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モノ書き初め。

とりあえず何でもいいから書いてみようぜ、ということで。

本当に自分が叶えたい夢とは何だろうか。
今の自分から視点を引いて離れて考えていきます。
自分の人生、それなりに楽しくとか死ぬとき後悔しない…とかはさておきもっと離れてマクロの視点で。

自分の幸せは後で考えるとして、地球の歴史目線で見たら、自分なぞあと50年くらいしたら消えてなくなる存在。異議なし。健康体のほうだと思うが100歳まで生きたいとか思わんし。
自分のいなくなった後の世界のことを考えると
『1ミリでも地球にとってプラスだった存在』
という言葉になるのかな。ミリって単位なんやねんというのは置いておいて。
日々空気を吸ったり、暮らしているだけでCO2を排出しているし、動植物の命を頂いて生きているのだということを忘れず、それでも差し引きプラスになるってどれだけ徳を積めばいいのか、途方もないけれど。
古代、村や集落という単位ができたときにそれぞれが自分の得意なことを提供して、通貨を作って価値を交換し合って…そういう時代の考え方で、私は私なりの好きとか得意で人に価値を提供できればいい。
相対化の時代で、何がすごいとかそういうことは人それぞれなのは大前提として、利己的な考えではなく、なにか大きな目的のために純粋な思いで時間をかけて作られたものには何かしらの価値があるのだと。
どこか、自分の名前を残したいみたいな欲望はあるのかもしれない。どこまでいけるかはともかく、自分や自分に関わる人を遠くに連れて行ける人間になれたら素晴らしいし、そうできたら我欲だって悪いものではないんだろう。
まぁ、どうせ死ぬのでプラスかどうかを判断するのは死ぬ瞬間の自分自身だと思っているけれど、ざっくりとそこをテーマとしよう。
自分の好きや得意や具体的な夢・目標については次回。

先週は韓国の梨泰院で悲惨な事故があり、多くの若者が命を落とした。
彼らより10年、20年と長く生きているのに、私には死というものがまだ具体的にはイメージできない。
ただ母とは歳も離れており、脚が弱ってきたり、少しずつ肩や腰が丸まってきていることに年月を感じるし、いつまでもその脛を齧っている場合ではないというのは痛感している。
死についてといえば、昨年槍ヶ岳に登頂したときの最後、よく調べずに行ったらかなりガチなロッククライミングで(Head)、
『落ちたら死ぬ』
と思い、自分が体重をかけていい石を両手両足と1つ1つ探しながら登ったたし、無事に辿り着いた山頂が狭くて、風も強くて
『風に飛ばされて死ぬ』
と柄にもなく思いそそくさと山小屋まで帰ったのが懐かしい。
また、今朝は自分と同年代の人ががんになったというドキュメンタリーを見て身につまされる思いになった。
自分だっていつ病気になってもおかしくないし、自分の身体と人生を大切にいまを生きていかないと。

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