見出し画像

Un ange passe

 「イデオロギー」という言葉を辞書で調べたら「政治・道徳・宗教・哲学・芸術などにおける、歴史的、社会的立場に制約された考え方。観念形態」と説明されていた (大辞泉)。同時に「プロパガンダ」を調べると「宣伝。特に、ある政治的意図のもとに主義や思想を強調する宣伝」とあった。イデオロギーを流布するのに使われるのがプロパガンダというわけか。一体、はじまりはいつのことだろう。

 Peter Tosh が "Everyone is crying out for peace. None is crying out for justice" と陽気なリズムに乗せ、高らかに歌っている。"Equal Rights (平等の権利)" と名付けられた曲の Peter のメッセージは「『平等の権利と正義』がなければ『平和』は訪れない」ということだが、これもイデオロギーである。物心付かぬ子供を除き、誰もが歴史的、社会的立場に制約された考え方を持っている。

 歴史という文明の経験の中に生きる教訓をさがすのは現代の流行であるが、そこに記載されているのは、いかなる強力な帝国も、富んだ国家組織も、社会制度も、かならず転覆し崩壊する事実である。文明は壮麗であろうがなかろうが、滅亡する。しかし人類は、どんな社会組織にしばられても、けっして全面的には崩れない。人は人として復元する力をもっている。それは文化的な動物だからではない。未開な自然を内部に精霊としてもっているからだ、と小さな丘の上で私はおもった -「山からの言葉 (54)」- 辻まこと

 ああ「これは辻さん自身のことだな」と書いていて気づいた。特に後半部分。病に伏している真っ只中の言葉である。自然と存分に戯れてきた方が、自然と離れざるを得なくなり気づいた自分という「大自然」。ボブマーリーは "Real Situation" で "Total destruction, the only solution" と歌っているが "Total destruction" とは、天国や地獄を生み出す、四方八方を取り囲む観念の看破のことだろう。

 無言の「自然」からもっと学ぶべきではなかろうかと常々思う。山に登り始めて30分もすれば「無言」状態が訪れるが、人とすれ違ったりすると、直ぐ様「言葉」は現れる。またひとり歩き始めると静寂が訪れる。山のように坐っても同じこと。多くの人がそんな経験をすれば言葉を介さない意思の疎通が復権するのではなかろうか。もちろん今でも行われているが、あまりにも言葉に頼りすぎている。

 「心のなかのことは、だいたいが51対49くらいのところで勝負がついていることが多いと思っている」という河合隼雄さんの言葉を思い出した。白黒つかないのが心ではなく、白黒つけないのが心の智慧なのではなかろうか。文明化以前の、ありとあらゆる可能性に「自然に」開かれた心。無数の観念を有しつつも何が起こるかわからないのは今も同じ。一寸先は闇でも、また、光でもないのである。