に着いて、私が車で来なかったことを知って、テリーさんは親切に駅まで私を迎えに来てくれるとおっしゃっていた。ちょうど朝11時45分、彼は弟子である宮本沙羅と駅にやって来た。その日、テリーさんは黄色のビーニー、マスタード色のフリースジャケットを着て鮮黄色のクロックスを履いていた。

テリーさんのアパートに行く途中、車で富士山を通った。

「テリーさん、今日の富士山は半分雪。雲が綺麗ですね」と沙羅さんが言った。

テリーさんは日本語で返事した。

「すごい。雲。はい」

テリーさんを訪れる一週間前、朝5時に、どんなお土産を持っていくのかを悩んで、頭はぐるぐる回っていた。カステラを持っていこうと思ったが、甘いものが好きかどうか分からなかった。果物も検討してみたが、彼は日本の果物の聖地に住んでいる。世界中を巡ってきた86歳の彼は、いったい何を懐かしく思うのかを想像してみた。世界のスパイスを持っていっても良いかと。翌日、わくわくしながら、目黒付近のインディアンバザーと新大久保にあるイスラム横丁にスパイス冒険へ向かった。

私:何が好きなのか分かりませんが、お土産を持ってきました。

T.R:うわー。

インド、モロッコ、パリで住んでいたことがあると拝読しましたので、それぞれの国を表しています。

T.R:優しいですね。ありがとうございます。わあ、いっぱいあります。一つを取れば良いですか?

全部どうぞ!インドのお菓子は懐かしいでしょうか。

T.R:これ大好き!ありがとうございます。全て私にくれるんですか?

その時、沙羅はキッチンでチャイを作るための材料を準備していた。

S.M:テリーさん、チャイのシナモンスティックをどこに置いていますか?

T.R:彼女は持ってきたと思う。

S.M:彼女はシナモンスティックを持ってきました?!

T.R:持っていたと思うよ。おお、ほら、見て!沙羅さん、彼女はフェンネルも持ってきた。チャイに入れてもいい。来日した後、まだフェンネルをいただいていない。インドのお店にフェンネルを買いに行きたかったので、よかった!

こちら、全てチャイの材料です。

T.R:カルダモンも買う予定だった。優しいね。お!Taj Ma Halのお茶で試してみる?インドのデリー空港に着くと、「私がTaj Ma Halのお茶を飲む」というタブラ奏者ザキール・フセイン(Zakir Hussain)の10フィートの高さのポスターがあるの!

S.M: フェンネルが開きません。

T.R:開かないの?
おーい、私が試してみる?

S.M:多分私のやり方が間違っている?わあ、すごい!

T.R:初めてあなたができないことを私ができた!自慢できる(笑)。

(笑い)

「私はラジオが好き。私にとってテレビは、想像力を十分に与えてくれない。見たくない絵が描かれている」

カリフォルニア州東部のシエラネバダ山脈で生まれたテリーさんは、わずか2歳の若さで、ラジオから「South of the Border Down Mexico Way」という曲を聴いた時に、涙が湧き出したという。音楽が人を深く動かし、感情を強く揺さぶることを、彼は直感的に掴んで「私はミュージシャンでなければならなかった」と語った。幼い頃にピアノの音に魅了され、音楽の旅を聴き覚えで弾くところからはじめた。

祖父母と一緒に暮らしていた頃、海軍軍人であった父が第二次世界大戦に行ったことをテリーさんは思い出す。リビングに巨大なラジオがあって、時間の許す限りそこで座ってずっと聴いていたそうだ。当時、ポピュラー音楽が主に放送され、クラシック音楽も流していた。彼はラジオドラマに興味をそそられ、カウボーイとミステリーの物語に心満たされたという。

会話の前半では、その年に行われた3つの演奏について語っていた。いずれも並外れ、全ては、ラーガに基づいた音楽を歌うことから始まった。何もない状態からラーガが生まれ、音楽に対する感性を築き上げる。インド古典音楽の歌唱スタイルのラーガは、700年にわたり、師匠から弟子に直接受け継がれてきた。ラーガメロディーは季節、天気、時間帯と切り離せない結びつきを持つ。即興はラーガの真髄であり、自然はインスピレーションの源流である。

