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「現実逃避」は、日常生活のストレスや圧力から逃れ、現実の問題や現実の責任を避けるために、楽しみや気晴らしを求めることを指します。

かたや「真実逃避」は、真に目覚めるための取り組みを逃げて、この世の快楽や苦しみに身を委ねたままでいることを指します。

本当の問題は真実逃避のほうだ

現実逃避はある程度なら、やればいいと思うし、実際によくやっています。
映画やテレビドラマや、旅行、買い物食べ歩きなど、またギャンブルやゲームなども含まれるでしょう。
それをすることで商売が成り立ち、生活ができるという面もあるから否定するものでもありません。

あまりにも直面している《現実》がつらくて、行方不明になったりアル中や薬中になることもあるでしょうが。
どんな道であっても、真実に至る道を理解し実行できるだけの気力や理解行動力は残しておかないといけません。
今生で達成しないとまた生まれ変わって、イチからやり直しです。

『いつまで、真に目覚めることから逃げているつもりかな?』と常に問われています。
真実から目を背けるのはいつまで、するつもりなのか?と。

真実の世界には時間も空間も存在しないから、イエスも神も無限大、私たちを待ってくれています。
もちろん私たちの心も無限大、待ってくれるのですが、肉体はそうはいきません。

時間と空間に区切られたこの世で生きていると信じる限りは、この『時間と空間の中』で、取り組むしかないのです。

私の肉体的限界はいつまでか、わからないです。
それはあなたも同じです。

世界を変える必要はない

この世・世界に対する私の解釈を変えるのです。
この世に対して、何を見たいのか?
なにを求めているのか?

あの人に対して何を求めているのか?
自分に対して、何を見たいのか、求めているのか?

以前は私が私を怖がっていたこともありました。
それは私が世界を怖がっていたのと同じことです。
自分で自分を怖がり、痛めていたのです。

肉体が持っている癖や、感情の発露を怖がること。
それは他の人へも、そう要求しているのと同じこと。

しかし、トイレでの排泄行為を人に公開しないように、ずべてをさらけ出すというのでもありません。
自他一体の理というから、人のものは俺のものというのでもありません。

いまの肉体が想像するのとは全く違う世界観から、この世を見ようとする意欲だけが必要。
その意欲こそが、イエスや精霊の声を聞きとり、イエスの聖なる目で見ることが可能となるのです。

あなたとともに、真実の世界へ目覚めるように。願っています。


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