見出し画像

自分の『感じる』を確信する

わたしはどう思ったのかな。
どう感じたのかな。
コレが自分のホントウだと思っている。
(信じている)

自分のことを自由に
表現した時に
自分以外の誰かに

わかってもらう
認めてもらう
おっけー出してもらう

という、『もらう』ところに
安心感を求めている限り

自分が自分であることから遠ざかる。

感じたのは、自分。
思ったのは、自分。

自分が感じたということは、
そこに紛れもない事実があって。

その事実を一人で確信するよりも
誰かが欲しくなる。
確信への決定ボタンを
一人では押せない。

いつからか、自分の外側に
決定ボタンを求めて生きている。


自動精算機でお支払いをするとき
おかねを入れたら
『支払い確定ボタン』は
何のためらいもなく押せる(^^)

だって、その金額分のおかね
機械に投入したんだから
後は『確定』押せば、
お支払いは完了して
お釣りとレシート出てくるし。
欲しいモノはゲットして
無事にお買い物は終了。

自分の欲しいが叶って満足(^^)

って何の不安もなくボタンを
一人で確信して押してる。


コレとおんなじ様に
自分の感じた側面を一人確信して
そうなんだな!って
決めさえすれば

完了して、満足の結末に辿り着く。


自分で決定していくしか
本当の満足にはいたらない。

自分以外の人は自分ではないのだから
ソレを感知することは
ソレが何なのか理解することは
できなくて当たり前なのにね。

確信するために何かや誰かを
頼っちゃいけないってわけじゃないけど

確信決定のボタンは自分で
押していくしかない。


頼る先を見極めていかないと
いつまでも
『もらう』るーぷからは抜け出せない。

くれない相手に憤慨しちゃったり
一人やきもきしちゃう(笑)

確信決定を自分で押せるまで
そのチカラを取り戻すまで
時間をかけても、かけなくても。


これで良いのだ!の確信は
必ずつかめるし、
掴んだ自分になってやると
決めてしまえば
それだけで道は開ける。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?