インド古典音楽の心を引かれるところは、受け継がれ方である。大学で教授から楽譜を学ぶことと異なり、師匠とともに生活するという極めて親しい関係で手渡していく。ラーガの価値が違っていて、音楽を革新するのを目指すことではない。誰が書いたかは関係なく、師匠自身が歌っていたものを楽しんで、次の世代の人に継承されるとテリーさんは述べた。

26年の長きにわたり、伝説的なボーカリストのパンディット・プラン・ナートの弟子だった。1918年生まれのプラン・ナートは、「キラナラーガ」という北インド古典音楽の中では高度に洗練された歌唱スタイルの歌手である。プラン・ナートは、ラーガの先生を探すために12歳で裕福な家族を出た。偶然に、ラジオでアブドゥル・ワヒード・カーン・サーヒブの音楽を聴いたことがきっかけで、キラナ村へ向かった。そこで、6年間をかけてカーン・サーヒブに彼を弟子として受け入れることを懇願した。1947年、精神的な導師のスワミ・ナラヤナ・ギリは彼を説得し混沌としたデリーから離れ、次の5年間はタプケシュワールの洞窟でサドゥー(修験者、行者)として暮らして日々神様のために歌った。その後、カーン・サーヒブは外の世界に出て結婚して、この音楽を海を超えて広めなさいと言われたようだ。

プラン・ナートと出会った時に、テリーさんは35歳、すでに多くの音楽的な概念が定着しつつあったが、プラン・ナートの迫力のある音楽と教えに圧倒された。テリーさんにとって、音楽だけに留まらず、精神的、そして規律的にも成長できる貴重な機会だった。元々は気が向いた時、よく夜中から朝まで音楽を作ってきたが、弟子入り後、朝は早起きをして、5時間ほど練習し続けた。「彼と一緒にいればいるほど、もっと深く学びたいという気持ちだった。毎回、何かを学ぶたびに、全身の中に新たな挑戦が開く」

1986年に公開されたウィリアム・ファーリーの短編ドキュメンタリー「In Between The Notes: A Portrait of Pandit Pran Nath」を拝見した時、プラン・ナートが鳥の調性と機微に合わせて歌っていた姿に驚かされた。当時、すでに西洋音楽の世界で定評のある作曲家だったテリーさんは、プラン・ナートの声に感銘を受けた以外に、実際に何が起こったのかを聴いて理解する能力がなかったという。彼を感動させた音に、何が入っていたのか分からなかった。ドキュメンタリー中、テリーさんは35年間師匠といたにしても、歌い返すことの難しさについて述べた。

「煙を真似しようとしている感覚と近い気がする。形がないまま、あらゆる形である」

「In Between The Notes: A Portrait of Pandit Pran Nath」(1986)
ドキュメンタリーはこちらのリンクから。

「ラーガは生きている魂である。ラーガは生きている魂と意味する。朝から翌朝のラーガ、ラーガの循環。ラーガはいつも音の間にある。音はラーガを作りだし、呼吸しているかのように、体もその音である。呼吸はラーガであり、呼吸ごとに異なったフィーリングがあり、それがラーガの意味である」。

パンディット・プラン・ナート「In Between The Notes: A Portrait of Pandit Pran Nath」(1986)より 

プラン・ナートのラーガの定義を読み出した後、テリーさんの目が潤んで、少し感傷的な気持ちになったのようだ。その言葉は彼の心に深く響いたようで、彼だけが理解できるものだった。

プラン・ナートとテリーさんと沙羅さんのラーガの体験はどのように似ていて、どのような違いがありますか?

