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行路

 活字中毒というほどではないが本を読む。当然のことながら、当たり外れがある。そんなわけで外れの本の処分を考えることになる。さて、どうしようか。車はないし、手持ちするには重すぎる... なんて思っていたら、家の隣に古書店ができた。住宅街のど真ん中。ネット時代とは言え、店を構えるにはどうしたって適した場所ではないが、俺には好都合だ。

 もう何度も本を持ち込み、店主とも懇意にしている。嗜好が違うゆえ、本の話はするものの、内容ではなく主に商いのこと。開店当初は、店主の好みというか理想というか、そんな話を聞いた記憶があるが、今やすっかり本屋という生業に興味を見出されているようである。しかしながら、棚を見ると、店主の好みはしっかりと反映されており、益々充実している。

 先日、こちらの好みを知ってか「山岳本」の話題になり、語れるほど山にも登っておらず、また、本にしても、読みかじった程度であることを忘れ、浅薄な知識を振りかざした。いつものことであり、いつも反省すること。少し昔の山岳本によくある「限定本」の話になると「たまにはご褒美に大枚叩いてそんな本を手にするのもいいんじゃない」と店主は言った。

 蒐集家ではないが、三冊ある文庫はすでに手元にあるにも関わらず、一時期「上田哲農」という作家の単行本を探していたことを思い出した。ネットで買うことはほとんどないので手にする機会は古書店での出会いのみ。見つからないと思われるであろうが、不思議と見つかるのである。そして、店に足を運べば、もれなく発見もついてくるのである。

 先ほど「店を構えるには適していない場所」と書いたものの、結構人は訪れるのである。宝物はいつだって発見されるのを待ちわびているのである。久しぶりに、上田さんの『山とある日』を紐解いた。何度も読んでいるであろう「まえがき」の文章を書き留めておきたくなった。「ああ、この駄文の帰着点はここだったか」と今気付いた次第である。

 山登りへの発想は人それぞれ、いろいろとあろうが、ぼくの場合は未知への「あこがれ」が基調となっている。一つの岩壁を登る。頂上へつくと、そこにあったはずの「あこがれ」は別の山へと飛び去っている。そして、そこからふたたび手招きをする。またぼくは、その山へ彼を追う。登りついてみれば、三たび、遠くの峠へと羽ばたきをし、はるかかなたから招きはじめる。これは、いつおわるともない、追いかけごっこだった。ここに収録したものは、この終末のない追いかけごっこと、その散文的記録と感想にすぎない。

※写真は、上田哲農 作『日翳の山 ひなたの山』より。