T.R: 長く付き合っていくほど、体験が深くなる。プラン・ナートは4歳からはじめた。それがラーガへの鍵であり、ラーガとは何かを理解するまでには長い歳月がかかる。彼が定義したもの、あなたが今読んだものは、簡潔な言葉で意味深いラーガの説明だ。彼は呼吸について語っていて、音楽を演奏しているとき、呼吸のフィーリングを与える。彼が歌っている時、全員がついてきて一緒に呼吸する。皆が知らないうちに、彼は観客の呼吸を掴んで、引っ張って、そして一つの音の中で全員の息を止めて呼吸を解放させる。

「特定のラーガの感覚、一つの音から次のラーガメロディーに移る時の微妙さ、それぞれの要素は口頭伝承の一部として直接に教わった。それは西洋音楽と全く異なり、一頁の楽譜に黒い円があり、それらと同じ要素を全て表現することを期待される」

ラ・モンテ・ヤング「In Between The Notes: A Portrait of Pandit Pran Nath」(1986)より 

ラ・モンテ・ヤングはテリーさんの音楽生涯において最も重要な人物とも言える。出会った時、ヤングはすでにジャズ音楽家であり、テリーさんに雅楽とインド音楽を紹介したという。1967年、ヤングのパートナーであるマリアン・ザジーラは、プラン・ナートのテープを聴いて、深く感動した。3年後、彼らはプラン・ナートがアメリカへ渡る旅を手配した。その時、テリーさんは初めてプラン・ナートと出会った。

T.R: 彼が歌うのを初めて聞いたのは、朝の5時頃だった。彼の隣に座っていたが、初めて誰かが歌う時、私の全身が彼とともに振動しはじめた。歌声の振動が非常に強力で、どこでも感じられた。サウンドシステムなしで、ただ声から体験したのは初めてだった。十分に近ければ、彼はその効果を生み出せる。

他のミュージシャンで体験したことはなかったということですか?

T.R: 決して、一度もなかった。このような効果を生み出せる歌手は多くない。彼は非常にパワフルであり、大声ではなく、彼の周りの振動は非常に強烈だった。彼と会わない限り、彼の振動はどれほどパワフルであるか説明するのは難しい。

ラーガは1日の時間、季節と密接に関係しています。プラン・ナートは朝に沢山練習したようです。朝の儀式はラーガにとってどのように大切でしょうか?

T.R: インドでは、朝の礼拝はとてもパワフルだ。朝、人々は川に行って、沐浴し、祈りとマントラを唱える。もちろん昼間も行くけど、まるで毎日生まれたように、フレッシュに新しく誕生するようだ。もし朝に礼拝すると、その日のエネルギーがはじまり、あなたを支えられる。彼はそれを指摘したが、それを決して言わなかった。彼を観察して、もし5時に起きて歌いはじめると、空気の中で特別な振動が生まれ、やりたいものを何でも支えてくれる貴重な時間になる。サーダナーという瞑想とスピリチュアルなこともやりやすくなるんだ。

どうして彼は優れた先生なのかを教えていただけますか?彼の教えの中、直接に言われていないとおっしゃっていましたが、それはテリーさんご自身に、もしくは教え方にどのような影響を与えましたか?

T.R: 彼は例で教えてくださったので、素晴らしい先生だった。何をすべきかを直接に言わなかった。彼は歌いはじめ、そして私は歌い戻す。聴いたものと歌ったものを判別し、その違いを聞き取って、彼のいる場所に行かなくてはならない。これは知識と感覚の直接的な伝達で、繋いでくる。感情的で知的なものは、歌と声の中に伝わってくる。声を教えるのは非常にパワフルであり、機械的な楽器は必要なく、自分の体、呼吸を用いる。彼が使っていたのと同じような体と呼吸、とてもダイレクトな伝わり方だ。

プラン・ナートは「音楽の純粋さと、正確に調和していることの純粋さ」にこだわっています。ラリーさんが歌っている時にどのようなフィードバックをいただきましたか?

T.R:「あなたの音程がずれている」と言われる(笑)。彼はこのアイディアを理解していないなどを強調する。実際にレッスンはどのように行われているのかを説明するのは難しいが、彼の場合に留まらず、これは口頭伝承の教え方であり、何かを読み上げたり、メディアを使って勉強したりするものではない。口頭伝承は、耳を傾けることから学び、聴き取れたものを同じような形で繰り返すこと。もしそれを試してみれば、一体どんな感じなのか、もしくはやる価値が見えてくる。これは知的なアプローチではなく、沢山の身体性のものが関わる。

外で歌うようにするなど、周りの環境はテリーさんにとって大事でしょうか?

T.R:プラン・ナートが言ったように、部屋の中に閉じ込めらるのは「行き詰まりを感じること」(突然に嬉しくなった)。外にいると、鳥のように自由であり、大自然に向けて歌える。

1970年にインドに行かれたのですが、インドとアメリカ両方の場所で教えを受けた感想を教えていただけますか?インドについて懐かしいと思っていることはありますか?

T.R:1970年に初めて半年インドに行った。それから私たちは一緒にアメリカに戻って、1971年に再び半年インドに行った。最初の2年間は彼と多くの充実した時間を過ごせた。彼が育った文化と国で教わったことは非常にパワフルだった。私はインドの社会と家族関係が好きだ。そこの匂い、街で火の気配と煙の匂いを感じられる。人々は礼拝をしていて、それはとても活気のある文化である。インドにいるとき、とても生き生きしている。

インドに行かれたとき、自分の中に何が起こっているかというスピリチュアルな源流を探求していたとおっしゃったことがありますが、日本はその延長線とも言えるのでしょうか?

T.R:日本と異なり、私は一人でここにいる。若い頃の体験はここにいる自分を支えている。ここで座って練習しているとき、インドの経験を思い出す。インドに似ていて日本に惹かれた点は、生活の中にお互いに敬意を払い、接すること。インドでは、楽器に敬意を払うことや、大切に楽器を扱うこと、ここでも当てはまる。異なる文化の中で、様々なことが重なり合い、でも日本はずっと静かだ。

佐渡島パフォーマンスへのメッセージに「佐渡島にいると新たなエネルギーを感じています」と書いていました。日本とアメリカで作曲することにはどのような違いがありますか?

T.R:来日してから、ライティングに異なった体験があると感じている。おそらく同じような経験であるかもしれない。多分、私の年齢に関わる。日本からの影響を受けていると思う。私の作品に感じていることは、よりパワフルに、よりシンプルに。さらに直接な表現を残し、必要でないものを取り除くこと。日本に来てから、自分が取り組んでいることを磨いていく。

「人生に成功する鍵はパッション。自分が好きなことをして、そしてそれに本当に集中すること。他の物事は全てついてくる。もし幸運であれば、それに向かっている道に周りの人から助けてもらったり、助け合いは必要。誰でも助けが必要である」

私:仕事のデスクの風景を撮ってもよろしいですか?

T.R: いいですよ。ごちゃごちゃだけど。

S.M: ちょっと待ってください!股関節の紙!(沙羅さんは速やかに股関節の紙を取り去っていた)。

人のために演奏するのが好きですね。聴衆が好きで、エネルギーを得られていますね。

T.R: Uh huh. そう!私はまだ生きている!(彼は本当に声をあげて、くりくりした目も広げていた)。

3人は大笑いした。

ここで瞑想したいと彼が言った。

その日、最も印象に残ったのは、テリーさんの強烈な集中力であり、彼の存在感だった。会話中で彼の目線がじっと動かなかった。今までに誰かが目を通してこれほどパワフルに伝え続けることは一度もなかった。そして、テリーさんは彼の夢を語り、進行しているプロジェクトの一部の絵を見せてくれた。かけがえのない時間を過ごした後、テリーさんと沙羅さんは私を駅に降ろし、その後彼らは沙羅さんのご両親の家にお昼ご飯に向かっていた。半年後、私はテリー・ライリーと宮本沙羅の日本初となる鎌倉でラーガレッスンに参加した。そこで勇気をもらい、私は初めて歌った。

テリーさんが聴衆をじっと観察しているのに気づいた。Sri Moonshine Ranchでテリーさんがドビュッシーについて語った取材において「我々ミュージシャンはシャーマニックであり、観客の振動を感じ取り、彼らが入ってきた時に見通せるんだ。ご飯を沢山食べたなどを感じられ、私たちはその空間を調和させることができる」

「私がそれを言ったの?アッハッハ!」
「それは本当ですか?」(Frueで有機の人参を両手いっぱい持って、散々かじっていたのを恥ずかしくて…)

「それを言ったのを覚えてない」と大笑いした。


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